神戸県道場塔
まとめなな
プロローグ
【プロローグ・前半】
「関西が、飲まれている……」
広大な大阪平野。その空を睨みながら、一人の老人が小さくつぶやいた。
老人の名は峯岸(みねぎし)光雲。武術歴五十年、あらゆる流派を渡り歩き、今や“日本最強の拳”とも言われる達人。その腕は衰えぬまま、齢(よわい)七十を超えてなお、弟子の育成に日々余念がない。
風が吹き抜ける淀川の岸辺。彼の後ろに控えるのは、三人の若者。それぞれ傷だらけの道着を着込み、まるで大物の周りを守るかのように慎重に視線を走らせている。
「先生……結局、本当のところ何が起こってるんすか。“神戸県”がどうとか……」
そう問いかけるのは、佐伯(さえき)ライチ。年は二十を少し超えたばかりだが、その目には鋭い炎が宿っている。
すぐ横のふたり――藤浪(ふじなみ)卓矢と**春口(はるぐち)幸奈(ゆきな)**は、似たように不安げな顔を浮かべながら、しかし確かな決意を窺わせる瞳で立っている。
「……恐ろしいことになったもんだ。兵庫県が“神戸県”になるなんて話、あり得ると思うか? それどころか大阪府まで呑み込んだ形だ。この国はいつからそんなメチャクチャを許すようになったんだ?」
峯岸は振り返り、なおも辺りを警戒する。
近年、日本の行政区分は大きく変貌を遂げた――などというニュースが流布していたが、詳細を深く追うメディアは皆無に等しい。ネット上では陰謀論扱いされているが、現実には多くの道場や地域が“神戸県”なる謎の自治体に支配され、従わぬ者は潰されるという噂が絶えない。
「先生……オレたちの道場も狙われてるって話、本当ですか?」
藤浪の問いに、峯岸は深刻そうに頷く。
「ただの噂話じゃない。実際、数日前に妙な連中が来ただろう? 神戸県なんたらかんたらの役人を名乗る男たちが、道場を『買収したい』だの『協力しろ』だのほざいていた。断ったら……おそらく今夜にも何か仕掛けてくる。だからここを離れるんだ。やつらが我らを見つける前に、逆に叩き潰す」
「逆に、ですか?」
佐伯の目が光る。
「そうだ。我らが先手を打って、『道場やぶり』を敢行する。そして神戸県の暗躍を支える主要な道場を潰し、連中の企みを暴く。お前たち三人も覚悟はいいな?」
「もちろんです!」
「やりましょう、先生!」
「ええ、ここで引くわけにはいかない……」
若者たちはそれぞれ拳を固く握りしめ、顔を上げる。復讐心を燃やしているのは決して師匠だけではない。弟子たちも、仲間の道場が取り潰され、あるいは友人が傷つけられた事実を知っている。
「俺は……先生にもらったこの拳で、神戸県とやらをぶち壊します!」
佐伯の叫びに、峯岸は瞳を細めた。心の奥に押し隠している不穏な思い――“大阪府を飲み込んだ神戸県”という国家規模の異常事態。その裏には、想像を絶する大きな力が蠢(うごめ)いているはずだ。
だが、いくら大きい相手でもやられっぱなしで済むものか。この道場の誇りと拳をもって、徹底抗戦だ。
「行くぞ。まずは奴らの手先と噂される“陳家(ちんけ)道場”を潰す。あそこはあちこちの流派を吸収して拡大したらしい。気を抜くなよ」
三人の弟子とともに、峯岸は静かに淀川を背にして歩み出す。カラッと晴れた空にも関わらず、どこか淀んだ空気が重くのしかかる。
ここから始まる“道場やぶり”の旅――その先には、笑いを交えた混沌とした戦いと、血塗られた復讐の炎が入り混じる戦場が待ち受けていた。
【プロローグ・後半】
数時間後。大阪市内の一画にある、「陳家道場」――そこには既に奇妙な張り紙が至るところに貼られていた。
『神戸県 公認道場』
本道場は新体制に従う意思を表明します。
いかなる妨害者にも法的措置を躊躇しません。
こうした貼り紙や横断幕が掲げられている道場が関西のあちこちに激増しているという。
自ら公認を得ることで、神戸県の庇護のもと、資金や流派の統合を受けて繁栄を約束される……という触れ込み。事実、その甘い誘いに乗る道場は後を絶たなかった。
峯岸は門前に立ち、張り紙を睨みつける。
「ふん、法的措置? ずいぶんと大層なことを抜かす。……行くぞ、お前たち」
道場の扉を踏み破る勢いで押し開けると、広い稽古場の中で弟子らしき者たちがあわただしく稽古――いや、何やら妙に物騒な武器をも使いながら実戦訓練をしている。
その中心に立つのが、道着に派手な刺繍を施した男、陳 玄虎(ちん げんこ)。筋骨隆々で首には龍をかたどった金のネックレスが光っている。
「おやおや、これはこれは……噂の峯岸先生。何のご用で?」
玄虎が不敵な笑みを浮かべる。背後の弟子たちは即座に構えを取った。
峯岸の後ろでは佐伯、藤浪、春口が武術の体勢を取りながら、周囲を警戒する。
「何の用? 貴様らのような連中がのさばってるから、俺たちがこうやって乗り込んでるんだろうが」
峯岸が低い声で言い放つと、玄虎はケラケラと笑い、肩をすくめる。
「へぇ、まさかこの陳家道場に正面から突っ込んでくる愚か者がいるとは。さすが峯岸光雲、その名に違わず肝が据わっているらしい。で、先生――あなた方、神戸県の体制には逆らうつもりか?」
「そうだ。そのために来た。そして、お前らのような“先兵”を一つずつ潰していく。ここは道場やぶりと洒落込もうじゃねえか」
言った瞬間、佐伯や藤浪、春口の表情がギラリと光り、玄虎の弟子たちが身構える。
次の瞬間、床にビー玉が散らばったような殺気と緊張感が一気に広がり、稽古場全体が凍りつく。
「へへっ、面白い。……ならば、ここで果たして誰が潰されるか、試してやろうじゃねえか!」
玄虎は手首をひとひねりし、鋭い拳を前に突き出した。あちこちの流派から取り込んだ拳法をもとに、独自の「陳家流」を作り上げたと自負しているだけはある。拳に漲るオーラは一筋縄ではいかない。
そして峯岸もまた、弟子たちと共に低い構えをとる。まさに“道場やぶり”の幕開けだ。
――そこに至るまでの壮絶な因縁と、神戸県成立の謎。そして主人公の内側に燃え上がる復讐心。「しかし復讐だけがすべてじゃない」と言わんばかりに彼らの中に友情の焔が芽生えるのも、まだ物語の先――。
すべてはここから始まる。
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