第17話

 飛んできた鉄の塊を間一髪で避け、たちまち舞い上がった土埃に咳払いを一つ。


 現われたのは、大きな黒い獣だった。


 尖った三角の耳、二本の長い尻尾。ヨサリの背をゆうに越える体高。逆立った黒い毛からは絶えず黒いモヤが放たれ、内に渦巻く怨念をほとばしらせている。


 野の獣でも、山に住む妖怪でも、こんな姿にはなり得ない。


 これは恐らく、狐妖怪が怨念に飲まれ、怪異になったもの。先程感じた、敵意に満ちた強い怨念の正体だ。


「ウウゥゥ……!」


 牙をむき出しにした獣が、低い唸り声を上げる。


 ドスンッ、と重たそうに振り下ろされる前肢。草むらを叩いた爪が、地面を震わせる。と同時に、群がる怪異たちがぐちゃりと叩き潰された。肉塊と化した怪異は、たちまち獣の口の中へと消えていく。


 その爪から逃れていた生首の姿をした怪異が、お返しと言わんばかりに、太い毛むくじゃらの脚に噛みついた。が、すぐに振り払われ、工場の壁に叩きつけられて同じ末路を辿る。


 どうやら、怪異同士で食い合いをしているらしい。噂通りだ。


「ウゥゥ……?」


 獣の首が、ガクリと折れ曲がって、こちらを向く。


 ヨサリは腰を落とし、刀を構えた。右足を一歩下げて左肩を前に出し、両手を右腰の前へ、刀身を隠すように切っ先を後ろへ。


 ズシン。


 獣の左前足が一歩近付いてきて、体勢が地面を這うほど低くなる。


「グゥゥ……ガァァァッ!」


 唸りを上げ、重たい体を力尽くで動かすように、伸び上がる獣。振り上げられた右前足。


 その太い脚が間合いに入った瞬間、ヨサリは目にも留まらぬ速さで白刃をひらめかせた。後ろに構えていた切っ先を頭上に振りかざし、眼前へ。そうして黒い脚を斬りつけながらも、足を入れ替えて距離を取り、迫る鋭利な爪をかわす。


 べちゃ、と一刀両断された前足が地面の上に落ちた。


「グウゥウァァァッ!」


 途端、モヤをまとった黒い毛皮が輪郭を失い、巨体が泥人形のように崩れ始める。それでも獣は暴れ、爪を振り回し、牙で噛みつくのを止めなかった。


 もはや周りなど見えていないであろう、がむしゃらな攻撃をかいくぐり、どうにか斬撃を食らわせて地面へ叩き伏せる。その頃には、ヨサリも全身切り傷だらけになっていた。


「……」


 つばさやがぶつかって、チン、小さな金属音が鳴る。


 夜の色が濃くなり始めた夕空へ、黒い煙となった獣の体がスゥッと立ち上り、消えていく。


 それを見送りながら、ふと考える。


 ……どうしてこんなに大きな怪異が――強い怨念が、突然現われた?


 胸に湧いた疑問のままに、ヨサリは廃工場へと足を向けた。


 蹴り破られ、ぽっかりと開いた入り口から、そっと中を覗く。


 途端、鼻につくカビ臭い匂い。


 音もなく、生温い風が首元を撫でていく。


 工場の中は、往時の面影を残しつつも、放置された年月を感じさせる荒れ具合だった。


 薄汚れたコンクリートの壁。色褪せた貼り紙。鉄骨がむき出しの高い天井からぶら下がった電線と、折れ曲がった鉄パイプ。至る所にそのまま残された、スイッチだらけ機械や作用台。

 そのどれもが土埃を被っていたが、がらんどうの真ん中にある倒れた機械の上だけは綺麗だった。あの怪異の獣によって、今しがた倒されたのだろう。


 天井近くの高窓からは、赤みの増した夕日が差し込んでいる。その光の中では、舞い上がった土埃がキラキラと踊っていた。


 当然、人の気配はない。


 ヨサリは、残った怪異たちを斬り捨てながら、奥へと進んでいった。


 立ち並ぶ機械の間を進み、事務所だったであろう机が並んだ部屋を覗き、割れたガラスが散乱した廊下を進んで――その途中、壁で仕切られた加工場らしき場所に目がとまる。


 その壁際に、ポツンと置かれた作業台。


 やけに綺麗だ。まるで、他の場所から持ってきたかのように。


 近寄ってみれば、台の上には土埃など無く、木工用の工具と墨汁、それからいくつかの書類が置かれていた。

 表紙に書かれた「世界を変えるのは、小さな祈りから」という謳い文句と、いかめしい肖像が目を引く冊子。何かのマークを記した紙がぎっしり詰まったファイルに、無地のノート。どれも、辺りの廃れ方とは不釣り合いに新しく見える。


