清掃員
@Slowmono
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十年物の小柄なテレビの前で、畳に寝ころびながら余暇の夜を過ごしていたCの視線の先に、葬儀のCMが写った。
穏やかな音楽に白背景、スーツを着る人々、一世代ほど前に世間を沸かせた、全盛期は知らずとも偉大さは知る壮年のタレントの姿、生の感性を少し欠いた温かさのフレーズなどで成るCMを彼は初めて見るわけでなく、むしろそれなりの頻度で見る。少子高齢化を是正する方法は知らなくとも、問題が現在進行形であって、それを是正しようと努力する人がいるであろうことは流石に知っている。この職種にとっては、増え続ける老人の人口比が一つの天祐になるのだろうな、という素朴な推理の程度も立った。あるいは天祐だけではなく、単に需要に対する人員の不足の意味でもあったのかもしれないが。
酔いで俄かに紅潮する顔を見ずとも知りながら、Cは缶の半分程度残る発泡酒をまた口に運んだ。近頃高くなった割に変わらぬ味。変わらないことを求めて千円札を払うのか、値段の変化に対しての不変性を不満に思っているのか。自分でも分からない。
CMが終わって、電源を入れた惰性で流していた、日本のことを紹介し、それを外国人が吹き替えボイスで賞賛するバラエティが再開した。葬儀屋も自分の商売も、同じ対象への関わり方の中で暮らしを立てていることをふと思い浮かべる。本質はそうであっても、葬儀社は大御所のタレントを使ってCMを流せるのに比べれば、自分の業種はそういうタチではないことが厳然と存在する。なぜか、を微妙に疲弊した脳で思考した。しようとしたが、バラエティの中の工場風景がどことなく気になって、たまらずにそちらに意識が走ってしまった。
スタジオで芸能人たちが談話を始めたあたりで、先の思考が引き戻される。この世の中に存在するのであろう、大きな正道から離れた場所があって、Cが生活の糧を得る方法に選んだ手段の中で見てきた世界は、順調な進行からあまりに唐突に突き落とされる事例もあったにせよ、それは外れ値の側であって、その転落の例では所謂自己責任の配分は多いものに見えた。健康が満たされているなら、もしくは人に満たされているなら、自分の仕事の需要は大いに無くなるだろう。そして現実に満たされない場所があるからこそ、仕事が必要になるだけの話である。
もっとも正直な話をすれば、この時のCがここまでただ煩雑なだけの思考をしたわけではない。事実は、アセトアルデヒドを乗せた血流が巡り始めた頭で、どこかの町工場の工作機械の精密性と使い手の練度に関する、驚嘆を余儀なくさせるような映像に対し、心中で画面内のイギリス人技術者の賞賛に同意して、毒にも薬にもならないようなナショナリズムを隆起させる、そういった程度である。
Cは平日の平穏な国道にワゴン車を走らせていた。特殊清掃業者の彼に相談が来たのは数日前、些かいつもより大きく、そして手を煩わせる面倒な案件が一区切りついた直後のことであった。そういうわけでどこにでもあるようなロードサイドを横目に、経験豊富な清掃メンバーと各種の用具を乗せ、国道から県道に曲がり、目的地を目指しているのである。
ステレオから流れるバンドのCDがもうすぐ一周するところでたどり着いた目的地は、道路と新旧混ざった家に塀、それを点在するカーブミラーと街灯が見守る、初めて訪れたにもかかわらずどこかの過去に確かに存在するような、熱気や活気に欠くが、だからこそ人の住まう現実という感覚に満たされた、ありがちでありふれた住宅街だった。件のアパートは、そういう中に、同じように古びた、だからこそかえって日常の中に溶け込む姿で、人々の日常を格納していた。
お越しくださいましてありがとうございます、と、車から降りたCを老年の女性が出迎える。ゆったりした上着とズボンを纏い、杖は持たないが背は少し曲がり歩みはゆっくり、顔には見てきた時を偲ばせる皺がCのそれの何倍も刻まれている。その言葉の丁寧な発し方は、土地とそこに建つアパートの持ち主という身分にふさわしく、背景にある階級を忍ばせているようだった。後部座席から降りた他の清掃員らが挨拶をするのを横に見ながら、Cは出迎えに礼を返した。
