その日

蜜蜂計画

第1話

 ある男が居た。

 ここを田舎と定義するのには少し時間がかかるかもしれない。ここを仮に田舎としてしまうのならば、もはや森林や無人島、いや極端な話、極地ですらも田舎に該当してしまうかもしれない。

 そこは貴方の想像するような典型的な田舎ではない。

 貴方の想像するようなどこか長閑で間延びしたような、暖かくて生まれてもいないのに懐かしみを感じさせるような優しい場所ではない。

 地球平面論者がここを訪れたならばまず間違いなくここを地上の端と定義するであろう。

 田舎というよりかは何かしらの悲劇の『終焉』と言った表現に近しいかもしれない。

 仲間もなくし、敬う年長者もなくし、慕われていた年下もなくし、そして何よりも愛おしい愛する人をなくしたような、そんな言い表すことのできない寂寥感を醸し出していた。



 五感を研ぎ澄ませてみると断片的だが様々な情報を手に入れることができる。

 そしてその断片的な情報を綺麗に繋ぎ合わせるとどんな写実的な絵画にも負けない、どこを切り取ろうとしても美しい絵画の一面になるような美しい風景が視覚を勢い良く襲おうとする。

 耳をすませば崖下に広がる広大な海が聞こえてくる。波が我先にと岸壁にぶつかるかのように競い合いながら、揉み合いながら眼下の崖に勢いよくぶつかり合っているのは想像にたやすい。いつまでも音の絶えることのない波の音は常にその男に安らぎを与えてきた。

 じゃぱじゃぱと崖をなぶる音は耳をすませばすますほど成り立つその非画一性さに男を驚かす。


 思いっきり息を吸い込んでみると土や草花や海からやってくる潮の香り、近くに住み着いている鳥や小動物のような獣の匂いなどといった、様々な採集することはできないであろう自然の香辛料が鼻の奥までを支配する。

 その匂いはどんな香しい香水にも負けないくらいの繊細さと大胆さを兼ね備えている。いつもは意識しないそんな香りだってふと嗅いでみると笑みが溢れてしまうほどの愛おしさを男に与えてくれる。


 不安な時は見境なく周りのものに触れてみる。

 例えば、周りにぽつりぽつりと数える程度にしか生えていない木々たちは男が小さい時からほとんど成長していないように感じる。

 けれども、優しくそれらの気に触れてみると『生きている』と感じることができる。

 ここにおいての『生きている』の意味は必ずしも生命活動をしているからという客観的なのによるものではなく、もっと主観的で、独善的で当てにならないような判断ではあるかもしれない。けれども、言葉で表す以上の感覚的な生命の存在に対して被りを振るものは誰もいないだろう。そこには、確かな躍動と、生命の頑固な意志を感じることができる。そして、頑なな意志を持つ生命の上に我々は立っているのだと実感させてくれる。


 味わうといういうことは、いささか難しいかもしれない。

 けれどもエン麦で作ったクッキーや、形の不揃いなジャガイモなどを食べていると思い出す。その男の懐かしい記憶が。埃を被ったオルゴールのように悲しげな音を奏でながらけれども誰にも止められずに動かざるを得なくなって動くような、止めることのできない苦しさがある。


 周りを見渡せば何もかもが男が子供だった頃から変わっていないことに気付かされる。綺麗に掃除されている暖炉だって、壁に貼ってある古ぼけた写真だって、もう何年も使っていない調理器具だって。男がまだ幼かった頃からほとんど変わっていない。変わったのは男の活力だけだ。



 そして世界の果てのような荒野で方言混じりに彼はこううそぶく。


「It’s shite being the world 」


 地平線の遙か彼方に日が沈もうとしている。男はため息混じりに日没を見届けた後、家に入る。



 ○


 母親は安らかに微笑んでいた。

 まだ幼すぎる男には受け入れ難い事実であった。

 今でも男はまた会えるのではないかと信じて疑わない。

 男の中の母親の像は時を追うごとに一欠片ごとに綺麗に崩れ落ちていくのに、まるでそれに抗うかのように信じる心は時を追うごとに深くなっていく。まるで自分自身を見失ってしまっているかのように。

 流れ作業のように母親と親交の深かった人物が恭しく弔辞を読み上げ、見慣れない親戚がたくさん顔を揃えてやってきていた。

 男に優しくする人は勿論いたが、心配する人がほとんどだった。優しくするのと心配するのは全く違う。

 幼いながらも、男に向けられた心配のその眼差しは心からの憐れみや同情以上に、何か欲望に満ちているいるような感じがしてたまらなかった。男はそんな人々を心の底から憎み、その日以来最低限の親族と最低限の友人との関係を持つことに心に誓った。

 男の目には何もかもが疑ってかかるべき存在に様変わりした。いつも通っている店、挨拶を交わす隣人、その全てに何か裏があるのではと勘ぐり何もかもを拒絶するようになった。


