食罪
@azuma12
第1話 カナトdiary
小さい時、よく見たヒーロー特撮番組。僕は、その偶像に憧れた。
困っている人を助けるヒーロー。僕もそんな風になりたいと漠然と思っていた。
「叶登くんもなれるって!」
僕が特撮を見ていると弟はキラキラした目で言ってくれた。だから、僕はせめて3人の弟妹たちを守れるヒーローになりたいと思った。
――現実は、フィクションよりも残酷だと知らなかったのだ。
※
「じゃあなぁ、琴音」
中学校の校舎裏、僕は毎日のようにいじめっ子たちに呼び出されて物をたかられていた。
「あはは! こいつ、泣いてるよ!!」
「チョーウケる!」
今日はお小遣いを盗られてしまった。学校にお金を持ったいくのは本当はダメだったけど、昨日いじめっ子たちに「お金を渡さないと小学校に通う妹を殴る」と脅されて、怖くて言われるがまま持参したのだった。彼らは僕から財布を奪い取ると中身を取り出して笑い合っている。
「なんだ2千円かよ、しょっぺーなぁ」
「まぁいいじゃん。カラオケ行こうよ!」
「だな! じゃあアキラたちも誘うか!」
「いいねぇ!」
もはや僕の存在になんて見向きもせずに、彼らはゲラゲラ笑いながら財布を地面に投げつけて去っていく。僕はやるせない気持ちで財布を拾い、カバンにしまった。
※
僕、琴音叶登は憧れのヒーローになるどころか、学校生活カースト最下層の立場にいる。
友達もいない。勉強もできない。運動もできない。喧嘩も強くない。僕自身には何もない。
それでも僕は家では4人兄弟の長男として役割がある。
末っ子の弟である希己くんのお世話だ。希己くんは僕と10歳離れた4歳児で、僕はそんな彼の世話を任されている。
僕ら4人兄弟はみんな父が違う。でも、僕にとって弟妹はみんな大事な家族だ。僕は希己くん、中学2年生の伊織ちゃんは小学4年生の百加ちゃんのお世話を担当している。
……のだけど、僕はこの弟にいつも苦労していた。
家に帰ってきて宿題をしようとリビングの机に広げたのだけど、早速希己くんにシャープペンシルを取られてしまう。
「希己くん、シャーペン返してくれる?」
「やだ! 叶登くんがとってみて!」
「えー、僕宿題しないといけないんだよ」
「いいの! んなことしないであそぼ!」
希己くんはとても賢い子だけど、無邪気で悪戯好きだ。僕が困るとわかっていて、こうやって僕を試している。
でも、宿題はしないわけにいかない。ただでさえ勉強は苦手なのだ。宿題までサボってしまったら、もう僕の通知表は目も当てられなくなってしまうだろう。
「そう言われても……」
僕が遊ぶのを渋った時だった。
ソレが、始まった。
「ちょっと、それはダメ! 食べちゃダメ!!」
「へ?」
希己くんは、僕のシャーペンを口に入れたのだ。
希己は4歳になっても何でも物を口に入れた。彼の中でスイッチが入った瞬間に、手元にある物を食べるのだ。
シャーペンなんか口に入れたら、喉に刺さるかもしれない!
慌てて希己くんの手から取り返そうと手を伸ばす。
「希己ちゃん!!」
でも、その前にお母さんの怒声が響き、僕の動きは止まった。
怒鳴ったお母さんはドカドカと大きな音を立てて希己くんの目の前まで来た。
バチン!!
