サイン

中島清一郎

サイン

林光夫と言えば世界的に有名な画家であり今やアートの世界でその名を知らぬ者はいない。オークションで絵画が出品されればたちまち参加者が次々に手を挙げ、かなりの額になることもしばしば。これまでの最高落札額は40億円にも上る。一般の人から見れば『なんじゃこりゃ』と思われる絵も一流から見れば"美"そのものなのだ。一流の画家としてその名や顔が知れ渡っており、毎日外へ出掛けるときはそれなりの変装をしなければならない。光夫自身もこれが有名税なのだと自分に言い聞かせ日々我慢し続けていた。

そんなある日、久々に休みが出来たのでいつもの通り変装をして外を散歩していた。たまの休日ぐらい仕事を忘れて変装もせずのんびり過ごしたいところだが、生憎そうもいかない。素の光夫として外を歩けば人々が集まって大混乱になるからだ。変装をして俯きながらポケットに手を突っ込み歩いていた。すると、向かいからハイヒールを履いた女がこちらに向かって寄って来た。そして光夫の前で立ち止まり小さく声をかけた。

「あの、画家の林光夫さんですよね?良かったらここにサインしてください。」

そう言って女は持っていた手帳の余白ページにサインするよう光夫に要求してきた。光夫は承諾し、サインを書いた。

「ありがとうございます!このサイン、一生大事にします!」

すると光夫は女に向かってこう言った。

「1億円です。」

少しの沈黙が光夫と女の間に流れた。女の顔にはさっきまでの笑顔がサッと消え、代わりに疑問の表情が張り付いていた。

「そのサインを手に入れるには僕に1億円を払ってからです。」

女は疑問の表情を顔に張り付かせたまま光夫に聞いた。

「えっ、どうしてですか?」

すると光夫はキョトンとした顔から説明を始めた。

「僕は今世界的に活躍する一流の画家だ。しかし運だけで一流になった訳じゃない。その裏には血の滲むような努力があった。つまり時間と労力を惜しまず絵画に力を注ぎ続けてきた。力を絵に注ぎ続けてきたから今世界で画家として活躍することができた。今僕が書いたそのサイン、あなたにとってはかなりの価値があり、僕はそのサインをサラサラッと10秒ッ書き終わった。しかし、10秒で書けるサインの価値は10秒で出る訳じゃない。もっと簡単に言うなら3分で出来上がるカップラーメンの技術は3分で出来た訳じゃない、5分で聴ける曲は5分で出来た訳じゃない。カップラーメンの製造技術も、曲の製作もその裏にはかなりの時間と労力がかかっている。だから僕が書いたそのサインを手に入れるには1億円を払ってください。」

女は戸惑いながら

「そんなお金、持ってません…」

と光夫に言うと、

「じゃあこのサインは渡せません。」

と言って光夫はサインを書いたページをビリっと破りくしゃくしゃに丸めてポケットに入れた。

そして何事もなかったかのように光夫は再び歩きだした。

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サイン 中島清一郎 @hirotonagamine0823

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