第24話
叩き斬った黒い卒塔婆は、辺りに満ちた怨念の気配とともに霧散する。支えを失い、重力に従って落ちてきた小柄な体を、ヨサリはしかと抱きとめた。
「遅くなってすまない。道案内、感謝する」
「もう、やぁっと来た……待ちくたびれたわよ……!」
そう言って力なく微笑むと、サザキは目を閉じ、再び雀の姿に戻ってしまった。
「ヨサリさん! ハルくん! 良かった、無事で……!」
「……話は後だな。蓮見、サザキを頼めるか」
「は、はい! ヨサリさんたちは?」
「私たちは森下を」
「――テメェ、待てッ!」
「ハル!」
ダンッ、とアスファルトを蹴る音。ハルの鋭い叫び声。
振り返れば、案の定、二階建ての建物の中へと消えていく森下と、それを逃がさんと追走するハルの背中が見えた。咄嗟に呼び止めた声には振り返ろうともせず、一直線に走っていってしまう。
ヨサリは、手のひらの上で眠る小さな雀を蓮見に預けると、ハルを追いかけて開けっぱなしのガラス扉の向こうへ飛び込んだ。
続く廊下には、既に誰もいなかった。
右側の殺風景な白い壁に並ぶ、無機質な扉。灰色の床の上にはスチール製のロッカーに、申し訳程度の観葉植物。左側の壁にあるのは閉じられたカーテンばかりで、差し込む夕日がことごとく遮られている。そのせいか、廊下はいやに薄暗く、ひんやりとしていた。
と、廊下の真ん中にある壁が途切れた暗がりから、バタバタと駆け上がっていく足音。どうやらあそこが階段らしい。
立て続けに、そこからフラリと体勢を崩しながら何かが降りてくる。
そうして、ドサッと廊下に倒れたのは。
「ハル?!」
駆け寄ったヨサリは、ヨロヨロと起き上がろうとするハルの姿に、思わず目を疑う。
「ヨ、ヨサリ、俺はいいから、追ってくれ! 二階に……!」
「いい訳あるか! お前、何があったんだ、この腕は?!」
ゆったりとした半袖シャツから伸びる左腕は、黒いモヤのような痣で覆われていた。触れればひどく冷たく、力が入っていないのが分かる。
いや、腕どころか、左半身が上手く動かせないらしい。うつ伏せに倒れた体は、床についた肘も膝も伸びきったままで、起き上がることすら難しいようだった。
はたと気が付いたヨサリは、たまらず舌打ちをする。
ハルの左腕。……今日の親睦会で、森下が執拗に触れていた場所だ。
それでもハルは、駆け寄ってきたヨサリの肩を、右腕でぐいっと突き返すように押した。
いつか見た、燃え盛る恨みの炎を宿した鋭い眼光で、ヨサリを射抜きながら。
「いいから! 行ってくれ! ここで見失っちまったら、また……!」
「駄目だ! 守るべき生者を捨て置けなど、出来るはずなかろう!」
「!」
だが、ヨサリは首を縦に振らなかった。
たとえ、どれだけ胸の奥に恨みが、憎しみが――後悔があろうとも。
この世に悪さをするものを、放ってはおけない。
生者に
その使命は、ひとえに、生者を守るためにある。
「いいか、ハル。肩を貸すから、一度外に――」
瞬間、背後にただならぬ気配を感じた。
身の毛がよだつほど冷たい、敵意と悪意。胸を刺されたかと錯覚しそうなほどの威圧感を放つ、強烈な怨念。
振り返った時には、遅かった。
「捕まえた」
「は」
不意に、背中に痛みが走る。息が詰まる。一拍遅れて、右手首と喉を掴まれ、壁に叩きつけられたのだと理解する。
反射的に閉じてしまったまぶたを開くと、そこにいたのは、二階に行ったはずの森下だった。
右腕を動かそうとすれば、足元でギッと耳障りな金属音が鳴る。右手に握った刀の切っ先が、そばにあったロッカーに擦れたらしい。
その動きを制するように、首を掴む手にひときわ強い力が込められた。己の喉から潰れた悲鳴が上がったのにも構わず、左腕で掴み返す。
……振りほどけない。こちらを抑えつける手は、女の細腕だとは到底信じられないほど力が強い。いくらもがいても、ビクともしない。
その手から伝わってくる気配に、ヨサリは全身に痛いほどの悪寒が駆け抜けていくのを感じた。
「やぁ。また会えて嬉しいよ! 獄卒さん」
「貴様……まさか……!」
森下が、親睦会の時とはまるで別人の笑みを浮かべる。
ニンマリと、三日月のように両端を上げていく口元。
その言葉を聞いて、その顔を見て、ヨサリは確信する。
「
名前を口にすれば、森下は――真墨は、フフと鼻で笑うような声を上げ、満足そうにうなずいた。
たちまち、あの廃工場での光景が脳裏に蘇る。
日記らしきノートに書かれていた、大きな手書きの文字。
――復活なされた!
