第23話

 山に棲む怪異の仕業か。はたまた――どこかに潜んでいた、黒い卒塔婆の仕業か。


 意識を集中させ、辺りを探ってみれば、遠くからこちらを窺っているであろう気配が一つ。

 分かるのはそれだけだった。この歪められた道のせいか、気配はひどくぼやけていて感じ取ることが出来ない。それが何なのか、どこにいるのか……この道の出口がどこにあるのかすらも。


 地面を見つめたまま、ハルが小さくつぶやく。


「……蓮見先輩、大丈夫かな」

「お前な……少しは自分の心配をしたらどうなんだ」

「だって、俺にはヨサリがついてるじゃん。でも、蓮見先輩は……俺達がここに迷い込んだってことは、森下先輩と二人っきりってことだろ」

「……そうだな。一刻も早く帰らねばなるまい」


 どこか早口で言ったハルに、ヨサリはうなずいた。たちまち胸中に膨らんでくる、焦りと不安を感じながら。


 その時。


 ――……ーい、おーい。


 蝉の声に交じり、どこか遠くから聞こえてきた声。低くかすれた、男の声だ。


 途端、ハルが弾かれたように上体を起こす。その首が動くよりも先に、ヨサリは釘を刺す。


「振り返るな。返事もするなよ」

「……うん」


 ピタッと体を強張らせたハルは、こちらに視線だけを向け、ぎこちなく首を縦に振った。


 どうやら、先程ハルが聞いた呼び声はこれらしい。


 つくづく、同行していて良かった、と思う。もし、ハルが一人でここに迷い込んていたのなら……考えただけでゾッとする。また山に攫われるのを阻止出来ただけでも、こうして人の姿に化けた甲斐があるものだ。


「よし。では、さっさと帰り道を探すぞ。闇雲に彷徨う時間も惜しいからな」

「探すったって、どうやって?」

「正直、私にはさっぱり分からん」

「え?!」

「ので、ここはお前の目を頼らせてもらおう」

「お、おう!

 握った拳で、強張ったままの肩をトンと叩く。途端、その体から力が抜け、ハルは両手で自らの頬をパンッと叩いた。気合い十分だな。


「行きの道は覚えているな? その時無かったものを探してくれ」

「え? 覚えてねぇって」

「なら思い出せ。試験前によくやっていただろう」

「……もしかして、ドイツ語の単語の暗記のこと言ってる?」

「あぁ、それだ。どいつご」

「そりゃあ、得意だからよくやってんじゃなくて、苦手だから必死こいて何度もやってんだよ~~……頑張って思い出してみるけどさぁ~~……」


 弱気な声で言いながら「期待すんなよぉ」と眉間を揉むハル。さっきの気合いはどこへ行ったのか。


 不意に、ハルの口から「あ」と声がもれた。


「なぁ、なんかヤバそうな人影とかは?」

「……それは無視でいい」

「りょうかーい」


 さも当然のように言うハルに内心驚きつつ、ヨサリも辺りに目を凝らしてみる。が、そこにあるのは鮮やかな森の緑だけで、人影すら見えなかった。


 ハルはあちこちに視線を巡らせ、そうして視界に集中している分だけ遅くなった足取りで、終わりの見えない道を一歩ずつ進んでいく。その背後を守るように、ヨサリは竹刀袋から取り出した刀を握りしめて、一歩後ろを続いて歩いていく。


 ――おーい。おーい!


