あの世の終わり、泳ぐ白鯨
二階堂友星
序章 一沙岬にて
序章 ハルとテル
一度だけ、
目の前に広がる黒々とした海の中から、宙へと
あぁ、きっとこのまま空へ飛んでいくんだ。
そんな馬鹿げた想像が頭に浮かんだ直後、流線形の体が背中から沈んで、水面を割るようにして立ち上った大きな水飛沫の中へと消えていく。
前後の記憶はどうにも曖昧だけれど、その光景だけは目に焼きついて離れない。
あれは確か、いつかの夏の日。
その小さな岬は、当時暮らしていた港町の北の外れにあった。日本海に面した、テトラポットが並ぶ真っ直ぐな海岸線から、ひょっこり突き出た小高い崖。灰色と茶色が入り交じった岩肌には白波が打ち寄せ、ザァザァという波の音が絶え間なく響いている。
日本海を臨む絶景は申し分ないが、観光名所というにはもの足りない、そんな場所。
というのも、岬へと続く松林の遊歩道の手前には芝生の広場があって、走り回りたい盛りの小学生には絶好の遊び場所だったのだ。
他にも場所はあっただろうに、テルは「あそこから見る海と波の音が好きなんだ」とこちらの手を引いて、必ずここへやってくる。そうして、芝生の上で走ったり転げ回ったりして。遊び疲れたら、ベンチに腰掛けて海を眺めて。それが、お決まりの過ごし方だった。
その日も、そうだったはずだ。
……どうして急いでいたんだったっけ。
それでも、痛いほどに胸を叩く鼓動と、握りしめた手のいやに汗ばんだ感触ははっきりと思い出せる。
そうやって、いつものように芝生の広場へやってきて、岬へ行こうと遊歩道を走り抜け――。
――いつの間にか、一人、見たことのない
辺りを見渡せば、松林である。けれど、笹で覆われた足元に、整備された砂利道は無い。歩き慣れた遊歩道ではないことはすぐに分かった。
見上げた木々の隙間から覗き見える空は、赤色だった。ケチャップとソースを混ぜた、母特製のハンバーグソースのような。いくら夕方遅くまで遊んでいたって、こんなに赤黒い色はならないだろう。
不意に、生ぬるい風が吹く。まとわりつくように頬を舐められ、笹が揺れる。カサ、カサ。辺りを取り囲む
風の中にあったのは、土臭さと、すえた匂いだけだった。
……潮の匂いがしない。
気付いた途端、一目散に走り出す。
行く当てがあった訳ではない。ただ、恐ろしかった。ここから逃げ出したかった。その一心で、笹を踏み折りながら、松林の中を無我夢中で彷徨った。
どれほど走っただろう。
唐突に、松林から抜け出て、視界が開ける。
眼下に広がったのは、見渡す限りの黒々とした海原。崖の下では、ゴツゴツとした岩が不規則に並んでいて、それらを削り取らんばかりの荒波が押し寄せていた。大きな水飛沫が上がる度に、ドパーンと腹の奥を揺らす波の音が聞こえてくる。
一沙岬だ、と思った。
けれど同時に、そんな訳がないだろう、とも思った。
だって、空はこんなにも赤黒いし、さっきまでの夏の暑さなど忘れてしまったかのような生ぬるい風が吹いている。何より、嗅ぎ慣れた潮の匂いを全く感じない。
だというのに、目の前にある景色、そのどれもに見覚えがあるような気がした。あぁ、帰ってきたのだと、縮み上がっていた気持ちが和らいでいく感覚すらある。
一体何が起きているのだろう。ここは一沙岬なのだろうか。一緒にいたはずのテルはどこへ――。考えれば考えるほど、現実のこととは思えなくなってくる。どこか別世界へ迷い込んだような心地で、ただ呆然と海を見つめることしか出来ない。
その時、現われたのだ。
ザァァ、と何かがさざめく音がした。
ハッとして、音の方へと視線を向ける。
赤く染まった空の下、その色を写した暗い海の上。見下ろす景色の、すぐ目の前。そこで、荒れる白波をかき分けて、何かが顔を出していた。それは、水面から伸び上がるようにして、宙へと
――現われたのは、見上げても視界に収まらないほどの、大きな白い鯨だった。
鯨は、巨体にまとわりついた水滴を輝かせながら、胸びれを広げ、細長い頭で天を
あぁ、きっとこのまま空へ飛んでいくんだ。そんな馬鹿げた想像が頭に浮かぶ。
けれど鯨は飛ぶことなく、背中から海へと沈んでいった。流線形の美しい体が水面を割り、その巨大さに見合った大きな水飛沫が立ち上る。ドーンと地鳴りのような音が響いて、身体の底から揺さぶられる。
そうして鯨は、水のカーテンの中へと消えて……いや、違う。
消えたのは、自分の視界だ。
巨大な鯨が生み出した水飛沫は、もはや大波だった。小高い崖などゆうに越えた水の壁が、眼前まで迫っていた。あっという間に視界が白一色に染まる。
頬に一滴、冷たいものが落ちてきた。
思わず目を閉じた、その瞬間。
「ハル!」
背後から、聞き慣れた、けれど聞いたことのないほど張り上げられた声がした。
振り返ればそこには、歯を食いしばった、今にも泣きそうな顔。こちらへ伸ばされた手。
――テル!