……そういうことだったのか。
その「復活」という言葉が意味するのは、てっきり、二十年前のことだと――地獄からの脱獄を果たした都努真墨が、この世に戻ってきたことだと思っていた。
だが、違った。
本当の意味は、この世に戻ってきた都努真墨を降ろせる肉体が見つかった――亡者である都努真墨が森下佳純に取り憑いて、その体を乗っ取ったということだったか!
奥歯を噛んだヨサリは、視界の端にハルを捉えながら、考える。
苦しげに歪んだ表情。上下に揺れる肩。
どうにか立ち上がろうと、必死にもがいて――その左膝が、ようやく立てられたのが見えた。
……自分の足で逃げられそうか。
ならば、それまで時間を稼ぐ他ない。真墨は、こうしてヨサリの動きを抑えている限り、ハルの元へは行けないだろう。
「はは、やっぱり、すーぐ気付かれちゃった。本当すごいね、獄卒さん。まだ残ってるってだけでもすごいのに、まさか、人間に化けてまで会いに来てくれるなんて!」
喜々として言った真墨が、ヨサリを封じた手に力を込める。
「おかげで手間が省けた」
「……ッ」
途端、その手から流れ込んでくる、身を裂くほどの鋭い冷たさ。
たちまち蘇ってくる、卒塔婆に貫かれた時の感覚。
それでもヨサリは、左腕で掴み返した、己の首を掴んで離さない腕に爪を立てながら笑ってみせた。
「ハッ……何度やっても同じことだ。あの卒塔婆で、あの世とこの世を繋げようとしているのだろうが……あの程度では、獄卒は止められんぞ」
「みたいだね。君みたいな、すごい獄卒さんを使ったらどんな扉が開くのか、すっごく興味はあるんだけど……でも、君の言う通り、難しそうだからなぁ。残念だけど、それはまた今度」
身動ぎ一つも許さないほどの力でヨサリを抑えつけながら、それでいて表情は涼しげなまま、真墨はどこか秘め事のような口振りで言う。
「知ってるかい? 扉を開くのに一番適しているものが何か」
「何……?」
「お察しの通り、僕はあの世とこの世を繋げてみたくてね。簡単に言えば、この世に繋ぎ止めた魂を無理矢理あの世へ引きずり落として、あの世とこの世を結ぶ道にしてる訳なんだけど、これがまた難しくて……。だから、どうしたら上手に扉を開けるのか、色々試してみたんだよ」
……試しただと?