 呼びかける男の声が、次第に大きくなっているのには、互いに無視を決め込んで。


 そうして、しばらく歩いていくと。


「ん?」

「どうした」


 何かに目を留めたハルが、立ち並ぶ木々の間、ウッドチップが敷かれた道の脇に駆け寄った。


「こんなの落ちてたっけ?」


 そう言うやいなや、そこにある茂みの中へ手を突っ込む。


 拾い上げたのは、まだ若い緑色をした、扇形の葉だった。


「それは……イチョウの葉か?」


 ヨサリは思わず、既に何度も見たはずの木々をもう一度見渡す。


 この森にあるのは、クヌギやコナラといった広葉樹ばかり。イチョウは一度も見た覚えがない。


 が、首を傾げたハルがつまんだ葉を天へかざすのを見て、はた気が付く。


 ……この、慣れ親しんだ、少しひんやりとした清らかな気配は。


「もしや……水鶴神社のイチョウか」

「え? マジで?」

「この気配はそうだろう。よく見つけたな」

「あぁ、なんか、うっすらぼんやり光ってるから……光ってない?」

「……いや?」


 木漏れ日の中、二人揃ってイチョウの葉をしげしげと見つめる。


 光っている……ようには見えない。しかしハルの目には、この葉一枚どころか、茂みの中にぼんやりとした光が点々と続いているのが見えているようだった。


「もしかして……これ辿ってったら帰れるんじゃ……?」

「あぁ。どうやら道案内らしいな」

「よ、良かった~~……!」

「見失うなよ」

「分かってるって!」


 そう言いながら、ハルは喜々として道を外れ、小躍りするような足取りで茂みの中を進んでいく。


 しかしまさか、蓮見が? それともサザキだろうか? 彼ほどの妖怪ならば道案内など造作もないだろうが、親睦会の間、雀が飛び回る姿は見なかったような……。いや、どちらにせよ、ありがたい。


 などと考えながら、ハルの後を追いかけようとした、その時。


 ――おい。いくな。


 背後で鋭い男の声がした。


 途端、前を歩いていた足が立ち止まりそうになって――すぐに追いついたヨサリが、その背中を押した。チラリとこちらを見てきた不安げな視線に、大きくうなずいてみせる。今はとにかく、この道から抜けなければ。


 そうして、ハルの目に映る道案内を頼りに、茂みの中を進んでいたのだが。


 ――いくな。いくな。


 ハルの足取りは、少しずつ、少しずつ重くなり。


 ――おいて、いくな。


 ついには、立ち止まってしまった。その場に立ちすくんだまま、一歩も動かない。


「……ハル?」


 隣に立ったヨサリは、その横顔を見て呼吸が止まったような心地がした。


 血の気の失せた顔。額に浮かぶ油汗。これでもか見開かれたまぶた。大きな瞳は一点に定まらず、震えるかのように小刻みに動き続けている。


 ヨサリは無意識に、刀のさやを握った左手の親指でつばを押し出していた。


「ハル、何が見えている」

「な、何も」


 ……何も?


 ハルは瞳を揺らしたまま、唇を震わせて言う。


「何も……見えない……て、手に……」


 今にも消えてしまいそうな声に、ハルの手のひらへ視線を向ける。が、それはガタガタと震えるばかりで、何かを握っていることも、何かに掴まれていることもない。


 すると、震える手が、ゆらりと持ち上がった。


 自身の目元にそっと触れ、力なく頬を掻く。


「だ、誰かの手に……目隠しされてる……」

「なっ……?!」


 恐らく、その言葉が引き金だった。


 瞬間、ヨサリの視界に浮かび上がる黒い影――ハルの顔に手をかけて、引きずられるような格好でぶらさがっている男。そう認識した時、既にヨサリは抜刀し、問答無用でその胴を両断していた。