咄嗟に手を伸ばす。けれど、その指先が届くより早く、体が軽々吹き飛ぶほどの強い衝撃に襲われた。
立っていられなくなった足が傾き、浮いたかかとを逆らえない水流がさらっていく。頭から爪先まで冷たさに包まれて、上も下も分からないほど揺さぶられて。全身に殴りつけられたような痛みが走って、息も出来なくなって。
どこか冷えた頭の片隅で、大波の中で揉みくちゃにされてしまったのか、と理解する。
苦しくて。
痛くて。
それでも、最後に見たテルの顔が頭から離れなくて、もう一度手を伸ばしてみる。けれど、もうあの手がどこにあるかも分からなくて。
あぁ、もう駄目だ。
ごめん、テル。
そう思った途端、視界が暗くなって――。
――気付けば、何か柔らかなものの上で横たわっていた。
誰かに、名前を呼ばれている。何度も、何度も。けれど、その声に覚えは無い。
ぼやけた視界の中にいるのは、青白っぽい人影だった。呼びかけてみようとすると、ひどく胸が痛んだ。苦しくて咳が出た。それでも、どうにか絞り出した
すると「もう大丈夫ですよ、頑張りましたね」と、やはり覚えのない声が返ってきた。
何だそれ。そんな返事ある?
おかしくて思わず笑うと、また胸が痛んだ。
……後に知ったことだけれど、どうやら自分は、一沙岬のすぐ西にある海水浴場で倒れているところを発見され、駆けつけた救急隊に助けられたらしい。
テルは、どこにもいなかった。
警察や消防によって一沙岬周辺の捜索が行われたものの、海底から小学生の男子が発見されたという知らせは、ついぞ届かなかった。
あの日から、もうすぐ八年。
落ちゆく夕日を受け止めた水平線が、温かな色をたたえてキラキラと輝いている。
小高い崖から見下ろした岩場には、絶え間なく白波が打ち寄せ、ザァザァと心地よい波音を響かせていた。何も変わっていない。あの日から、何も。……芝生広場やベンチがやたら小さく見えることを除いて。
大学進学を期に生まれ育った港町へ戻ってきたのは、こうして一沙岬を訪れるためだった。
あの日見た白鯨が、もう一度現われてくれやしないか、と。
あの日届かなかった手を、今度こそ掴めやしないか、と。
すると、そんな胸中など知ったことかと言わんばかりに、崖下からドーンと派手な波音がした。突き上げるような振動が足の裏に伝わってくる。どうやら、ひときわ大きな波がやってきて、思い切り砕けていったらしい。
ふと、視界の端に映る、飛び散った小さな水の粒。
ほとんど無意識にそちらへ顔を向けようとして――止めた。
水飛沫を浴びた、崖の縁。そこに引っかかるようにして、ブヨブヨした灰色の何かがうごめいている。もぞもぞ、のそのそ。そうやって体を前後に動かしながら、やがてブヨブヨは崖の上へと這い上がってくる。
ブヨブヨの先に繋がっていたのは、浅黒いくて生気の無い、やはりブヨブヨした人間の
なるほど。始めに見えていた方のブヨブヨは、手のひらだったらしい。
……テルの手のひらは、もっと小さかったな。
そこまで確かめて、視線を逸らした。思わず口から溜め息がこぼれて、頭の後ろで腕を組む。
あのブヨブヨは、恐らく、見ない方がいいもの。
幽霊。怪異。あるいは、「この世」のものではない何か。
あの日砂浜の上で目を覚まして以来、どういう訳か、そういうものが見えるようになっていた。経験上、彼らに構うとロクな目に遭わない。
それでも、不意に無遠慮に、こちらの都合などお構いなしに現われる彼らを、煩わしいと思ったことは一度もなかった。
彼らの中に交ざって、いつか、テルが現われるかもしれないから。
この目があれば、きっとテルを見つけられるから。
……だから、いつでも会いにきていいんだぜ。
なぁ、テル。
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