女性は経緯を改めて話した。今回の清掃予定の部屋にいた故人、独り身の老人の男性の存在と雰囲気は元々彼女には不安ではあった。ある数日間の反応の無さから嫌な確信が生じ、通報を受けやってきた警察と共に201号室に入った時には、既に想像しうる最悪の結果が広がっていたという。このため、老人の遺体と悪臭が充満する散らかった部屋、そして諸法令とが、初老にしては深く老いているが晩年にはまだ早く、貧困には程遠いが資産家と胸を張れるほどでもないこの女性に、些か骨のある責任の解決を強いたのである。管理者としては当然、死の床となったゴミに埋もれた201号室を、健康的な空き部屋に変える責務がある。マンションの契約書をたどって遺族に一報を入れたが、半ば肉親のつながりを絶っていたこの男の心臓発作による最期は、驚きを招きこそすれ同情や熱心な弔いの念を引き起こさせるものでもなかったようである。大家としては故人に関わる手続きを概ね自己負担で済ませることも考慮していたが、遺族としても何もかもを押し付けるのは流石に悪かろうと、折半して払う決定が出たようだった。
そこで今回呼び寄せた特殊清掃の専門家たちであるCらに、部屋の清掃作業を委任するところだった。お願いしますね、と女性は部屋の鍵をCに見せ、彼がそれを受け取ることで、金銭と信用が間を受け持つ責任の生成を確認した。
陰鬱の近づき。経験と理性からくる判断が、アパートの階段を上るCの肌をざらざらと撫でている。後ろに続く同僚らも同じ心持ちであろう。
恐らくはあの匂いを好んで嗅ぎたい人などいない。他者の暮らしの匂いですら好まない、という人もいる中で、それが腐り落ち、虫たちのひと時の安息地にして墓場になりつつあるこの地を好んで行けるのならば、恐らくその感性が尋常ではないか、世間の多数派が言う感性を持っていないか、そういう事に口を滑らせうる。Cはこの仕事を始めてからそれなりの時が経つのだが、この終着点に足を踏み入れることは、まだ躊躇の時間と極小の勇気を必要とする。そして、例の陰鬱に自ら進む道を選んだことへの責任と、躊躇しても結局は逃れられないし、それ以上に一職業人としてそうしたくはない、そういう前向きな諦観を再認識するのだ。ドアノブに手をかける時はすでに、ここまでくると出来ることはすぐに済ませよう、と脳裏は思考していた。それでも開ける動きに一瞬ながら躊躇は見えたようだった。
鍵を入れ、音が鳴り、ノブをねじり、こちら側に引いた。匂い。匂い。よく知る匂い。
防護服とマスクを取り付け本来の感じ方から遥かにそぎ落としたうえで、なおそれをすり抜ける。この世の悪臭と呼びうる要素を、海岸の子供が貝殻を集めるように無秩序に集結させたそれ。今年の夏に担当した、ゴミの中での死から一カ月たった部屋の、この世を呪う香りと比べればまだ温厚さを感じ取れたであろうが、慰めにはならず、そもそもそんなことを思わせる暇がCには用意されなかった。
数歩踏み込めば、年齢か病気のせいでゴミ捨て場まで行くのが億劫になったまま放置されたと見えるゴミ袋、或いは袋に入らぬゴミが床に寝ころぶ。僅かに見える畳の黒点は、単に黒ずみか、カビか、ウジか、蠅の骸。Cやその同僚らから見れば、確かにどこかで見たことのあった光景だった。アパートのあるこの住宅街と、認識構造的には似ている。縁もゆかりも何もない別々の場所にありながら、真には異なるものであることを深く理解しながら、それでもかつて、どこかでこの目が見たことがあるに違いない光景。心を暗く嘆かせ、それでいてなぜか落ち着かせる類似性。その類似性を持たないような、眼前の宇宙より悲惨な場所も経験の中にはあったが、ここが骨のあることには変わりない。
「……じゃあ、まずはお亡くなりになった○○さんの冥福を祈って。それから始めるとしましょう」
Cが周囲にのみ聞こえる程度の声で小さな号令をかけると、白の防護服に身を包んだ男たちが並ぶ。手を合わせ目を閉じる行為は、故人の冥福を祈るためではあったが、この凄惨に対しひと時だけ、目を閉じる機会とも一致していた。
