第2話 発見

暗闇に足を踏み入れると、目の前の世界が一気に狭くなったように感じた。わずかな光も頼りない中、俺は目を凝らし、じっくりと奥を見据える。


「……何も見えないな……」


思わず呟く声が、石造りの壁に反響して耳に届く。その響きが、不気味なほど静寂を際立たせていた。靴底が石畳を踏むたび、乾いた音が響き渡る。少しでも異変がないか耳を澄ませながら、慎重に一歩ずつ進む。


視界の端で、壁に浮かぶ苔がわずかに光を反射しているのが見えた。暗がりに慣れてきた目でも、それ以外の詳細は掴めない。ただ、何も起きないのが逆に不気味で、緊張が肌を刺すようだった。


「……本当に、大丈夫なんだよな……?」


誰にも聞かれるわけではない問いを心の中で投げかけながら、俺はさらに奥へと進み続けた。


足元をふと見た瞬間、奇妙な光景に目を奪われた。暗闇の中、石畳の上に小さな足跡が浮かび上がっている。それはぼんやりとした淡い光を放っていて、ほかの場所とは明らかに異質だった。


「……なんだ、これ?」


しゃがみ込んで足跡をじっと見つめる。大人のものよりずっと小さく、子供の足跡だろうか。指先で触れようとしたが、光は実体があるわけではないらしく、足跡はただ石畳にしっかりと残るだけだった。


足跡は道の先に向かって続いている。まるで俺を導くように、一つ一つが等間隔に並んでいるのが見て取れた。


「これを追えってことか……?」


自分に問いかけるように呟いたが、答えなど返ってくるはずもない。それでも、ほかに進むべき手がかりがあるわけでもなく、俺はその光る足跡を頼りに足を動かし始めた。


足跡を辿るたび、視界の中で光が淡く揺れて消えそうに見える。それでも、不思議と消えることなく先へと続いている。足跡は次第に曲がりくねり、狭くなる通路へと誘うように進路を変えていた。


「こんな場所で、誰が……いや、そもそも何なんだ、これ?」


心臓が高鳴る。未知のものに対する怖さと好奇心が入り混じり、思わず足を止めたくなる気持ちを押し殺しながら歩を進める。足跡の先に何が待っているのか、恐怖を抱きながらも目を逸らすことはできなかった。


光る足跡を辿りながら、胸の中に疑問が膨らむ。


「……誰かがここを通ったのか?」


心の中で自分に問いかけるように考えたが、答えは見つからない。迷宮の奥でこんな足跡を見ること自体が異常だ。しかも、こんなに光る足跡なんて聞いたこともない。探索者が残したものなのか、それとも――もっと得体の知れない何かか。


足跡は淡い光を放ち続けながら、通路の奥へと続いている。足元の石畳は冷たく、湿り気を帯びているが、足跡だけはそれに触れていないように見える。不思議と浮かんでいるような感覚すらする。


「もしこれが誰かのものなら……この先に、その人がいるのか?」


胸の奥で小さな不安がざわつく。それでも、ここまで来たら引き返すわけにはいかない。足跡を追い続けることで、何かが分かるかもしれないという一縷の希望が俺を突き動かしていた。


慎重に一歩ずつ進むたび、足音が迷宮の静寂の中で響く。通路の奥は暗く、光る足跡だけが頼りだ。どこに繋がっているのか、想像するだけで胸が締め付けられるような思いだった。


静寂に支配された迷宮の中、耳を澄ませていると、どこか遠くからかすかな音が聞こえた。最初は風の流れか何かだと思った。迷宮特有の湿った空気が石壁に触れて音を立てているだけかもしれない。だが、その音には妙な抑揚があり、耳に集中するにつれ、すすり泣きのように思えてきた。


「……泣き声?」


心の中で問いかける。誰もいないはずの迷宮の中で、こんな音が聞こえること自体が異様だった。足元の光る足跡を見下ろしながら、鼓動が少しずつ速くなるのを感じる。この泣き声と足跡には何か関係があるのだろうか。それとも、ただの偶然だろうか?