 直後、喉が裂けんばかりの絶叫が響き渡る。もがいた男の手に引かれ、体勢を崩したハルが頭から後ろに倒れていく。


 咄嗟に腕を伸ばし、白茶色の柔らかな髪を受け止めて。


 ――ドンッ。


 ハルの体を抱き込み、庇うように地面へ倒れた背中に走る、硬いものとぶつかった強い衝撃。


 想定外の痛みに呻いたヨサリは、背中で感じた硬さと冷たさの正体を確かめて目を見開いた。


 地面が、アスファルトになっている。


 途端、ヨサリの上に乗っていた大柄な体が、勢い良く飛び起きた。


「~~ッハァ! 見える!」

「ウグッ」

「うぉわっ、俺、ヨサリ潰しちまってた?! ごめん!」

「い、いや、大丈夫だ。それより、ここは……?」


 頭の片隅で、終わりのない森の道からは脱出出来たらしいということだけ理解しつつ、半身を起こして辺りを見渡す。


 いつの間にか、空は夕焼け色に染まっていた。


 周囲をぐるりと囲む雑木林の中、まだらに建つ人気の無い民家や工場らしき建物。港町の南側の外れ、町と山との境目の辺りだろうか。


 ヨサリたちは、どういう訳か、そこに敷かれたボロボロのアスファルトの細道の上に転がり出てきたようだった。


 と、すぐ目の前の、少し坂を登っていた先に目が留まる。


 目隠しのように植えられた街路樹の向こう、小さな駐車場の奥に、こじんまりとした四角い建物が二つ。


 左は、白いレンガ調の壁で作られた二階建て。右は、それを一回り小さくしたような、横に長い大きな一続きのガラス窓が特徴的な平屋。その間には屋根だけの簡素な渡り廊下があって、二つ並んだ直方体を繋げている。


 一見すると、何かの会社のようにも見えるが、どこにも社名らしきものは掲げられていない。それどころか、どの窓もカーテンやブラインドが閉められていて、人がいる気配すらない。


「あれは……」


 見覚えがある。


 そう思ったのが顔に出ていたのだろう、一足先に立ち上がったハルがたずねてくる。


「ヨサリ、知ってるのか?」

「あ、あぁ……。以前、『墨之会』について調べていた時に、一度だけ訪れたことがある」


 言いながら、ヨサリも立ち上がる。


 そこで、尻の下に清らかな気配のするイチョウの葉が落ちていたことに、ようやく気が付いた。


 ここまで案内したということは、やはり。


 右手に刀を、左手にさやを携えたまま、ヨサリは改めて建物を見据えて言う。


「ここは、美鷹山の麓にある『墨之会』の活動拠点だ」


 直後、ガタン、と音がした。


 見れば、左の建物の扉が開き、渡り廊下へと出てくる二人の人影。


 後ろを振り返りながら、誰かの手を引いて歩く森下。その視線の先にいるのは。


「えっ! 蓮見先輩?!」


 手を引かれ、歩いているのは蓮見だった。――おおよそ正気ではない、覚束ない足取りで。


 途端、ヨサリは走り出す。間髪入れず、後ろから足音が着いてくる。


 アスファルトを蹴り、小さな坂を駆け上がり。視界へ飛び込んできた光景に、息を呑む。


 蓮見が歩いていく先、渡り廊下の真ん中に描かれている、墨で書かれた梵字のようなマーク。


 それは、いつかヨサリが踏んだものと同じ。


「蓮見!! 止まれ!!」


 ……駄目だ、間に合わない!


 その声に一番早く反応したのは、雑木林の中から現われた小さな雀だった。


 雀は、流れ星のような速さで渡り廊下へ飛び込むと、空中で大きく羽ばたいた。途端、ポンッという軽やかな音が鳴って、小さな体が煙の中に消える。


 そこから現われたのは、栗色の短髪に千鳥柄の手ぬぐいを巻いた、作務衣姿の小柄な男。


 と同時に、蓮見の足が墨を踏んだ。


 たちまちふき出す、ビリビリと肌を痺れさせるほどの、強い敵意と悪意に満ちた怨念。どす黒いモヤをまとった墨色の卒塔婆。


 今にも貫かれようとしていた蓮見の体は、その寸前で突き飛ばされた。


「ッ、ッハァ~……やっぱり、人に化けられるって、便利よねぇ……」


 ドサッと、渡り廊下に倒れ込む蓮見。引かれていた手が離れたせいか、うつろだった目に光が戻ってくる。


 瞬間、切れ長の黒い瞳が大きく見開かれた。


「作務衣の……幽霊さん……?」

「んふ、そうよ。……初めまして、千鶴ちゃん」


 黒い卒塔婆に腹を貫かれ、ぐったりと宙に浮いたまま、男は晴れやかに笑ってみせる。


「アタシはサザキ。いつか、アナタに助けてもらった雀よ。恩返しに来たわ!」

「あ……あぁ……!!」


 呆然と手を伸ばす蓮見の目の前で、宙に浮いた体から力が抜けて、動かなくなる。


 ペリ、と嫌な音が聞こえた、その時。


「サザキッ!!」


 ようやく、ヨサリの刃が届いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る