「父親もいなくて、母親も死んで…一体全体あいつはどうするんだろうな?」


 親族の1人が誰かにそう言う。

 その言葉には憐れみ以上に男の存在そのものを下に見るような思いすらこもっているように感じた。


「婆さんのとこに行くんじゃねえの?婆さん、子供大好きだしいい話し相手にもなってくれるさ」


 もう1人の親族がまるで自分には関係のないことかのように言う。


「しかしあのガキは辛いよな…こんな歳でひとりぼっちだなんて…」


「そんな心配ならお前が育ててやればいいじゃねえか」


「バカなこと言ってんじゃねえよ、このご時世、人1人がなんとか生きていけるのに誠意杯なんだよ」


 まるで男を拒む口実かのように、親族のうちの1人は嬉々として言う。


 結局その日男がどこで夜を明かしたのかは覚えていない。

 あまりにも非現実的なことが一瞬にして起こりすぎて頭がその処理に追いついていなかった。


 けれども先行きの見えない漆黒の中で泥のように眠ったのは覚えている。


 ○


 目を覚ました時には古ぼけたホンダの後部座席に横たえて寝ていた。

 時々下から跳ね上がるいつもは体験できないような不思議な感覚に身を任せながらしばらく自分がどこにいるのかを予想した。

 けれども限られた窓ガラスから見るにもこの地域らしい天気の曇天がどこまでも広がるだけ。

 埒が開かないのでゆっくりと上半身を起こし、周りを見渡す。

 茶色に染まった草木が山の斜面に沿って何重にも折り重なるようにどこまでも続いていた。

 それはさながら空から黄色が落ちてきたような感覚であった。そんな美しい茶色の衣装を身に纏った大きな丘が何十も、何百も寒い北風に身を寄せ合うように大きく鎮座していた。

 灰色と茶色のコントラストは男の心の奥底にある何かの創造的な心を湧き立たせた。


「おお、目を覚ましたかい?」


 深く刻まれた老婆の掌の皺はがっしりとそのハンドルを握っていたが、普段運転しないのか幾許かおぼつかない雰囲気だった。


「今は…インヴァネスから南に15キロくらいのところにいるかな?後一時間もすればインヴァネスの美しい街並みが見えてくるはずさ」


 老婆は時代に見合わないほどに古いカーナビを見ながらそう男に告げた。そしてチラリとバックミラーを見て老婆は男に聞く。


「あんた、私が誰だかわかるかい?」


「……」


 バックミラー越しにその老婆と一瞬目が合う。男は少しだけ自分の中の記憶に彼女のような人がいるか思い起こさせて見る。


「……」


 けども、その小さい男の頭の中にはその老婆に該当する人物はいなかった。


「わかんねえか?」


「……」


 男は老婆の返答に対して逡巡した。

 確かに運転しているその女は明らかに老けている。そして男は未だかつて聞いたことのないような、訛りの混じった、少し荒っぽい言葉遣い。

 しかし、後部座席に座っている男からはその雰囲気や顔立ち、何かしらの体の一部分における老婆はどこか母の面影を残しているように感じた。


 男は答えあぐねていたのだ。その掴めそうで、掴めない遥か彼方悠々と浮かぶ積雲のようなその存在に。

 どこか懐かしみのあるような顔ではあるが、けれどもでは実際に会ったことがあると言ってしまえば嘘になる。そんな曖昧な感触を男は掴んでいた。


「………わからない」


 結局男は自分がどんなふうに返答したら良いのか困ってしまい一番当たり外れのない返答をした。


「ガハハッ」


 老婆は突然笑い出した。どこかニヒリズムを感じさせるような左頬を少しあげる笑い方であった。


「私の名前はアヴェリエ。あんたのおばあちゃんよ。今まで会ったことなかったろう?あんたのお母さんのお母さんさ」


「ほら、あんたのお母さん、色々パーティーに招待してくれたんだけどもね、なかなかいけなかったんだよ。なんせ私の住んでいるところは果てしなく遠いからね。ありゃ世界の端っこだろうな。神様はあそこを最後におつくりになさったのだろう。ほとんど外出しないのさ。私にとっちゃサーソーまで行くのですら一つの冒険のようなものだからね」


 老婆は言いたかったような言葉を言い終えると満足そうにした。


「あ、僕はアヴィモア。学校ではアヴィーって呼ばれてた。好きなのはサッカー。最近はリヴァプールが強くて気分がいい」


「ほお、サッカーが好きなのかい?私もよく家のテレビでよく見るねえ。なんせ家にまともな娯楽がないし遊び相手も常にいるわけじゃあないからねえ」


「まあでも、これからはあんたが遊び相手になってくれるな。そういえば向かいやったボードゲームがあったはずだな。後で家に帰ったら引っ張り出してきてやろう」


 男はいささか不安になった。今まで男が住んだことのある場所は少なくとも、隣人がいて、歩いていけばスーパーがあり、何もかもが揃っているような市街地しかなかった。


「ねえ、これからどこに向かうの?」


「さっきも言ったろう?地球の最果てだ、と。ガハハハッ」


「そうだなあ…強いて言うのならばそこは」

「『shite being in the world』と言うべきかな?」


 彼女は強い訛りと共にそう言った。その目には少し喜びと悲しみが混じっているように感じた。



 これが男と老婆の不思議な関係の始まりである。








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