お母さんの平手打ちの勢いで、希己くんの小さな体が飛んだ。
お母さんは鬼のような形相で希己くんを見下ろしている。その目には慈愛の感情なんて一切含まれていない。
希己くんは涙を滲ませながら赤くなった頰を小さな手で撫でた。
「お母、さん」
「希己ちゃん、何でいつも同じことするのかしら? それ、やめなさいって言ってるわよね?」
「だって……ノゾミ……」
「だって?」
何か理由を言いかけた4歳児の言葉を、お母さんの声が遮る。
その瞬間に、お母さんの腕が希己くんの細い首にかかった。
「ご、あ」
「3歳児検診でも問題ないって言われた! 保育所だって手がかからないって言ってるわ! なのに何でお母さんの前ではいつも悪い子なの!? お母さんのこと嫌いなんでしょう!? そうなんでしょう!!?」
「うっ……ち、が……」
「お母さん、や、やめ……」
弟の首を絞めるお母さんに制止の声をかけたいのに、怖くて声が掠れる。こんな小さな声では目の前しか見えていないお母さんには届かない。
声も、手も、足も、何も動かない。まるで金縛りにあったかのように目だけが動いて彼らの動向を見続ける。
「ねぇ、希己ちゃん。お母さんの言うこと、聞いてくれるわよね? お母さんのこと好きならできるわよね?」
「う……ん」
「そう、いい子ね」
お母さんは満足したのかパッと希己くんの首から手を放す。希己くんはゲホゲホと咽せながら必死に酸素を求めた。
お母さんは僕にも、希己くんにも見向きもしないでキッチンの方へ向かって行った。僕は、お母さんがいなくなってはじめて金縛りから解放される。
「だ、大丈夫?」
小さな肩を上下に大きく動かしながら必死に呼吸する弟に、何とも陳腐な言葉しか投げかけてあげられない。
「だ、あ、だいじょーぶ」
ハーハーと息をしながら、希己くんが笑う。
僕は、そんな彼をただ見る事しかできなかった。
※
長女の伊織ちゃんが次女の百ちゃんと一緒に帰ってくると、お母さんは仕事に出掛けて行った。お母さんは近くのスーパーでレジ打ちのバイトをしている。大体16時くらいから20時までだ。お父さんは仕事の後飲んでくる事が日課になっており深夜帯に帰ってくることが多いから、平日のこの時間は僕ら兄弟だけが家にいる。
お母さんに怒られても希己は数分もしたらいつも通りの調子だった。僕にシャーペンを返すと、遊ぶのを諦めて特撮の録画を静かに見始めた。
「わ、叶登くん勉強してるの?」
お母さんと入れ違いで帰ってきた伊織ちゃんが僕が机に向かっているのを見て声を上げた。
「宿題だよ。……全然進まないんだよね」
「 そっか。希己はいい子にしてた?」
「今日はシャーペンを齧ってたよ」
僕が歯型のついたシャーペンを見せると、伊織ちゃんは露骨に眉間に皺を寄せた。
「普通はさ、もう何でも口に入れる年齢じゃないよね?」
「うん……お母さんも最近手が出るし、どうにかしたいんだけど」
どうにかしたくても原因がわからないからどうしたらいいのかわからない。
前に飴を渡しておいてそれを食べるように伝えていたけれど、どうも食べ物に固執しているわけではないようで、効果がなかった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
「何?」
伊織ちゃんも僕の向かいに座り、机に数学のワークを広げ始める。そんな姉に百ちゃんがランドセルを放り投げてから近寄ってくる。
「ポリキュア見ていい?」
「宿題は?」
「今日ない!」
「ならいいよー」
「やった!」
百ちゃんはぴょんぴょん跳びはねながらテレビの方へ向かった。テレビは希己くんが特撮を真剣に見ている。
「希己、邪魔」
「えー、後10分で終わるから待って」
「やだ!! 貸して!!」
百ちゃんは大きな声を上げると置いてあったリモコンを操作し、特撮を途中で止めた。
急に止められた4歳児はそれを許容できるキャパを持っていない。彼は衝動的とも言える速さでツインテールにしていた百ちゃんの髪の毛を思いっきり引っ張った。
やばい。
「ああああああああああああああああああああああああああああん!!!!!!」
百ちゃんの絶叫が響き渡る。
それを聞いて慌てて伊織ちゃんが「もう、仕方ないなぁ!」と言いながら立ち上がった。そしてすぐに2人の間に入り、距離を取らせる。
「だから暴力はダメって言ってるでしょ!!」
かなりの力で引っ張ったらしい。希己くんの手の中には百ちゃんの髪の毛の束が握られていた。
「あああああああああああああああああああん!!」
「ほら痛がっているでしょう? 百加にごめんねは?」
「……ごめん、なさい」
伊織ちゃんに怒られて、希己くんは目を伏せながら謝罪をする。でもその視線は百ちゃんではなく、抜き取った髪の毛の束にあった。
そして、希己はその髪を口の中に放った。
「……」
泣き叫んでいた百ちゃんも、ポカンと口を開けて声を出すのを止める。
髪の毛を食べるのは、はじめてだった。だから……僕らは「これも食べるのか」と呆気に取られてしまったのだ。
希己くんは本当に何でも口に入れるんだ。僕のシャーペンも、お母さんの口紅も、お父さんの手袋も、伊織ちゃんの消しゴムも……百ちゃんの髪も。
どうして? 何を訴えているの?