音はまだ遠く、どこから響いているのかまでは分からない。けれど、その微かな響きが不思議と胸の奥をざわつかせる。泣き声には、誰かが助けを求めているような響きが込められているようで、聞き流すことができなかった。


「……本当に誰かいるのか?」


迷宮の中にいるという事実と、この状況の不気味さが頭の中で絡み合う。普通なら引き返すべきなのかもしれない。探索者でもない自分が、このまま奥へ進むのは無謀だ。けれど、聞こえてくるすすり泣きの声が、進むべき道を指し示しているような気がしてならない。


立ち止まって耳を澄ませる。音は弱々しいが、確かに通路の先から響いているようだ。その方角に向かって、足元の足跡も続いている。まるで泣き声が足跡に誘導されているように思えた。


「……いや、こんなことがあるはずないだろ」


自分に言い聞かせるように心の中で呟いたが、それでも足は止まらなかった。すすり泣きの音が消える前に、何かを確認しなくてはならないという衝動が胸を突き動かしていた。音は微かだが、足音とともにゆっくりと近づいている気がする。


足元の光る足跡はまだ続いている。薄暗い通路を進むたび、冷たく湿った空気が肌にまとわりついてきた。迷宮の空気はひんやりとしているが、汗ばむ手のひらが妙に気になる。息を殺しながら、一歩ずつ足を進めるたびに、すすり泣きの声がほんの少しずつ大きくなるようだった。


「聞き間違いじゃない。本当に泣いてる……」


迷宮の中で、こんな声を聞くなんて、どう考えても普通ではない。探索者だとすれば仲間が近くにいるはずだし、こんなに不安げに泣き続けるはずがない。声の主が誰なのか、何なのか、それを確認するためだけに足を進めているような気がした。


通路が曲がりくねり、ますます視界が悪くなる。それでも耳を澄ませていると、すすり泣きの音だけは確実にそこにある。暗闇の中にその音が響いている限り、俺は歩みを止めるわけにはいかなかった。


壁際に視線を移した瞬間、暗がりの中で微かな動きが目に入った。そこには、小さな影がうずくまっているように見える。暗闇に目を凝らしてみると、それはどうやら人間の姿だ。小柄で、身体を丸めるようにして震えている。


「……おい、大丈夫か?」


声をかけると、影がびくっと反応して、かすかに動いた。石壁に背を預けたまま、顔を上げる気配はない。震える肩が、まだ泣き続けているのを物語っている。


さらに一歩近づいてみる。薄暗い中、ようやくその姿がはっきりしてきた。それは小さな少女だった。ボロボロの服を身にまとい、両膝を抱え込むようにして座り込んでいる。


「大丈夫だ。俺は敵じゃない……助けに来たんだ」


なるべく優しい声を心がけながら言葉をかける。少女は少しだけ顔を上げたが、目元は涙で濡れ、怯えた表情を浮かべている。その視線は、俺の顔を確かめようとするように揺れていた。


「ここで何があった?君はどうしてこんな場所に……」


問いかけても、少女はすぐには返事をしなかった。ただ、震えながら唇をぎゅっと噛みしめ、再びうつむいてしまう。その仕草があまりにも弱々しく、俺の胸にチクリと痛みを感じさせた。


「安心してくれ。怖いことは何もない。俺がいるから、大丈夫だ」


少女のそばに腰を下ろし、できるだけ穏やかな声で語りかける。迷宮の冷たい空気が漂う中、俺は彼女が少しでも安心できるように、言葉を重ねることしかできなかった。


壁際で震える少女は、しばらく顔を伏せたままだった。俺の声が届いているのか、それすら分からず、ただその場で待つしかない。迷宮のひんやりとした空気が静寂と共に広がり、足音も消えた暗闇の中で、俺は再び声をかけた。


「怖いかもしれないけど……大丈夫だ。俺は敵じゃない」


その言葉に、少女の肩が小さく動いた。伏せていた顔がゆっくりと持ち上がる。薄暗い光の中で見えたのは、涙で濡れた目と不安そうな表情だった。視線が一瞬だけ合う。その目は恐怖でいっぱいだったが、そこにはかすかな期待のようなものも感じられた。


「……君の名前は?」


そっと問いかけてみると、少女は唇を少しだけ開いた。けれど、声は出ず、すぐにまたうつむいてしまう。それでもさっきよりも僅かに力が抜けたように見えた。俺の存在を拒んでいるわけではなさそうだ。