怒りを覚えたヨサリだったが、締め付けられたその喉が声を発する間も無く、真墨は捲し立てるように話し続ける。
「亡者や妖怪を使った時は、扉が開いても、すぐ怪異化して壊れてしまうんだ。君も見ただろうけど。多分、肉体が無いから――魂をこの世に繋ぎ止められないから、扉としての形を維持できないんだろうね。かといって生者を使うと、肉体との繋がりが強すぎて、無理矢理あの世へ引きずり落とすのが難しい。そもそも扉が開けないんだ」
コホン、と咳払いを一つ。
それから、一転して自慢げな口振りで力説する。
「そこで、考えた訳だ! 亡者と生者、両方の性質を持ったもの――この世との繋がりが弱くて無理矢理あの世に引きずり落とせる上、肉体があることで扉を維持出来るもの。それが扉に一番適してるって!」
そこまで言い終えると、真墨はそっとヨサリに顔を寄せ、その耳元へ唇を近付けた。
ほんのかすかな囁き声が、ヨサリの耳をくすぐる。
「つまり……一度あの世に落ち、この世へ戻ってきた人間だよ」
そんな希有な人間、いる訳が……いや、いる。
たった一人だけ知っている。
――ハル。
「……ッ!!」
カッと胸に湧いた衝動によって、体が跳ね上がる。が、すぐさま真墨の手によって、再び壁にドンッと抑え込まれる。
「あぁ、あの子が見たあの世は、どんなだったんだろうな?」
真墨の視線が、チラリと横に逸れた。
その先にいるのは、未だ立ち上がれずにいるハル。必死にもがきながらも、大きな瞳は真墨をキツく睨んでいる。
それにクスリと小さな笑みを浮かべた真墨は、視線をヨサリへと戻した。
底の見えない、真っ黒な瞳に覗き込まれる。
睨み返せたのは、最初の一瞬だけだった。
背筋を這い上がってくる、言いようのない嫌な冷たさ。
その瞳を間近で見ているからか、それともそれが真墨のものであるからか。親睦会の時にも感じたはずのそれは、より冷たく、より暗く、全身を凍てつかせるようで。
人に化け、この身に宿していたはずの体温と感覚が、揺らぐ。遠のく。
自分の体の境界線がひどく曖昧になって、溶けていくような心地がした。
不意に、右手首を抑えていた力を消える。
だが、腕は動かない。……どうやって動かしていたのだったか?
「君も見ていたんだろう? あの無法の焼け野原を!」
高らかに言う、真墨の声が聞こえる。
冷たいものが頬に触れ、顎を撫でられた。そこから容赦なく流れ込んでくる、得体の知れない、この身が千々に砕けるほどの、暗く淀んだ何か。
そっと顎を掴まれた感覚がして、自身の口が震え、浅い呼吸を繰り返していることを自覚する。
「荒れ果て、暴力と破壊にまみれていて……。果たして、君がこの世で斬ったものどもは、どうなったんだろうな? あんな場所に叩き落とされては、魂ごと怪異どもに食われているかもしれんなぁ」
顎に触れていた冷たさが、離れていく。
「なぁ、『幽鬼殺し』!」
声が、頭の中に響き渡る。
その冷たいものは首を伝い、鎖骨をなぞり、肩を撫で、そのまま右腕をするすると降りて――手の甲に触れた。
「形見の刀で貫いた、兄弟の斬り心地はどうだった?」
「……ッ」
あぁ、覚えているとも。
そう思った瞬間。
――ぐちゃり。
どこかで、何かが潰れる音がした。
ぼんやりとした思考のまま、音の方を見てみれば――己の右手がドロドロと溶けて、黒い泥になっていた。
握っていた刀が泥と化した指の中をドロリと抜け落ち、床に転がってガシャンッと悲鳴を上げる。
そうして右手が、右腕が、右半身が……ぐにゃぐにゃと形を失い、泥となってボタボタと崩れ落ち、床の上に黒い水溜まりを作っていく。
「ヨサリ……?」
どこか遠くから、
「ア、アンタ、ヨサリに何して……?!」
「……――」
が、次第に遠のいて、聞き取れなくなる。
直後、視界が大きく傾いて、ドチャッと鈍い音がした。床の高さほどまで低くなった視界に、あぁ、足が無くなったのだ、と悟る。
そこに、何かに歩み寄っていく、真墨の背中が見えた。
まだ辛うじて形のあった左腕で、傍らに転がっていた刀に手を伸ばす。
させるか。
私は、守らねば――。
何を?
何か、守ろうとしていたか?
――何か、守れたものがあったか?
左手は、刀に届くよりも先に、ベチャリと溶け落ちた。
瞬間、意識が暗転する。
ぼやけた視界の中で最後に見たのは、
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