第3章 第30話 ムワン
カルとスイレンの激しい応酬が続く中、戦況は徐々にスイレンへと傾いていた。
スイレンの攻撃は時折カルに命中し、その度にカルの身体は激しく揺らぐ。
一方で、カルの技はまるで空を切るようにスイレンに届かない。
「くそっ!なんで!」カルは悔しさに声を荒げた。
その問いにスイレンが余裕の笑みを浮かべて答える。
「怨獣になっても魔法は使えるってことを、忘れてるんじゃないか?」
その言葉にカルはハッとする。
彼の脳裏に閃光のように蘇ったのは、以前スイレンが作り出した渦潮の中から脱出した際に編み出した技だった。
「そうだ……!あれなら……!」
カルは決意を込め、前脚を高く掲げる。
力を込めた声が空間に響き渡る。
「Skyward Surge!(スカーイウォーッ サァージュ)!」
彼の全身に驚異的なエネルギーがみなぎると同時に、山羊の姿のカルが閃光のようにスイレンへと突進した。
その速度と勢いに、スイレンも反応しきれない。
ズドォォン――!
カルの突進がスイレンを直撃する。
狼の怨獣は大きく吹き飛ばされ、床に叩きつけられた。
その衝撃でスイレンは咳き込み、しばらく動けないでいる。
しかしカルもまた、全力の突進に自分自身の身体が耐えきれず、ふらつきながら地面に脚をつく。
「はぁ……はぁ……これで……!」と息を整える暇もなく、次の瞬間、何かがカルの首を締め付けた。
「……え?」
カルが目を見開いて前方を見やると、そこにいたのは――蠍だった。
「蠍……?」
だが、それは単なる蠍ではない。
蠍の巨大な爪と尾を持つ怨獣――それはスイレンが新たに変身した姿、Escorpião(シュクルピアオン)だったのだ。
「ハハハ!どうしたカル!」
蠍の姿になったスイレンは嘲笑を浮かべながら、カルの首をその鋏で締め付ける。
「お前は確かに魔力の天才だが、戦術がまるでなっちゃいない。
忘れたか?俺の怨獣モードは狼(ロ゜ーブゥ)だけじゃないんだよ!」
カルは必死にもがくが、蠍の力は圧倒的だった。
「さあ、降参しろ。駄々っ子みたいに騒ぐのはもう終わりにしたらどうだ?」
スイレンの声は冷静でありながら、どこか挑発的だった。
カルは悔しさで歯を食いしばりながらも、どうすればこの状況を覆せるのか必死に考え始める――。
カルは息を切らしながら吠えるように叫んだ。
「言っときますけど、僕は闇の魔導士なんかにはなりませんよ!
イェシ姉と約束したんですから!立派な魔導士になって人を助けるって!」
その言葉に、スイレンは蠍の鋏を振りかざしながら嘲笑を浮かべる。
「まあ、そのイェシ姉が俺なわけだがねえ。俺はイェシカで、人助けをしようとしてるんだけどねえ。
まだ疑ってるのかい?俺がイェシカであることを。信じたくないってわけかい?」
スイレンの声は嘲りと優しさが奇妙に混じり合っていた。
「なら、もっと信じがたいことを言ってやろうか?」
スイレンはそう言うと、無機質な蠍のモンスターは甲高い声で謎めいた音を発し始めた。
「モウヤラン!ムワン!」
カルはその唐突すぎる奇声に目を丸くして、「え?」と間の抜けた声を漏らす。
禍々しい巨大な蠍のモンスターは続けざまに高音で叫んだ。
「モウヤランーモウヤランー!」「ムワン!」
その奇声は場違いすぎて、戦いの緊張感を一瞬で霧散させた。
「2025年1月9日――俺たちは些細なことで喧嘩をした。そして、お前は悲しみのあまり『ムワン!』と言って部屋を飛び出していった」
カルはスイレンの言葉に耳を疑った。
「ムワン、ですって?」
スイレンはニヤリと笑い、「そう、『ムワン』。多分お前は『もうやらん!』と言いたかったんだろうが、涙声で感情が昂ぶってて、そう俺には聞こえたんだよな?」
カルの脳裏にその記憶が鮮明に蘇る――あの日、師匠のイェシカと喧嘩し、部屋を飛び出した最後の瞬間。
「……確かに、そうだ……言った気がする」
衝撃に打ちのめされたカルは震える声で問いかける。
「もしかして、もしかして本当に……あなたはイェシカさんなのかい?イェシ姉なのかい?」
スイレンは軽く肩をすくめ、いつもの冷ややかな表情で言った。
「だから何度も言ってるだろう。俺、闇の魔導士スイレンは、かつてお前の師匠だった光の魔導士イェシカだよ。
間違って日本魔導士連盟大阪支部に迷い込んで拘束されていたお前を解放し、そのまま弟子にしたイェシカだよ。」
カルはその場にへたり込み、地面を見つめたまま呟く。
「ホンマやったんや……さっきも確信したつもりやったけど、ホンマやったんや……」
戦意を喪失したカルは山羊の怨獣(カプリコーニュ)の姿を保つことができず、魔法美少年の姿に戻ってしまう。
その姿はどこか儚げで、先ほどまでの凛々しさは失われていた。
その時、不意に轟音が鳴り響く。スイレンが驚愕の表情を浮かべた。
「うわ!しまった!!」
二人の激闘に熱中しすぎて、魔導空間がとっくに消えていたのだ。
彼らの技がビルを直撃し、建物全体に損傷を与えていたことに気付いたスイレンは慌てて立ち上がる。
「まずい!中にいる人を助けないと!」
スイレンはカルを振り返るが、カルは地面に座り込んだまま、三角座りで肩を落としていた。
「……いや、いい。もう何もかもどうでもいいんです」と弱々しく呟くカル。
その姿を見たスイレンは呆れたように肩をすくめると、スイレンもまた魔法美少年の姿に戻り、静かにカルを抱き寄せた。そして、その唇に優しくキスをする。
「赦せ。またゆっくり話そう」
そう告げると再び狼の姿へと変身し、ロ゜ーブゥ ・ソオンブラ(光の魔導士の呼び方だとシェーイドゥ・ウォーウフ)たちを召喚した。
「お前たち、28階以上のフロアにいる人を全員救出しろ!」
力強い命令を下すと、スイレンはカルを背中に乗せ、繭のような魔法の膜で包み込む。
そのままビルの斜面を疾風のごとく駆け降りていくスイレンの姿は、闇の魔導士としての威厳と矜持を同時に感じさせた。
カルは繭の中で呟いた。「……イェシ姉……僕は……」
その声はかき消され、ただスイレンの疾走だけが夜の闇に溶け込んでいくのだった。
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