出目金
半田 徹
第1話
電車を降りた先は山々が青々として満ちていました。
私はまだ大学を出たばかりの若造でしたからそこに何の風情も感じることも毛頭ありませんでした。とんだ田舎に来ちまった、とただ溜息を吐くだけでした。
あなたにも前にお話しした通り、僕は教育者になろうが研究者になろうがどうでもいいと自らの未来についていささか思考を放棄していたところがありました。ですから高校の教師としてやってきたのも単なる偶然、気まぐれに過ぎませんでした。
集合住宅の住民の話を小耳にはさんだことが事の始まりだと記憶しています。折角なので細かに書き並べてみることにします。あなたのことですから。
わたしが退勤してきたときに門のそばで立ち話をしている二人の主婦を見つけました。ずいぶん熱心に話しているよう見受けられたので、私は女性の話好きに多少の感心と軽蔑を抱きながらその場を通り過ぎようとしました。するとそのうちの一人から話かけられたのです。
「近所に画家のお嬢さんがいるでしょう」
今思うと彼女らは遠方から来た私を好奇の目で見ていたような気がします。私は引っ越してきてすぐだったので当然何も知らず存じません、とだけ答えました。
「いるんですよ、ええ。そのお嬢さんがね……」彼女の言葉は尻すぼみになりました。
もう一人が口を開きました。
「あの女、ちょっと気が違ってるみたいなのよ」
「痴呆ということですか」私は大した興味もないながら尋ね返しました。
「そうじゃないのだけど、なんというか、頭がおかしいの」
さっきの主婦のほうに目を向けましたが、彼女はたちまち俯いて何も言いませんでした。
「あの女は大学まで出たのに、嫁にも行かずに暮らしてるんです。親も親よ、顔がよ ければ何とでもなると思ってるんだから」
あの時大学に進む女性は少なかったですから、親は金持ちに違いないと私は見当をつけました。
「だから、あなたも気を付けたほうがいいわよ」
私は仕事を全うして給料を得れば十分と思っていましたので、誰かと関わろうという気もありませんでした。ですから、あなたと出会うことになるとは万に一つもない、と漠然と思っていたのです。
時代としても空冷なんてものはなく、ああそうか、あなたは知らないんですね。
夏の夜ほど気持ちの悪い時分はありません。あの日私は寝苦しさの余り夜中に散歩でもしてやろうという気になりました。下駄をカランコロン鳴らしながらガス灯もない真っ黒な道を歩きました。人通りのない道の真ん中を闊歩していると、驚きました。
誰が暗闇の中でキャンヴァスと相対していると思うでしょうか。
私の瞳に映ったあなたは実に鮮やかでした。真っ黒な髪を月光になびかせてまっすぐに立って、筆を振るっていました。
私は月の精が降りてきたような心地で、思わず話しかけました。
「何をされているのです」
あなたはここでようやく私に気づきましたね。私に振り向きました。
「見ての通りです」
あなたは底のない漆黒の空を指さしました。白い人差し指の延長線上をたどって、私はその日が満月だったことを知りました。
出目金 半田 徹 @bocchiwolf
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