第20話

 そこで、ヨサリの言葉を蓮見に伝えつつ、静かに話を聞いていたハルが、大きなため息を一つ。


 それから、真っ直ぐにヨサリを見つめ、今にも掴みかかってきそうな口振りで言う。


「じゃあさ、蓮見先輩のお母さんも……テルも、ソイツのせいであの世に連れてかれたってことかよ?」

「断言は出来ない。だが、私はそうだと考えている」


 ヨサリは迷いなくうなずく。向けられた鋭い視線から逃げることなく、しかと見つめ返しながら。


 たちまち「ンだそりゃ~!」と両手で髪の毛をかき回したハルを見て、蓮見も唇を噛んでうつむいた。


「奴が何を行い、何を成そうとしているのか、現状では推測の域を出ない。……それがいかなるものでも、獄卒として、地獄から脱獄したものを放ってはおく訳にはいかないんでな。だから私は、奴を斬らねばならん」


 と、言い終わらぬうちに、座卓の上に身を乗り出してくるハル。


「それ、俺にも協力させてくれ」

「……理由を聞こう」


 思わずそう返してしまってから、内心、早まったかと後悔する。


 これは、獄卒の役目だ。生者を巻き込むべきではない。


 それでも咄嗟にたずねてしまったのは、こちらをじっと見つめる大きな瞳の奥に、燃え盛る恨みの炎を見た気がしたからだ。……きっと、ヨサリの胸の奥にあるものと同じ。


 ハルは、しばし視線を彷徨わせると、目元を押さえるように両手で顔を覆いながら答える。


「実は、この前テルに会ってから、すぅ……っげぇ見えるようになってて」

「ほう。どう見えるんだ?」

「あ、あ~……えぇと……」

「何だ、歯切れの悪い。さっきまでの無遠慮さはどうした」


 すると、今度はその両手で口元を覆って、引き結んだ唇をペチペチと指先で叩き始める。


 露わになった瞳がチラッとこちらを向いたので、ヨサリはうなずいてみせた。いいからさっさと言え。


「今はもう、見えねぇんだけど。その……アンタが倒れた時、腹の傷から紐? 鎖? みたいのが、ぶらーんって……出ちゃいけないもん出てんのかと思って、ビビった。めっちゃ心配したんだからな」

「は……?」


 二の句が継げなくなる。


 反射的に、着物の襟をめくってみる。


 あの時も、今も、ヨサリの目には何も見えない。腹には、紐のようなものどころか、傷すらも無い。


 ……いや。思えば、ハルは言っていた。


 ヨサリの後を追いかけ、廃工場までやってきた時、空が黒かったから、と。


 ヨサリが黒い卒塔婆に貫かれる寸前、そっちは駄目だ、と。


 恐らく、ハルの目には見えていたのだ。ヨサリにも見えなかった、怨念や気配が可視化されたような、何かが。


 この前テルに会ってから――テルを斬ったあの時から、ということは、信じられるようになったからか。


 今まで頑なに信じず否定してきた、幽霊や魂といった、この世のものではないもの。まだ信じきれなくとも、それらを受け入れたことで、見ようとしていなかったものが見えるようになったのだろう。


「……そうか」

「うん。だから、それなりに役に立てると思うぜ。な!」

「わたしからもお願いします。わたしも、本当のことが知りたい。ハルくんみたいに見えたりはしないけど……母の死に関わっているかもしれないなら、ちゃんと全部知りたいんです。協力させてください」


 再び座卓に肘を乗せて、目を輝かせるハル。その隣からは、蓮見も身を乗り出してきて。


 期待と意志に満ちた眼差しを前に、ヨサリはうなずく他なかった。


「……分かった。では、荒事に関わらない範囲で」

「よっしゃ! 蓮見先輩、ヨサリが『存分に頼らせてもらおう』って」

「本当? 良かった、ありがとうございます」

「待て。ねつ造するな」


 たまらずヨサリはため息をつく。そんな誇らしげに笑うんじゃない。人差し指と中指を立てるな。


 ……まぁ、廃工場の一件で存分に頼ってしまった後なので、否定は出来ないのだが。


「しかし、試験勉強とやらはいいのか?」

「だぁ~っ、それは言わねぇでくれ~~」


 途端、ハルは頭を抱えて座卓に突っ伏してしまった。


「良くないのか」

「ぜっんぜん良くねぇ~~! なぁアンタ、ドイツ語分かるか?! ダンケシェーン!」

「だん……なんだって?」

「だよなぁ! 知ってた!」


 座卓の上をコロコロと転げ回る、白茶色の頭。


 見かねたのか、蓮見が相変わらず少しだけズレた視線を寄越しながら、事情を説明してくれる。何でも、母国語と英語以外の言語から一つを選んで「第二外国語」として学ぶ授業があり、例にもれず、月末に試験が行われるのだそうだ。