「何があったのか、話さなくてもいい。でも、君をここに置いていくわけにはいかないから……一緒に考えよう」


その言葉に、少女はほんの少しだけ身を乗り出した。完全に心を許したわけではない。それでも、俺の声に耳を傾ける意思が伝わってきた。それだけで、ここまで声をかけた甲斐があったと思える。


少女は震える指先を自分の膝の上で握り締めながら、かすかな声で何かを言おうとしているようだった。


少女は少しだけ顔を上げたが、まだ不安そうな目でこちらを見つめていた。その瞳には恐怖が残っているが、完全に心を閉ざしているわけではないようだった。俺は彼女が安心できるよう、少し声を和らげて話しかけた。


「名前、教えてもらえるか?」


少女は小さく震えたが、やがて消え入りそうな声で答えた。


「……リナ……」


「リナ、か。いい名前だな」


名前が分かると少しだけ親近感が湧いた。彼女が口を開いてくれたことで、俺も少しだけ安心する。


「俺は拓也。リナ、ここで何があったんだ?迷宮の中に一人でいるなんて、危険すぎるだろ」


リナは再び俯き、声を詰まらせた。その表情からは、言葉を探しているような戸惑いが伝わってくる。


「……わからない……気づいたら、ここにいた……」


「気づいたら、ここに?」


彼女の言葉が妙に引っかかった。普通の状況ではないのは明らかだ。けれど、追及してさらに怯えさせるのも良くない。


「大丈夫だよ。今は無理に話さなくてもいい。でも、ここから一緒に出よう。迷宮の中は危険だからな」


「……本当に?」


リナの声には疑念が滲んでいた。俺を信じていいのかどうか、まだ迷っているようだった。


「もちろんだ。怖いかもしれないけど、俺は君を置いていったりしないよ」


その言葉に、リナの目が少しだけ柔らかくなったように見えた。彼女は小さく頷き、再び手を膝の上でぎゅっと握りしめた。その小さな仕草が、ようやく心を開きかけていることを物語っていた。


リナが小さく頷いたのを見て、俺は静かに膝をついた。暗闇の中で震えている彼女の姿は、小さく、そしてあまりにも心細そうだった。


「リナ、少し怖いかもしれないけど、ここを出るために動こう。俺が君を守るから」


声をできるだけ穏やかにして言うと、彼女は少しだけ目を見開き、その後また小さく頷いた。


「じゃあ、抱き上げてもいいかな?歩けそうか?」


彼女は自分の足元をちらりと見た後、かすかに首を横に振った。どうやら立ち上がる気力も残っていないようだった。


「わかった。任せて」


そっと手を伸ばし、リナの身体を抱き上げる。思っていたより軽く、彼女の小さな体は冷たく震えていた。


「大丈夫だよ。怖くない。俺が絶対にここから連れ出してみせる」


リナは俺の胸元に顔を埋めるようにして、力なく体を預けてきた。その感触は頼りなさげで、彼女がどれだけ不安と疲労に苛まれているかを物語っている。


俺はリナをしっかり抱きしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。暗い迷宮の中、冷たい空気が肌を刺すように感じる。それでも、彼女を守るという決意だけは揺るがない。


「行こう、リナ。一緒に、ここから出るんだ」


彼女がかすかに「うん」と応えるのを聞きながら、俺は慎重に歩を進めた。


リナを抱き上げたまま、慎重に歩を進める。迷宮の冷たく湿った空気が、肌に重くまとわりついてくるのを感じた。暗闇の中、足元を照らすものもなく、静寂がひたすら続いていた――そう思った、その時。


「……グルルル……」


背後から、低く唸るような音が響いた。


思わず足が止まる。全身が硬直し、手の中でリナの身体が小さく震えるのが伝わってきた。


「……何だ?」


振り返る勇気はない。けれど、その唸り声は明らかに生き物のものだ。そして、それは俺たちのすぐ後ろにいる――そんな気配を全身で感じた。


リナが俺の胸元に顔を押し付け、小さく怯えた声を漏らした。


「こ……こわい……」


俺は彼女を安心させるように、少しだけ腕に力を込める。それでも、心臓は嫌な音を立てて鼓動を早め、背中に冷たい汗が滲むのを感じた。


「大丈夫だ……俺がいる。絶対に守る」


言葉を紡ぎながら、意を決して背後に目を向ける。暗闇の中、何かがこちらを見据えている気配が濃厚に漂っていた。唸り声はますます低く、そして重たく響き渡る。

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