君は、何を言いたくてそんなことをするんだ。
「気持ち悪い」
伊織ちゃんが無意識にポツリと呟いた。
「あっ」
伊織ちゃんがハッとする。百ちゃんも、希己くんも、しっかりその言葉を聞いていた。
「い、いや、ごめん! 違うの、希己! ごめん!!」
無意識なその言葉は彼女の本心だろう。
希己は、そんな姉をじっと見つめ、絞り出すように「ごめん」と言った。
※
希己くんは幼児なので20時に寝かしつけをしている。寝かしつけと言っても布団に入れて、自分も横に寝そべるだけだ。そうしていると、後は静かに眠りについてくれる。
でも、今日は一緒に布団に入る気になれなかった。
ずっと引っかかってはいるのだ。希己くんが何でも口に入れるのをやめられない理由が、全然わからない。一応、兄弟なのにどうしてこんなにも理解できないのだろう。
「……叶登くん、ねぇ、寝ないの?」
もう眠たくなってきたのだろう。目を平らにしてボソボソと希己くんが尋ねてきた。
「まだ宿題終わってないんだ。これ終わったら寝るよ」
「んー……」
「ねぇ、希己くん。どうしてダメって言われても何でも食べちゃうの?」
本人に聞いてわかることかわからないが、それでもこのままわからないままではいたくなかった。
希己くんは「えー?」と首を傾げる。
「わかんない。でも、なんか、いいなってなる。ほしいなって」
欲しいからって食べる?
というか、そもそも姉の髪の毛とか欲しいだろうか。
聞いておいて理解できずに困っている僕を見て、希己くんは一度唇を噛み締めた。それからゴロリと寝返りをうち、僕から視線を外す。
「ノゾミって、きっとキモチワルイんだと思う。フツウじゃないんだよね」
弟の言葉に、僕は何も言えなかった。
「気持ち悪くないよ」と、一言伝えてあげられたらどれだけ良かったのだろう。でも、その言葉は喉を通らない。
「……ノゾミ、どうしたらいいのかな」
消え入るように呟くと、希己くんはそれ以上何も言わなくなった。
僕はそんな彼の寝転ぶ後ろ姿に、何一つ兄らしい言葉をかけることができない。優しく撫でてあげることもできない。
希己くんが生まれてから、家族が変わった。
お母さんは元々少し難しい性格だったけど、希己くんが生まれてから怒鳴るようになり、手をあげるようになった。
新しいお父さんは家にいない日が多い。いても僕ら上3人はいないようにあしらい、唯一血の繋がりのある希己くんのことは叩いたりする。
伊織ちゃんはみんなに優しくしようと頑張っているが、何でも食べる希己くんを本当はキミ悪がっている。
百ちゃんは希己くんへの拒絶をあらわにしており、伊織ちゃんへの依存を強めている。
何でこんなに歯車がかみ合わないのだろう。どうして笑って過ごすことが難しいのだろう。
……希己くんは、何を思っているのだろう。
※
「あああああああああん!! 希己のばか!!!」
百ちゃんと希己くんのいつもの喧嘩が始まった。土日は僕ら兄弟は4人で遊ぶことが多く、今日もみんなで折り紙をしていた。
最初は4人で和気藹々とやっていたけど、僕も伊織ちゃんも中学生だ。幼児の希己くんや小学生の百ちゃんレベルの折り紙は飽きてきてしまい、2人で学校の話をして盛り上がっていた。
その最中に百ちゃんが希己くんの折り紙の鶴をぐしゃぐしゃにしてしまった。希己くんは、伊織ちゃんに手伝ってもらって作った鶴をダメにされて怒ったのだろう。無言で百ちゃんの頭を叩いた。
当然、百ちゃんは大泣きする。するとベランダでタバコを吸っていたお母さんが、スタスタと近寄ってきた。
母親が近づいてきただけなのに、僕らは一瞬で静まる。緊張が走った。
「希己ちゃん」
「な、何?」
「あなたが泣かせたの?」
「それは、その、ご」
ごめんなさいを言い終える前に、希己くんの小さな体が吹き飛ぶ。