「ハルくんは、第二外国語ドイツ語なんだね」

「蓮見先輩は?!」

「わたしは中国語」

「あ、あ~~……っ!」


 ハッと起き上がったものの、すぐに項垂れるハル。その丸くなった背中を撫でながら、蓮見は「お互い頑張ろうね、分かる範囲なら力になるから」と励ましていた。


 ……無事に試験を終えられるよう、健闘を祈るばかりである。




 そうして、ヨサリは都努真墨つののますみの手掛かりを探し始めた。


 だが、廃工場での一件以降、目立った動きはなく。「墨之会すみのかい」に関しても、信者たちや活動拠点が見つかりこそすれ、目新しい情報は得られず。


 探せど手が届かないもどかしさに、焦りばかりが募っていた、ある日。




 夕焼け色に染まった、北城大学のカフェテリア。


 西に面した窓際の、日の当たるの席が空いているのを見つけたヨサリは、そこに座って辺りを眺めていた。


 雑然と並んだ机に座っている学生はまばらだった。差し込む夕日の熱に負けている、効きの良くない冷房のせいか。はたまた、どこからか漂ってくる香ばしい匂いのせいか。


 学生たちが向かっている机には、どの席にも教科書やノートが広げられている。聞こえるのは、冷房が風を吐く駆動音と、ノートの上をペンが走る音。それから、時折隣に座った学生たちが何やら相談し合っている、ごく小さな声だけ。


 その一番奥で、ハルは珍しく蓮見と机を囲んでいた。


 同じ大学に通っているとはいえ、学科も学年も違うせいか、二人がキャンパス内で共にいるところは滅多に見かけない。

 だが、定期試験が数日後に迫る中、ハルが「友達とやってるとお喋りも捗っちゃって……かといって一人だとつい気が緩んじゃって……」と頼んだのを蓮見が快諾し、連れ立ってカフェテリアへとやってきたのだった。


 向かい合って座る二人は、互いの前に置かれたノートに視線を落とし、黙々とペンを走らせている。


 するとそこへ、ウェーブがかった茶髪と小花柄のロングスカートの裾を弾ませながら、一人の学生が通りかかった。


 彼女は並んだ机と勉強中の学生たちの間を通り、そのままテラスへ抜けようとして――一番奥の机に座った、肩の高さで切り揃えられた艶やかな黒髪に目を留めると、引き返して歩み寄っていった。どうやら蓮見の知人らしい。


 肩を叩かれた蓮見が顔を上げると、彼女は潜めた声で話しかける。


「千鶴、こんなとこにいるなんて珍しいじゃん。彼氏ぃ?」

「違う。後輩」

「いえ。後輩です」

「んまぁ。息ピッタリ」


 揃って答えた蓮見とハルに、否定など聞こえなかったかのような、ニンマリとした笑みが浮かぶ。


 その表情などお構いなく、蓮見は「そういえば佳純かすみ、西洋史得意だったよね」と前置きしてたずねる。


「ここ、流れがよく分かんなくて。分かる?」

「どれどれ~?」


 言いながら、佳純と呼ばれた学生は広げられたノートを覗き込んだ。そうして二人は、小さな声で話し始める。


 それは、ありふれた勉強中の会話だったはずだ。


 だがヨサリは、こちらに背を向けたハルの体が、みるみるうちに強張っていくことに気が付いた。


 見えるのは、白茶色の後頭部だけで、表情までは分からない。それでも、蓮見と話す佳純を見つめているであろう視線が、ピタリと固まったまま動かないのはありありと分かる。


 不意に、蓮見がノートから顔を上げた。そこで気付いたのだろう。切れ長の目が、大きく丸く見開かれる。


「……ハルくん?」

「あ……い、いえ、すみませ、ッ」


 途端、ハルは立ち上がり、カフェテリアを飛び出した。


 蓮見が驚きの声を上げて呼び止めるが、振り返ることなくテラスへと出て行く背中。その一瞬、ガラス戸を押し開けていった瞬間、ハルの右手が口元を押さえているのが見えた。


 迷わずヨサリも立ち上がり、窓をすり抜けて後を追う。


 脇目も振らずに走っていく背中は、テラスを通り抜け、渡り廊下も走り抜け。その先にある別棟の入り口までやってきて、ようやく立ち止まった。そのまま、その場にぐったりとうずくまってしまう。


「ハル、どうした」

「ヨ、ヨサリ……ッ」


 追いついたヨサリが声をかけると、ハルはしゃがんだままこちらを振り返る。


 その顔は蒼白だった。


 それから、辺りを見渡して――しきりにカフェテリアの方を何度も見て、誰もいないことを確かめると。


「あの人、口ん中に……黒い卒塔婆、生えてる……」


 そう、震える声で言った。

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