 試しに、冊子を手に取って、パラリとめくってみれば。


「これは……」


 有り体にいえば、宗教勧誘の冊子だった。


 団体の名前は「墨之会すみのかい」。冊子では、彼らが立教した歴史や背景、守るべき教えなどについて紹介されている。


 その信仰対象として書かれた名前を目にした瞬間、己の体からドッと嫌な汗が噴き出して、急激に冷えていくのが分かった。


 ――都努真墨つののますみ


 この名前には覚えがある。だが、どこで見たのだったか。


 全身を走る悪寒に急かされるように、必死に記憶を辿る。


 思い出せ。


 あれは確か、あの世で……。


 確か、閻魔の御前で――地獄からの脱獄者名簿で。


「まさか、こいつらは……あの世から脱獄したものを信仰しているというのか……?!」


 信じられない思いで冊子を見てみれば、「苦境に抗った革命児」だの「その変革の信念をもっていつか必ず復活なされる」だのと、世界を変える人物として丁重にもてはやされていた。

 だがヨサリからしてみれば、この世で悪行の限りを尽くし呪いをばらまいた、地獄で罰を受けるべき極悪人である。


 立て続けに、台の上にあった無地のノートを開く。


 途端、目に飛び込んできた大きな手書きの文字に、くらりと目眩がした。


 ――復活なされた!


 ……やはり、脱獄した奴らの一人で間違いないな。


 二十年前、地獄からの脱獄を果たした「都努真墨」は、この世に戻ってきたのだろう。日記らしきノートには、「お墨様」と呼ばれる霊の復活を機に、信者たちの信仰が深まっていく様子が鮮明につづられていた。


「……」


 ヨサリは小さくため息をついて、左手で刀の柄頭つかがしらを撫でた。


 人間たちが何を信じ、どう生きようが、ヨサリには関係ない。


 だが、獄卒として、地獄から脱獄したものを放ってはおく訳にはいかない。


 ならばもっと手掛かりはないか、とヨサリが振り返った時だった。


 ガタンッという物音の後、こちらへ近付いてくるガラスを踏む足音。


 荒れた廊下の先から現われたのは。


「あっ、いた! ヨサリ!」

「ハル?! どうしてここに」

「追いかけてきたんだよ! アンタが飛び出してった方見たら、何か、空が黒いから……うぉわっ?!」


 息を切らしたハルが、背後から飛びかかってきた生首をしゃがんで避ける。白茶色の頭の上を飛び越えてきた脳天めがけ、ヨサリは容赦なく刀を振り下ろす。


「さ、サンキュー……助かった~……」


 そう言いながら、ハルは半袖シャツの襟元をパタパタ揺らしつつ、のろのろと立ち上がった。


「ていうか、ヨサリこそどうしたんだよ。めっちゃ傷だらけじゃん?」

「あぁ。大狐を斬ったところでな。……良かったな、到着が遅くて」

「えぇ……めっちゃ走ってきたのに……」


 巻き込まれずに済んで何より、というつもりで言ったのだが、ハルはがっくりと肩を落とした。……まぁ、確かに骨折り損だったかもしれない。


 そこでヨサリは、これまでの経緯を簡単に話した。突然怪異が現われたので急行して斬り、その原因を――口には出さなかったが、「都努真墨」に関する手掛かりも――探ろうかと思っているところだ、と。


 すると、ハルは「ふうん?」と肯定にも疑問にも聞こえる相づちをして、首を傾げて腕を組んだ。原因といってもこんな廃工場に何があるんだ、と言わんばかりの顔である。分かっていないのはヨサリも同じなので、追及はしないことにする。


 その時。


 ハルの背後から、カタン、カタカタタ……と小さな物音がした。

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