お母さんは躊躇なく希己くんの体を蹴飛ばした。ゴロゴロと転がる希己くんにさらに追い討ちをかけるように踏んづける。
「ゆ、ゆるして……ねぇ、お、お母さん」
ボロボロと大きな涙の粒を落として、希己くんが懇願した。
希己くんの体はどんどんとアザが増えていた。でも、彼は色素が薄く日光が苦手なため夏場でも長袖を着用している。そのためなのか、保育所にもアザは気づかれていないようだった。
「ダメよ。だって希己ちゃんダメって言ったこと何回もやるでしょう?」
「やんない! もうやんない!! 痛い……痛いの……お母さん……」
「ダメ。百ちゃんに意地悪をしたんでしょう? だったら希己ちゃんも痛い目見ないと」
「だって……だって、百加ちゃんが……」
「ママ、モモ、何もしてないよ!」
「え……」
いや、ケンカの発端は百ちゃんが希己くんの折り紙をぐしゃぐしゃにしたことだ。
でも当然、当事者の百ちゃんは自分を庇う。そして、事情を知る僕も伊織ちゃんも、何も言えなかった。
希己くんは僕らを真っ赤な瞳で凝視しているだけだった。
「知ってる。悪いのは希己ちゃんでしょう?」
「……そんな……だって……」
「はい、どうぞ。食べなさい。そしたら許す」
た、タバコ!?
お母さんは希己くんを踏むのをやめると、吸い終えたタバコを彼の手に握らせた。
希己くんはチラリと僕らを見る。でも、僕ら3人、誰も声すら発せられなかった。
それにどう思ったのだろうか。
希己くんは、そのタバコを口の中に放った。
「んっゲホゲホ! オエェ!!」
何でも口に入れるけれど、何でも食べられるわけではない。
ゴホゴホと咽せながら、希己くんは吐き出さないように口を必死に抑える。その様子を、お母さんは満足げに笑って見ている。
「百ちゃん、希己ちゃんのこと、許してあげようね」
「う、うん」
何だ、これ。
何なんだ、この世界は。
おかしいってわかっているのに。酷すぎるって思うのに。
僕は自分の弟すら助けられず、立ち尽くすしかできなかった。
※
日に日に、僕の家族は歪になっていった。
お母さんは些細なことで希己くんを叩くようになった。もう、希己くんが何をしただとかは関係ない。ちょっとイライラしている時に希己くんが通りかかっただけで怒鳴り声をあげて叩くのだ。お父さんも、それに興じて希己くんを叱るのだ。
僕らは、ただその様子を傍観するだけだった。僕は末っ子の彼を可哀想だと思うけれど……自分が両親の標的になるのが怖かったのだ。ただでさえ、学校でもいじめられているのに、ここでも罵声を浴びせられたら……僕は、生きていける気がしない。
「叶登くん、叶登くん」
「な、何?」
洗濯物を畳んでいると希己くんがモジモジしながら名前を呼んできた。両親は顔とかには怪我を負わせないから、長袖長ズボンを着ていれば全く怪我は見えない。でも、僕はその見えない部分にどれだけ怪我を負っているのか知っている。知っているのに……何もしてあげられない。
「えっと……あのさぁ……これ、あげる」
「え?」
「それだけ! じゃあ、ノゾミ、テレビ見てくるから!」
希己くんはそう言うと僕に2つ折にされた紙を手渡してそばから離れていった。テレビは今、百ちゃんがポリキュアを見ている。希己くんはその隣に座って一緒に女の子が活躍するアニメを見始めた。
僕はその後ろ姿を確認してから、渡された紙を開く。
かなとにいさんへ
いつもありがとう。
せんたくとかごはんとか
ありがとう
かなとにいさんはのぞみにとってひーろーだよ
のぞみ
特撮ヒーローが好きな彼が、僕をヒーローと言う。
その言葉が、とても苦しかった。
だって、僕は何もできていない。君がそんなにアザだらけになっても、何一つできないのに……なのに、僕は……。
