序章 ハルとヨサリ

 沈んだ夕日の色を残した水平線の上で、夜を連れてきた星がキラキラと輝いている。


 眼下に広がるのは、今にも暗闇に溶けてしまいそうな、黒々とした海原だった。


 崖の下からは、ザァザァという心地よい音が絶え間なく響いてくる。そこにあるであろう岩肌と打ち寄せる白波は、すっかり夜の濃い闇の中にあって見えない。


 ふと吹き抜ける、柔らかな春風。鼻をくすぐる潮の匂い。


 風に遊ばれ、頭の後ろで一つに束ねた長い黒髪と、着崩した紺地の着物の裾がはためく。それをされるがままにしながら、ヨサリは一沙岬かずさみさきから臨む夕景に視線を向けていた。


 この小さな岬は、とある港町の北の外れにある。日本海に面した、真っ直ぐな海岸線から突き出た小高い崖。白波が打ち寄せる岩場には、時折、岩の隙間に隠すように置かれた花束と、それに寄り添う黒い影を目にすることがある。

 日本海を臨む絶景のために人間もやってくるが、この世のものではない「良くないもの」も集まりやすい、そんな場所。


 ヨサリがここへやってきたのも、それが理由だった。


 日が落ち、人気ひとけがなくなった崖の上を、海沿いに歩いていく。


 すると、岬の先端から少し離れた場所、崖から岩場へと降りる石階段の一番下に目がとまった。


 階段に腰掛けた、人影がある。


 若い男だった。体格よりも大きな苔色のジャケットと、癖のある柔らかそうな白茶色の髪が、ふわふわと潮風に揺られている。

 動いて見えるのは、それだけ。男自身は、首の後ろで手を組んで両足を投げ出し、ぼんやりと海を眺めたまま微動だにしない。


 その横顔に浮かぶ表情は、距離と黄昏時の暗さもあって、うかがい知ることは出来なかった。


 だが、男の周囲でうごめくものの姿ははっきりと見える。


 透けた黒い影。グネグネと身をよじる、泥のような何か。岩場の縁、水面から伸びてくる、浅黒くて生気の無い無数の手。


 一目見て、理解する。


 死してなおあの世に行けず、この世にとどまっている亡者の男。


 そして、彼の負の感情や未練に吸い寄せられ、集まってきた怪異たちだ。


 ヨサリはすぐさま石階段へ向かうと、うごめく怪異たちを見下ろしながら、腰に下げた刀へ左手を伸ばした。さやを握り、親指でつばを押し出して。


「悪いが、斬らせてもらう。……獄卒として、生者へあだなす者には容赦しない」


 そう、静かに宣言した。


 右手で刀を抜く。階段をけ下り様、勢いを乗せた刃で異形を裂き、立て続けに斬り伏せていく。


 音もなく、あるいは消え入りそうなうめき声を上げて、煙のように霧散する怪異たち。


 それを横目に見ながら、最後に残った亡者へ切っ先を向ける。


 瞬間、亡者がこちらを振り返った。


 ほんのかすかな、息を呑む音が聞こえたような気がした。


 こちらを真っ直ぐに見つめる、パッチリとした大きな目が、さらに大きく丸く見開かれる。


 それでも構わず、刀を振り下ろそうとして。


「――っえぇぇ?!」

「!」


 そんな間の抜けた悲鳴を上げるものだから、思わず手が止まった。


 亡者は肩を跳ねさせ、勢い余って腰を降ろしていた階段から転げ落ちた。そのまま立ち上がることもせず、自身を守るように両腕を顔の前に出すと、丸くなったままの目でこちらを見上げてくる。


