天王山のコペルニクス ~将棋崩し界の頂点は物理学()の力で登りつめる~

吉村吉久

1-1 駄菓子屋の定理 ~三対一!近所の悪ガキ戦(前編)~

 ミーンミンミンミン――!!


 最高にウェットな蝉の音が下校時間帯の住宅地一帯を包みこんでいた。


「暑い……最近の夏って暑くない? あとさぁ……蝉の声、うるさすぎない?」


 オンボロ駄菓子屋の二階部分の埃をかぶったゲームコーナー、いわゆる「子供のたまり場」にコツ、コツと無駄に高らかな靴音を鳴らし、場違いな赤ベスト、ルネッサンスシャツにスラックスで癖の強いボブパーマ、簡単に言って歴史上の有名人物であるコペルニクス風の男が気だるそうな顔と声でひょっこりと現れる。


 身長175cm前後と思われる細身の体型、年齢は30代くらいに見える。


 まだ平日の午後3時頃だ。


 この場では不審者以外の何物でもあるまい。


 男の顔立ちは、鼻筋が秀麗に整ってはいるが癖のある垂れ眼につり上がった口角で、勝気なオーラを醸し出しているが、彼にとってはどうやら自然体のようだ。


「昨日さ、アレクサとさぁ……口喧嘩とかしてるうちに三回バナナ買い物かごに入れられて結局さ……一つ注文しちゃったし……隙あらばすぐバナナぶち込んでくるアレクサって酷くない?」


 男は、明らかにこの場が初めてではない迷いのないムーブをしながら独り言を呟く。


 昭和時代からありそうなゲーム機が、蝉の声を掻き消すようにレトロな音を鳴らし続け、人気ひとけといえばせいぜい端っこの4人掛けテーブルにタムロするランドセルを置いた小学生高学年くらいの男児女児4人組ぐらいだ。


「藤井、オマエ大したことねーな。将棋でおれらボコったからって調子こくなよコノヤロー、負けたらヤングドーナツ3人分、オゴリだからな!」


「そんな……わたしはこんなの初めてやるし……」

 

「……おい、あれ……なんかやべぇオッサンいるぞ……」


 少年の一人が「彼」の存在に気付いたようだ。


「……うわ……あれって音楽室のベートーベンじゃね? なんか夏なのに長袖だし、カツラくさいし、コスプレかよ」


「……目がイっちゃってるし、関わらない方がいいぜ……どっちかってとショパンとかに似てね? 知らんけど。昼間からいる変なオッサンとかだいたい犯罪者だからな……」


 彼らのひそひそ話に気付かず、赤いベストの男はおもむろに飴のクレーンゲームの前で足を止める。


 明らかに男の子3人が女の子1人をいじめているような空気だが、男がおもむろに彼らに声を発する。


「ボーイたちさぁ、アメ、獲っていい……?」


「えっ……?!」


 不穏な空気の中、小学生たちが驚く声が聴こえるや否や、飴のクレーンゲームを勝手に開始する男。


 10円玉を次々入れては三本指のクレーンでコーラやフルーツの飴玉を次々と鷲掴みにしてかっさらい、5枚目の時点で既に30個以上の飴が彼によって無造作にビニール袋にぶち込まれていく。


「アメってさぁ……ヒデトたちがボーイたちの頃って、学校で絶対禁止だった。だからさ、本当ここで食べるアメって、特別。そう……プライスレスだって、思うの」


 ヒデトと名乗る男はやたらと流暢な英語の発音をしながら気取ったポーズでテーブルに飴を4つ置いていく。


 彼にとっては小学生たちへの差し入れのつもりなのだろう。


「おっさん、それ……全部ヤングドーナツ……?!!」


 男のビニール袋の中身は大量のヤングドーナツが詰め込まれ、そこの隙間に飴玉が入っていて窮屈なことこの上ない状態だ。


「おっさんじゃないよ……ヒデトはヒデト。明智あけちヒデト。ヒデトこれ、大好物だから……悪い? 別によくない?」


「マジかよ! 独占じゃん。じゃあ藤井が負けてもこれ買えねーな」


「良い歳して何やってんだよ、おっさん」


 テーブルの上には木製の薄い将棋盤と、木製の駒でまさに「将棋崩し」をしているところだった。藤井と呼ばれている短髪の少女が明らかに押されている。


 次は藤井少女の手番らしく、手を盤に伸ばそうとしている。


「何って、これ、資本主義じゃん。カネある人がさ、好きなもの買って、何か悪い? 別に悪くなくない? って――えっ……?!!」


「ひぃっ!」


 突然何かに憑かれたような大声を出す明智ヒデトなる男に、驚く小学生たち。


「ヒデト思うんだけど……それってさぁ、もしかして「将棋崩し」やってない? あとさ、これも思うんだけど……もしかして、今、イジメ? 3対1? みたいになってない……違う?」

 

 どうやら明智は「思うんだけど」と言う際にアンニュイな表情で眉の上に中指と人差し指を当てるのが癖らしい。


 藤井と呼ばれている少女が明智に答える。


「うん、わたしが普通の将棋で3対1でやったら、勝っちゃったから、じゃあ別の勝負にしようってことになって、そしたら挟み将棋でも勝ったから、次に将棋崩しでって……」


「でもさ、藤井サクラのヤツ、西小(板橋西小)で将棋が一番強いってことで調子こいてんだよ。だから勝負して勝ったらヤングドーナツ俺らにオゴって、この駄菓子屋に「二度と入るなネクラ」って言ってやろうと思ったんだよ。悪いかよ……」


