花見 4

 衝撃的な事態を目の当たりにして、十和は棒立ちになった。


「つ、月白様……!?」


 月白の注意が十和に向いた。

 一瞬、押さえつける力がゆるんだらしい、久礼が動いた。すきを逃さず拘束をふり解く。


「これでもくらいな!」


 久礼は手近にあった掃除用の桶をつかむ。

 桶に入っていた汚水とたわしを見舞おうとしたが、月白は避けた。

 避けたために、その後ろにいた十和が全部を引き受けた。


「きゃっ!」

「十和」


 月白は反射的に十和の方へ動こうとして、踏み止まった。久礼を素早い動きでつかまえる。今度は壁に押しつけるのではない、うつ伏せに床に押さえこんだ。


「痛い痛い痛い!」


 久礼が足をばたつかせて暴れるが、月白は一切手心を加えなかった。顔色一つ変えずに帯を解く。

 乱れた着物の合間から滑らかな柔肌が見え隠れし、十和はあわてた。


「月白様、お願いですから乱暴はおやめください」

「――あった」


 抜き取った帯の間から財布が落ちた。一つではなく、いくつも。解くにつれて二つ三つと他にも出てくる。


「やっぱり客にあいさつしながら盗んでいたな」


 久礼は悔しそうに歯噛みした。花のかんばせを台無しにして月白をにらみつける。


「この鬼! 痛いっていってるじゃない!」

「鬼でなく妖狐だ。素直に出していれば痛い目はみせなかった」


 月白は久礼の上からどいた。盗まれた財布を回収すると、帯を投げて返す。

 久礼はふてぶてしく居直る。


「狐はだますが本分。だまされる方が悪いのよ」

「窃盗は一座ぐるみか。それとも単独か」


「私だけよ。踊り子が怪我をして、代役を頼まれたの。私があの一座で踊るのは今回きり。だからやったの」

「おまえだけならいい。財布を元通りにもどせ。そうしたら不問にする」


 久礼は長いまつ毛の生えそろった目を見張った。


「何で? 私、またやるわよ?」

「まだ子供だから。更生を期待して」


 本人も驚いていたが、十和も驚いた。てっきり見た目通り成人していると思っていた。


「ついでに男だろう」

「ええっ!?」


 耳を疑う十和の横で、久礼はとうとう馬脚を現した。


「――ちっ。のんきな群れ育ちの妖狐ばっかで楽勝だと思ってたのに。とんだ番狂わせだ」


 久礼は男らしく大股で立ち、粗野な動作でガリガリと頭をかく。


「くそっ、今回はオイラの負けだな。おーせのとーりに」


 身なりを整えると、久礼は財布を手にさっさと宴席へもどっていった。

 十和はあっけに取られ、しばらく言葉を忘れた。


「……女性より女性らしかったのに」

「男が望むことを知っている分、男の方がうまく化けたりする」


「月白様、よく分かりましたね」

「……十和を見る目と、手つきが。男っぽかった」


 ぼそっと、月白がいつもよりわずかに低い声でいう。


(……不機嫌に聞こえるのは、私の願望かしら)


 十和は心がむずむずした。

 月白が自分を遠ざけ、久礼に酌を頼んだことに落ちこんでいたが、あれは自分を守るため、久礼を見張るためだったのだと分かって、ほっとする。


(どうしよう。どんどん好きになっていくわ)


 十和は濡れた顔に手ぬぐいを押しあてて、口元のゆるむ顔を隠した。


「すまん。とっさに避けて」

「いえ。私がとろくさいだけですからお気になさらず」


 十和は湯殿を出て、適当に空いている座敷へ移った。濡れた着物を脱ぎ、素肌に月白の貸してくれた羽織を羽織る。


あわせは着てきたものがあるのでいいとして、帰りまでに長襦袢が乾いてくれるといいのですけど」


 衣桁にかけた着物をなるべく日の当たる場所へ移すと、十和の脚に何かふわふわとしたものが当たった。

 狐の尻尾だ。ふり向くと、月白が大きな白狐姿になって畳に座っていた。


「……羽織一枚では冷えるから」


 自分の毛皮と体温で温まれということだろう。十和は感激しながら身を寄せた。


(ふっ、ふわふわっ!)


 月白の体はまだ冬毛のため毛量が多かった。指が埋まる。下毛はやわらかで絹のような触りごこちだ。うっとりと頬を寄せる。


(月白様の毛に触れているなんて。すごく幸せ)


 体温が毛皮越しに伝わってくる。寒さに強張っていた体が徐々に融けてゆく。


「温かくて、気持ちいいです」

「良かった」


 そっと、十和の体に尻尾がのせられた。尾は五本もあるので周りは毛まるけだ。おかげで寒気はみじんも感じない。


「羽織もいらないくらいです」


 十和は羽織の前が開くのも構わず、月白の首元に抱きついた。

 毛皮が胸に当たってくすぐったく思ったが、すぐに慣れた。もっと感じたくて肌をぴったりくっつける。

 月白が押し殺した声を上げた。


「……十和」

「申し訳ございません。苦しかったですか?」

「いや。苦しくはないが」


 五本の尻尾がゆらゆら揺れる。背や足を撫でられて、十和は体を震わせた。いっそう月白にしがみつく。


「う、ん。そ、そんなに動かされると。くすぐったいです」

「すまん」


 尻尾がぱっと離れた。離れてしまうのは淋しくて、十和は一本を手に取った。

 尾は胴体ほどに長く、片手に余るほど太い。十和はまたうっとり頬ずりした。


「立派な尻尾ですね。うらやましいです」


 全身で抱きつくと、他の尾っぽがピンと伸びた。


「……十和」

「あ、申し訳ございません。触られるのはお嫌いですよね」

「いや、触るのはいいんだが……いい、何でもない」


 自由な四本の尻尾がパタパタと落ち着きなく揺れる。

 十和は背や耳にも触ってみたかったが、今回はやめておいた。


(小さい頃、お父様の尻尾を枕にしたり抱きしめたりして寝たことを思い出すわ)