借りものの部屋と言っても、ここにはかつて主がいて、そして戻ることはない。健康かつ最低限度の文化的な生活という魔法が解け、死地たる小さな城は生を拒む残骸になった。そこかしこに置いてあるチューハイなりレモンサワーなりの空き缶だとか、黒い弁当パックだとか、そういう物が入ったゴミ袋の存在が、この数平方の城の主を栄養の不足と酒の過多、それ以上に重ねた時間によって衰えさせ、それに伴ってかけられていた魔法が弱まり、最後にはこの結果を招いた、というありがちなシナリオをCに暗喩させているようだった。雑誌や捨て損ねたチラシのビビッドな色が床を覆うゴミと並んで、グロテスクな配列になって部屋を包んでいた。蠅の落ちる黒ずんだ床の一角をゴキブリが駆けたように見えた。
何にせよ行動である。ゴミ袋を掴み上げると、そこに入るバラン以外は空になった弁当パック、開かれた安いパンの袋、無造作な紙ごみと化したチラシ、丸められたティッシュ。役割を果たしたなれ果ての群れ、そういうものにCは確かに生きていた世界を感じていた。孤独な城主のために用意されていた広間に入り込むことに、時折、不思議かつ少し不謹慎に思える関心を抱いていた。故人が何時に起きて何処へと向かったのか、帰ってから何を食って飲んだのか、そしてどんな夜の部屋で眠りに落ちたのか。自分の気に入っている発泡酒の赤い缶を見つけたときは少しだけ、陰気な光景と、何十に構えても入り込んでくる生臭さと、なおも仕事に対し誠実たらんとする意識のために常に寄っている目元が緩まる程度の余裕もできる。彼も、自分と同じ三悪経験を共有する人であった。
こういう空想が本心からか、それとも死地の醜さから意識を離すことを望んだが故の工夫だったのかは、結局のところ今でも分からないし、分かる意義もなかった。なかったから、ただ別のゴミ袋を、いつもするように掴み上げた。
「競艇の雑誌が何冊かある。ちょうど近くにあるし、そこに行ってたのかな」
「結構前の号だ。そこまでは多少遠出する意欲もあったんだろうな」
同僚どうしの会話を耳に挟んで、今作った僅かな島を囲む廃棄物の海を見やると、確かにその通りだった。
床板をいくつか剥がし、消臭薬剤を撒き始めたころに、棚の上の写真立てが一つ見つかっていた。埃をかぶり白みがかりながら、期待された中身の展示と保存の機能を誠実に、Cが清掃という言葉を学校の日常として捉えていた平穏な少年だったころと同時期の日付を右下に携える、色あせた写真に対して果たしていた。製造段階の期待通り、写真立てより遥かに短い役目を終えたプラスチック袋が、どこか対照的だった。
背景を見るに遊園地か何かで、男性三人に女性が二人。男性と女性は一人ずつ少し年数の長さが見え、残りは少年と少女という風である。誰が誰なのか、というところまでは知りえないが、彼らの笑顔が決して意図して作ったものではなく、感覚の中で自然に生成されたものだという、恐らくは事実であろうことは察せた。
分からないこと、分からなくともどうにかなるようなことが、この人物の死についての諸々、というグループのあちこちに転がっているのだが、それを具体化するほどの努力の必要性をCはそこまで感じなかった。少なくとも、晩年、より正確には意図せずして晩年となった月日の中で、故人は血と情のつながりを生命のエンジン・オイルにしていた、という推論が成り立っていればひとまずは良かった。
残骸の追放が進むにつれて、地には畳に床、それに壁紙のみの、最初に故人が目にしたであろう部屋に近づき始める。感じられるのは新天地への到着直後か。あるいは荷物を全てトラックに積み終えて残された、広さを増して見える、離れる直前の部屋を見る時であろうか。始発と終着は同じ形をとり、そして新しい始発、もしくは凍結された場としてアパートの構造に遺される。どちらにしても以前の時間と記憶とをこの部屋に忘却させる必要があった。痕跡を無化する、Cがしているのはそういう仕事なのである。すべてを引き払った部屋を作るという点で、この仕事は引っ越し屋と共通するのかもしれない。家財の持ち主がこの世の全ての放棄を強制されたうえで、あるかどうか現在でも知り得ぬ、この世の外に引っ越す手伝い、とでも無理やりに表現できるのであれば。
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