 明智が盤上の状況を整理する。


 現時点で三人組の得点は王、玉、歩3枚で34点、サクラ――藤井ふじいさくらの得点は角、歩4枚で9点。確かに明らかにサクラの不利だ。


 つまり、この時点で既に勝利条件の3分の2を三人組が確保しているということになるということ。


 ちなみに将棋崩し競技の権威である「日本将棋崩し協会(NSKK)」での公式ルールでは王が16点、玉が15点、飛角が各5点、金銀桂香が各2点、歩が各1点の合計101点を取り合い、先に51点を取った側が勝ちとなる。


 そんな協会があるのかという話だが、大変残念なことに2025年8月現在、そんな協会がいつの間にか設立されて存在しているのだ……!


「じゃあさ、ここからサクラの方にヒデトが入るから、勝負再開ってことにしない? 勝ったら、ヒデトのドーナツ全部あげるし、ヒデトもガールもここに二度と来ないから。逆にヒデトが勝ったら、ヒデトの言う通りにする。そういうことでさ……良い?」


「正気か、このオッサン……?! 34対9でもう殆ど勝負ついてるじゃんか。良いぜ! マジでおれら、それ全部取るし、お前ら出禁にするからな。ヤングドーナツも全部もらう」


「オーケー、良いぜ。ヒデトがまず取る「手本」っての見せてやるからさ、かかって来いよ……」


(えっ……なんかこの場の状況、勝手に決められてるし……)


 サクラは勝手に自分が巻き込まれている理不尽さに戸惑いを隠せないながらも、どうにもならない事情から明智を信頼し、そのまま黙って席を立った。


 かくして明智が座り、少年3人組との対局が開始・続行される。



0ターン目 後手 吉田・山田・前田:34点 王玉歩3 

1ターン目 先手 藤井桜→明智ヒデト:9点 角歩4


「そう、ユー、先手だったの……まずヒデト思うんだけど、先手ってさ、むやみに攻めちゃダメ。後手って必ず「山」作るとき仕掛けてくる。例えば、もうボーイたちが王と玉持ってる、これ意味分かる……分からない? あと椅子、小さい……小さくない?」


「そりゃ、男なら二つタマあるわなぁ」


「ギャハハハハハ!!」


 少年たちの野次を無視した明智は中指を突き出し、中央の山の中央で斜めになっている飛車に指を突き入れる。


「明智さん、それ、危ない……」


「飛車が倒れるぞ、鳴れ、鳴れ!」


 だが音は鳴らない!


 明智の指の動きは駒との間にいわば万有引力を結んでいるよにも見える、華麗な捌き方といえた。


 中指は成人男性の平均ともいわれる8cmを遥かに上回る13cmぐらいはあるように見えた。爪は長めのいわゆる「女爪」をしているにも関わらず、しっかり切り揃えられている(ちなみに、人差し指の成人男性の平均は7cm程度といわれている)。


「たまらないよね。この安っぽいカバの駒の立ち具合、感触。崩しってのはこうでなきゃ……黄楊ツゲみたいな高級な駒だと勝手に滑るしさ、あれってさぁ……ヒデトとしてはナンセンス」


 将棋崩しでは通常の将棋とは間逆に、漆塗りの駒ほど滑って使えないと言われる。


 将棋崩しでの協会公式の対局ではカバの駒を使用し、指定された大きさの箱を使って山を作り、かつらの盤を使う。


「ヒデトこれも取るから。これさ、遊びじゃなくて、戦いからだから……この位置がさ、天王山。普通の将棋でいう5五。ここ取ったらね、すぐに天下取れる。つまりさぁ、これでリーチ、ってことだよね……」


「おい……ウソ……だろ?!」


 盤の中心で、斜めになった飛車が同時に下の横に立っている飛車を巻き込むようにして、さらに山を二枚の駒が抜けると、落ちている銀を回収していく。飛車2枚と銀の3枚が一気に手に入った。


 鮮やかな指捌きの一方で音は一切鳴らず、盤から駒5枚が静かに盤外へと落ちていく。


1ターン目 先手 明智ヒデト:21点 飛飛角銀歩4

1ターン目 後手 吉田・山田・前田:34点 王玉歩3


「くそっ、あのオッサン、なんて指の長さ、それにあの動き、なんで山が崩れないんだ……!」


「ボーイたち……慣性の法則って知ってる? あ、ハハッ、ちょっと小学生に物理の話とかアーリーだったね」


「落ち着け、山田、おれがなんとかあの残りの角の山を取る。ほとんど勝ちだろ。オッサンにできるんだから。おれだって……!」


 ローカルルールでは音が鳴らない限り次の手を指せるものもあるが、協会の公式ルールでは、駒を取った時点で「手番終了」となり、攻撃側が必ず交代となることになっている。


 しかし、まだ少年たちが押しており、余裕の表情だ。


 ――が、明智は眉一つ動かさず、フレミングの法則の構えをした左手を頬に当てながら、余裕でニヤニヤと少年たちの手番を眺めているだけだ。

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