 月白の身に体をあずけ、尾を抱き、目を閉じる。温かな体は呼吸に合わせて上下して、ゆったりとした調子を刻んでいる。心地よい調子だ。

 御殿の中は静かで、時折鳥のさえずりが聞こえるだけ。穏やかな時間だ。


(ああ……すごく安心する)


 体の芯から力が抜けていく。


(いけない、こんな時に寝たら……起きていなくちゃ……)


 なんとか目を開けていようとするが、まぶたは重い。

 ほどよくお腹がふくれ、ほどよく酔った体はぬくたい寝床に沈んでいく。

 じきに十和はとろとろと快い眠りに落ちた。


「十和さん、十和さん」


 はっと目を覚ますと、花見の席で一緒だった女性がいた。

 十和は一気に眠気が吹き飛んだ。飛び起きる。


「寝てしまったのですね、私! すみません!」


 すでに外は宵の口。御殿のそこかしこで明かりが灯り始めている。人が戻ってきているようで、どやどやと騒がしかった。


「構わないわよ。例年通り呑んで騒いでおしまいだもの。席を外していたってどうってことないわ」


 月白の毛皮に包まれ羽織一枚でいる十和に、女性がふふっと笑う。


「全然もどってこないから心配していたけど。夫婦で仲良くしていたのね」

「これは着物が濡れてしまって」

「いいのよ、いいの。みんな覚えがあることよ」

「新婚ねえ。――思い悩むことなんてなかったじゃないの」


 他の女性たちも通りすがりに、微笑ましそうに言葉を残していく。


(よく分からないけれど、何か誤解されている気がするわ)


 早いところ着替えた方が良さそうだ。

 十和は干した着物を回収しようとしたが、月白に引き留められた。座敷に久礼が顔を出す。


「あー、いた。ずっと戻ってこねえから。探したぜ」


 腰に手を当て、口をへの字に曲げ、不服そうにしながらも久礼は報告した。


「ちゃんと戻したからな。それだけいいに来た。じゃ」

「待て」

「何だよ」

「そこの着物を取ってよこせ」


 月白は鼻先で、干してある十和の着物を示した。久礼が十和に手渡そうとすると、尾の一本をしならせて久礼を追い払う。


「下に置け。出て障子を閉めろ。そうしたら帰っていい」


「ハイハイ。分かりましたよ。ヤローは近づくなってコトね。

 ったく、アンタが避けるから奥さん濡れたんじゃん。オイラ悪くないじゃん。なのに床に抑えつけられてさ、背骨が折れるかと思ったぜ。ああ痛かった」


「投げたお前が一番悪いから自業自得」


 月白はにべもなかったが、久礼も負けなかった。んべ、と舌を出す。


「みんな、アンタがどこにいったか気にしてたから『花を愛でるより、畳の上で妻を愛でたいそうです』って言っておいてやったぜ。

 明日からあんたのあだ名はムッツリスケベだ。ざまあみろ」


 高らかな笑い声を残して、久礼は去っていた。

 十和は月白の尾の中で縮こまる。


「……なにか、すみません。私が寝入ってしまったばかりに不名誉なうわさを」

「だれかに問い正された時、事実を証言してもらえれば別に」

「もちろんです」


 十和が着替え終わると、月白も人の姿になった。

 玄関を出たところで、昼間に月白と一緒だった男たちと出くわす。十和は軽く頭を下げた。


「皆様、お先に失礼いたします。途中からずっと場を外してしまってすみませんでした。

 不注意で自分の着物をぬらしてしまい、乾かしていたら、その間に寝入ってしまって」


「ほう、乾くまでずっと一緒に待っていてくれたのか。優しいな、月白殿は」

「私が寝ている間、月白様には退屈な思いをさせてしまって申し訳なかったです」


 十和はこれで少しは月白に対する誤解が解けるだろうと期待したが、月白自身が台無しにした。


「……べつに。あなたの寝顔を見ている方が楽しいから」


 十和の顔が火を吹く。


(席を外している間、何もなかったと強調しているのに! これでは肯定しているようなものでは!?)


 周りの生温かい視線がいたたまれない。


「はは、本当に仲が良いな。十和殿も今日は楽しまれたかな?」

「わ、私は……ええっと……」


 まだ血がのぼっている頬を抑えて、十和は懸命に考えた。ありのままを話す。


「はい。すごく……よくて。とても気持ちよくて。天にも昇る思いでした」


 十和の――月白の毛皮に対する――熱っぽい感想は人々の疑惑をさらに深め、花見は二人の仲睦まじさを知らしめて終わった。

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