「なっ、何っ?! 誰ぇ?! 助け……?! いやでも俺まで斬ろうと……?!」

「……亡者にしてはよく喋るな」

「アッ、それとも普通に通り魔?! いっ、いやだ、殺さないで!」


 なるほど。まともに会話が出来そうだ。ここまで自我が残っている亡者も珍しい。


 一度刀を降ろし、名乗ることにする。


「私はヨサリ。獄卒だ」

「……ゴクソツ?」

「あぁ。地獄の鬼だ。この世で彷徨う亡者を、あの世へ連れて行くのが仕事……だった」

「ハァ?! 鬼ィ?!」


 寝転がったまま器用に仰け反った亡者が、素っ頓狂な声を上げる。


 どうやら、驚きが上回ったらしい。ヨサリとしては、口から出た言い慣れた名乗りに、つい引っかかりを覚えてしまったのだが。聞きとがめられなかったことに、密かに胸を撫で下ろす。


 まぁ、当然か。知る由もないだろう。


 あの世が終わりを迎えてから、早二十年。


 あれからというもの、この世には怪異があふれている。あの世という行き場を失ってこの世に留まり、負の感情や未練によって自我を失い、やがて正気すらも失い、形を保てず――そうして「怪異」と呼ばれる異形に転じてしまった亡者たち、妖怪や鬼といった魑魅魍魎。あるいは、かつての同僚たち。

 それらを斬るのが、今のヨサリの仕事である。


 正確には、もはや仕事でさえない。


 なにせ今のヨサリは、この世へ亡命してきた、ただの一人の鬼にすぎないのだから。もうあの世には、罪を裁く者も、罰を与える者もいない。


 それでも、刀を振るう手は止められなかった。


 この世に悪さをするものを、放ってはおけない。生者にあだなすものは、退治しなければならない。それが、獄卒として守るべき使命だったのだ。


 ありのままの名乗ったヨサリに、亡者はしばらく言葉を失って、ポカンと口を開けたまま固まっていた。それから、信じられないと言わんばかりの眼差しで、ヨサリの頭の天辺から下駄の歯の先まで食い入るように見つめてくる。


「き、気付かなかった……スッゲェはっきり見えるし、どっからどう見ても人間じゃん……! 本当に、この世のもの……ではない?」

「そうだ」

「……本当の本当に? えぇえ、俺、そういうの信じないようにしてんだけど」

「そうだと言っているだろう」

「あぁでも、そっか、そうだよなぁ……んな髪の長ぇ男見たことねぇし、着物に刀なんてイカれた格好、普通の人間なワケねぇよなぁ」

「イカれ……お前、失礼な奴だな?」


 イカれた格好とは何だ。確かに現代では見慣れない格好だろうが、もう少しマシな言い回しはなかったのか。


 だが、ひとまず、ヨサリが獄卒であることには納得したらしい。ヨサリは再び刀を構え、切っ先をその喉元に近づける。


「まぁ、いい。そういうことだ。亡者は斬」

「待て待て待て待て! 待って! 待ってくれ!」


 言い終えるより早く、亡者が叫んだ。刀が近付いてきた分だけ尻で後退ると、長身の体が飛び跳ねるような勢いで立ち上がる。


「亡者? 俺が?! 俺は死んでなんかないぜ?! さっきの奴らならまだしも、何で俺まで斬るってことになるんだよ!」

「……」

「んな怖ぇ目で見んな! ほ、本当に死んでないってば!」

「……」


 逃げ腰のまま、首を横に振り、手のひらを左右に振り、身振り手振りで力説する亡者。


 その気配に、意識を集中させる。


 ……亡者の気配がするのは、確かだ。この、独特の暗い気配。


 怪異も、獄卒であるヨサリの姿も、はっきりと見えている――この世のものの目には映らないものが見えている、という点においても。この世のものではない亡者だから、と考えれば納得がいく。