「叶登くんも手紙もらったんだ」
僕が手紙を見つめていると、伊織ちゃんが女子分の服をたたみ終えてこちらに来た。お母さんはご飯は用意してくれるけど、洗濯と掃除は僕ら長男長女の仕事だった。伊織ちゃんは小学生の頃から僕のことを手伝ってくれている。
弟妹たちから見て、立派なお姉ちゃんだと思う。
なのに、彼女は苦しそうな顔を浮かべていた。
「私もさ、前、希己から手紙もらったの。いつもありがとうって」
「そうなんだ……」
「私はね、希己のこと嫌いなわけじゃないの。でも、怖いって思う時があるんだ。それにね、希己を庇ったらきっと私がお母さんの的になる。私ってひどい姉だよね」
ああ、伊織ちゃんも同じ気持ちだったんだ。
何で彼女にこんなことを言わせてしまうのだろう。
何でこんなに頑張っている伊織ちゃんに、悲しい顔をさせてしまうのだろう。
「わかるよ、僕も怖いんだ。希己くんが何でも食べることも、標的になることもて……お母さんが変わっていくことも」
僕は何もできないから、怖いんだ。
でも、それでも……こんな弟妹たちをこれ以上悲しませたくない。
「伊織ちゃん、1つだけ約束しようよ」
「約束?」
「僕たち兄弟は、ずっと家族でいようね」
もっと強くなるから。
強くなって みんなを守れるようになるから。
伊織ちゃんは僕を真っ直ぐ見つめ……笑った。
「うん、約束だよ、お兄ちゃん」
彼女に「お兄ちゃん」と呼ばれ、僕は兄として彼らを守る決意を固めた。
※
やった、やったよ!!
今日の僕はいじめっ子たちに奢れと言われたが、遂に「嫌だ」と言うことができた。
もちろん、反抗をすると彼らは怒りに任せて殴りかかってきたが、でも頑なに反抗していると諦めて去って行った。
遂に勝った!
勝ったと言えるのかわからないけど、やられっぱなしだった僕にしてはかなりいい方向に一歩進めただろう。
今度は家でも……頑張るんだ。
そう覚悟を決めて帰宅する。「ただいま」と言うが返事はなかった。
「いい加減にしろ!!」
その代わり、聞いたこともないような怒声が家中に響く。
キッチンの方からだ。
「私はお前みたいな化物産んだ覚えはない!!」
怒声に遅れてドンドンとものすごい音が響く。
僕は大急ぎで靴を脱ぎ捨てて鞄を肩にかけたままリビングのドアを開けた。
リビングには仁王立ちのお母さんと、床に座り込む希己くんがいた。床には割れたコップの破片が飛び散っている。希己くんは腕が真っ赤に腫れ上がっており、口の中が切れたのか口から血を垂らしている。
「ご、ごめ、ごめんなさ、……」
嗚咽をもらしながら、小さな弟がお母さんに謝る。お母さんはそんな実の息子を冷たい目で見下ろしていた。
「お、お母さん、どうしたの?」
「あら、叶登くん。お帰りなさい」
意を決してお母さんに問いかける。お母さんは希己くんを射殺すような目で睨みつけたまま僕に話した。
「希己がね、私のコップを割って食べてたのよ。だから躾しているの」
し、躾って……。
お母さん、やりすぎだよ。そう伝えたいのに、僕の口は震えて何も言葉が出なかった。弟の腫れた腕を見ればわかる。反抗したらお母さんは僕のことも平気で殴るのだろう。
「お、お母さん……ごめ……なさ……うっ……うぅ」
ガリ。
涙を流しながら、希己くんは自分の爪を齧る。ガリガリ。何度も何度も齧り、爪が剥がれてそれを飲み込む。
「ごめんな、さ」
「そうやって何でも口に入れるのをやめなさいって言ってるのよ。人間は何でも食べないのよ」
お母さんは早口で捲し立てるように言うとキッチンまで歩いて行った。
「希己くん、大丈夫?」
「お母さ、ごめ」
お母さんがいなくなったのを確認して、僕は彼の前にしゃがむ。