 しかし、神経を研ぎ澄ませてみれば、かすかに感じ取れる別のものがあった。


 温かく、生命力に満ちていて、輝かしい。

 ……これは、生者の気配だ。


 すると、何も言わないヨサリをどう思ったのか、亡者が青ざめた顔でまくし立てる。


相楽澄玄さがらすみはる! 十九歳! 北城きたしろ大学一年! 今月引っ越してきたばっかり! 絶賛キャンパスライフ謳歌おうか中!」

「……?」


 まさか弁明のつもりか。それが生きている証拠だとでも言うのか。「なるほど、丁度その時に死んだのだな」としか思えんのだが。


 ヨサリの見立てでは、この岬で死に、それを自覚していない亡者である。


 にも関わらず、無視できないほどの輝きに満ちた、生者らしい気配がするのもまた事実で。


 ……どうなっているんだ? この男は。


 眉間へシワが寄るのを自覚しながら、声色に現れているであろう疑念を隠さないままたずねる。


「ならば、ここで何をしていた?」


 生者が理由も無く訪れる場所ではないだろう、と。


 ここは、負の想いが積み重なった、怪異たちが集まりやすい場所。そういったところに現われる亡者は、彼らに引きずられて、負の感情ばかりに支配されてしまう。自身がここにいる理由すら覚えていないことがほとんどなのだ。たずねれば、はたと気付いたように首を傾げ「何をしていたんだっけ?」と答えるのが常である。


 さて、何と答えるか。


 男は、引き結んだ唇を指で叩きながら視線を泳がせた。そうして、しばし言葉を選ぶような間があってから、おずおずと答える。


「……くじらを探してたんだよ」

「鯨?」

「そ。昔、たった一度だけ、ここで見たっきりでさ」


 言いながら、男が背後を振り返る。


 視線の先を追いかければ、見渡す限りの黒。とうに暗闇へ溶けてしまった、日本海。


 ザァァ、と打ち寄せる波の音が、やけに大きく響いた。


 こちらへ向き直った男が、その音に耳を傾けているかのような、静かな声で言う。


「それからすぐ引っ越すことになったんだけど、この四月から、こっちの大学へ通うことになって戻ってきたんだ。……だから、もう一度会えないかと思って、見に来たんだよ」


 言い終えて、口を閉じる。その、ほんの僅かな一瞬。


 ヨサリは、目の前にたたずむ男がまとう亡者の気配が揺らいだのを、確かに感じた。


「……そうか」


 男のいう鯨が何なのか、ヨサリには分からない。なにせ、この海に鯨が棲んでいるという話は聞いたことがない。


 それでも、どこか覚悟めいた男の答えは、生者にふさわしい理由だと思った。


「なぁ、俺ってそんなに死んでるように見えるのか?」

「あぁ。気配はほとんど亡者だな。だが……私にも理由は分かりかねるが、生者らしい気配がするのも確かだ」

「ふうん?」


 気の抜けた返事。男は、腕を組んで首を横に傾けていた。分かっていないな、さては。


 物事を深く考えないたちなのか、はたまた実感が無いのか。何にせよ、自身から亡者の気配がすることなど、全く気にしていないらしい。


「ならさ、生きてるって納得するまで、好きに監視してくれよ。逃げも隠れもしねぇから」


 得意げに白い歯を見せた男が、ドンと自身の胸を叩いてみせる。


「それで、俺が亡者だと確信したその時は、容赦なく斬ってくれ」


 自信満々に言って「まぁ、ねぇと思うけどな!」と笑い飛ばす。


 ――その明るさといったら!


「……」


 あぁ、仕方のない奴だ。


 ヨサリはうつむき、額に左手を当ててしばし考え込み――肺がからっぽになりそうな、深く長い大きなため息をついて。


「…………いいだろう」


 そうつぶやいてから、ようやく刀を納めることにした。


 つばさやがぶつかって、チンッと小さな金属音が鳴る。


 と同時に、笑んでいたはずの男の顔が、さらに和らいでフニャリと力の抜けた笑顔になった。それを見て、浮かべていたのは緊張で強張った表情だったらしいことに気が付く。これが、この男生来の微笑み方なのだろう。


「現状、怨霊にはなっていないようだし、怪異化する心配もなさそうだからな。しばらく様子を見てから、約束通り斬ってやる」

「よっしゃ!」


 ヨサリの言葉に、男は両の拳を握ってみせる。


 が、ふと我に返って言った。


「――ん? 今、斬るって言ったか?」

「あぁ。生者に仇なす亡者は斬る」

「だぁから! 俺は生きてるってば!」


 そうしてヨサリは、なぜか亡者の気配がする自称生者――相楽澄玄を監視することになった。

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