パニックになっているのか希己くんは何度も何度も「お母さんごめんなさい」と呟き、僕の声には反応しなかった。僕はとりあえず彼を落ち着かせるために背中をさすってあげる。
「私だって、私だって頑張ってるのよ」
「え?」
背後から、ヌルリと人影が迫る。
声に振り返ると、お母さんが涙を流していた。そして、その両手で包丁を握っている。
「お母、さん?」
「私だって頑張ってるのよ!! 何でわかってくれないの!? 何でフツウにできないのよ!?」
お母さんがヒステリックに声を荒くした。その声に希己くんが怯えて「あっ」と肩を震わせる。
僕も、金縛りにあったかのように体が動かなかった。指一本動かすことができない。お母さんの『躾』は、もう殺意へと変わってしまっている。
ど、どうする。
目の前には泣きながら包丁を構える母。
背後には嗚咽を漏らして震える弟。
怖い。こんなに怖かったことはない。いじめられている時だって、命の危険を感じたことはなかった。でも、この血の繋がった母は、明確な殺意を隠すことなく僅か4歳の子どもにむけているのだ。
僕は、どうしたらいいーー?
どうしたらいいのか悩んでも、答えなんてできない。どうしようもない。だって、僕なんかは……。
「にーに」
ふと、こんな時に生まれたばかりの弟を思い出した。
「にーに」と僕にしがみつく弟は、身体に傷を負いながらも僕に笑いかけた。
「かなとくん」
少し大きくなると、伊織ちゃんやお母さんのように僕を名前で呼ぶようになった。 初めて名前を呼んでくれた日のことを、僕は鮮明に覚えている。あの日はお父さんがヤケ酒していて、希己くんを蹴飛ばしていた。僕はそれを眺めることしかできなかったのに、希己くんはニコニコ笑って僕に抱きついた。
「大丈夫だよ、叶登くん」
いつからかは忘れてしまった。でも、いつの間にか「大丈夫」と言いながらガリガリと爪をよく噛むようになった。両手の爪はいつも噛んでいるから爪切りで切ったことがない。
嗚呼、そうだ。
はじめから、そうだった。
ずっと、僕を呼んでいた。
すっと、言っていたじゃないか。
「いたくないよ」
そうやって笑って、自分の中で感情を押し殺して。
本当は、ずっと「助けて」って言っていたじゃないか。
「もう、希己くんのこと傷つけないで」
「か、な……とくん……?」
僕は、小さな弟の前に庇うように立った。
足はバカみたいに震えている。心臓が耳にあるのかと思うくらい心音がうるさかった。
「……何で、希己の味方になるのよ」
お母さんの声が、聞いたこともないくらい低い。僕は恐怖に支配されながらも、絶対に弟を守るという気持ちだけで何とかその場に仁王立ちしている。
「お母さんが、悪いと思うからだよ。希己くんはまだ4歳だよ? 失敗だってするよ」
「1回じゃないわ。何度も何度も同じことをするのよ」
「それは、仕方ないことだよ」
「……昨日、ソイツはミミズを食べたのよ?」
「……」
「その前は、猫の死体を齧ってたのよ」
「……」
「化物よ、ソイツは」
自分の息子をそこまで言うのか。
いや、僕たち兄姉だってこの弟のこと怖がって見放していた。
でも、今日僕は変わるんだ。この子を……救って見せるんだ。
「ほ、包丁をしまわないなら、警察に電話するから」
お母さんが僕を睨む。怖い。こんなお母さん見たことがない。
「か、叶登……くん、の、ノゾミ、大丈夫、だ、よ……だ、だから」
「大丈夫。僕が守るから」
心配しないで。
そう言おうとした時だった。
お母さんが急に動き出して、そのまま包丁を
突き刺した。
視線を落とすと、刃が僕のお腹に減り込んでいる。ゆっくりと手でそこを触れると生暖かい血がべっとりと手についた。
血だ。
僕の血。
僕の、お腹が、サ、ささレテいる。
「お母……さん」
「私を悪いって言った、お前が悪い」
痛い。
痛い。
痛い痛い痛い!!!
僕が痛みを感じた途端、お母さんは強引に包丁を引っこ抜く。そうかと思うとまた、お腹を刺し
「お、かあ、やめ」
「私は悪くない私は悪くない私は悪くない私は悪くない!!!!!!」
痛いやめてやめてよ痛い!!!
何度も何度も感じたことのない痛みが迫ってくる。僕は抵抗することもできずに何度も何度もささササささささ。痛い痛い痛いいたいイタイよイタイイタイ!!!!
嗚呼、でも、そうだったんだ。
希己くんはずっと……痛かったんだ。
「ずっと、痛かっ、たよ、ね。ごめ、ね」
「いたくない!! いたくないいたくない!! ちがう!! ごめんなさい!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!!」
家族なのに、誰1人助けようとしなかった。
今まで、助けてあげられなくてごめんね。
「……希己、幸せに、な、てね」
最期くらい、君のヒーローになれたかな。
※
※
「叶登くん……」
叶登くん、動かなくなっちゃった。
死んじゃったの?
お腹からすごい血がいっぱい……。ねぇ、起きてよ。どうしたらいいの? 救急車?
「あはは、希己ちゃん、お母さん殺しちゃった……ごめんねぇ。もうね、叶登くんとはいられないわ」
……。
そうなんだ。死んじゃったんだ。
でも、大丈夫。
「ずっと、いれるよ?」
「え?」
「ノゾミ、いやだよ。叶登くんいないの、いやだ。ずっといるの。だからね、お母さん、食べたらいいんだよ」
「お前、お兄ちゃんまで食べるの?」
そうしたら一緒にいられるから。
食べたら、叶登くんと一緒になれるから。
お母さんが、またノゾミを冷たい目で見ている。わかっているよ、またノゾミのことバケモノだって思ってる。
「ノゾミのこと、殺すつもりだったんでしょう? そんなにいやなら。殺していいよ」
「……」
お母さんは、動かなかった。ノゾミを殺そうとしないで包丁を床に落とした。
ノゾミはまだ暖かい叶登くんの、動かない手を握る。大きい手。いつも、洗濯とか料理とか、頑張ってくれた手。ノゾミを助けてくれた手。
「叶登くん、ごめんね……これからずっと、ずっと、ノゾミといてね」
いつだってテレビの中のヒーローはカッコよかった。
「やっぱヒーローカッケェ! あ、カッコいい!!」
「あはは、希己くんは口が悪いね……」
大好きな叶登くんと、大好きなヒーローを観るのが好きだった。叶登くんもヒーローが好きで、いつも目をキラキラさせていた。
「ノゾミもヒーローになるんだ! ねぇ、叶登くんもなるんでしょう!?」
「え、あ……な、なれたらいいなぁって」
何でそんなに自信ないの? 変なの。
「叶登くんはなれるって! だって、ノゾミのヒーローだもん!!」
いつも、ありがとう……叶登くん。
お母さんが開けた叶登くんの穴に、ノゾミは手を入れる。
叶登くん、叶登くん……どこにも行かせないよ。
口に入れたソレをモグモグと齧れば、なんて言っていいかわからない味がした。
でも、おいしい。
すっごくおいしいよ、叶登くん。
「……化物」
お母さんの掠れた声がする。
でも、そんなの関係ない。ノゾミは叶登くんを齧って齧って……ゴクンと飲み込んだ。
よかった。
よかったよ、これで。
「これでずっと一緒だね」
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます