病葉 4

阿賀沢 周子

第1話

2010年 11月

 健吾のアパートに着いた時、二人は頭も肩も雪をかぶって真っ白だった。初雪だというのに大雪になった。部屋を見上げて、二人が静かに離れた時半身には雪がついていない。健吾は雪子の雪を払い自分の体の雪を落として、先に階段へ行く。鉄階段の傾きも錆も雪に隠れて見えない。

「足元気を付けて。この階段には少し癖があるので」

 と手を伸ばす。雪子は手に縋る。健吾に引っ張られるようにして一緒に上がっていった。

「驚くくらい汚れています。覚悟してください」

 ドアにカギを差し入れ回す。開ける。二人は玄関に入る前に互いの衣服に残った雪を払った。二人とも頭は半ば濡れているが寒気はなかった。

 雪子が玄関で脱いだ靴を直して並べている間に、健吾は据付のファンヒーターと、簡易式の灯油ストーブのスイッチを入れた。ファンヒーターだけだと部屋がひどく乾燥するので、冬の間併用している。

 台所に立ち水道水を薬缶に汲んで、いつものようにストーブの上に置く。雪子はハンカチで頭を拭きながら、部屋の真ん中に立って周りを見回している。1DKで右側に寝室が開け放しになっていて、敷きっぱなしの布団が見えた。そこらにごみが散らばっているとか、空き缶が転がっているということはなかった。

「言うほど汚れていないです。脅かすから覚悟を固めて部屋に入ったのに。これで何を聴いているの?」

 黒いミニコンポの前に座って尋ねる。そばに折りたたみ脚がついた小さなテーブルあり、CDが何枚かと汚れたグラス、何かの空き袋が載っていた。雪子に会いに行く前に気持ちを落ち着けるためにウイスキーをストレートで飲んだグラスと朝飯の代わりに食べた栄養補助スナックだ。

「最近はまっているのはこれです。聴きますか?」

 健吾が手にしたのは、黒髪の男性二人がヴァイオリンを手に持って笑っているジャケットだ。CDはコンポの中に入ったままのようで、スイッチを押す流れてきたのは哀愁あるヴァイオリンの音色だった。

「ロバート・ラカトシュ。ハンガリーのジプシーヴァイオリンです。何年か前に演劇の仲間とコンサート聴きに行ってからはまっちゃって、一時期は毎日聞いていました。ここに刺さるんですよね」

 健吾は親指で自分の胸をさす。

「健吾さんは見た目は演歌が好きそうですけど」

 言って笑っている。珍しく冗談を言った雪子をまじまじと見た。屈託のない顔つきはいつもの繊細な雪子とは違う。二人でこういう時間を長く持ち続けたいという欲求が腹の底から沸き上がった。

「自分にはジプシー的な傾向があるのかもしれません。演歌も、シャンソンも誰か彼かの胸に刺さる音楽ですけど、ラカトシュには唄がない分刺さり方が違うんじゃないかな。雪子さんはどうですか。好きなジャンルの音楽ってないですか」

「井上陽水が好きでレコードを何枚か持っていました。実家に置いたままですけど」

 音楽を聴きながら二人は並んで座っている。二つのストーブで部屋が温まって健吾はジャンパーを脱いでテーブルの下に丸めて置いた。

「残念ながら陽水は持っていません。でも彼の曲も心に来ますよね。何か飲みますか」

「お酒以外なら」

 見つめあって二人で笑う。雪子の冗談は温かい。健吾は座り直して雪子と向かい合った。

「正式にあけぼのを退職しました。今日から風来坊です。就職先が見つかるまでは文無しです。ここまで歩いてくる間ずーっと考えていました。そんなんでも、さっきの珈琲艦で言ってたあれ。本気にしていいんですか」

 雪子は頷いた。

「私も歩きながら考えました。健吾さんならすぐ仕事が見つかります。自分の物だけ持ってできるだけ早くここへ越して来ます」

 それ以上の言葉は必要なかった。健吾は立ち上がって寝室へ入って布団のシーツを剥がし始めた。雪子は空いたドアから様子を見ていたが、健吾の傍へ立った。ラカトシュが終わって静かになり湯の沸く音が小さく聞こえている。

「何しているの?」

「シーツ変えようと」

「そのままでいいのよ」

「汗の臭いはいやだろ」

「そのままがいいのよ。さんざんきれいにしても何の意味もない生活をしてきたの」

 雪子は立ったままコートを脱いで床に落とした。白いセーターもブラウスも床に落とす。健吾は立ち上がり自分の厚手のトレーナーを脱ぎ、シャツを脱いで裸になり雪子を抱きしめた。雪子のブラジャーのフックを外すとき指先が若者のように震えた。



2015年 9月

「雪子、さんとはそういう関係はなかったです。自分はそのころ酒浸りで、彼女を顧みる余裕はなかった」 

 真由はまた、健吾の言葉の隅々に言い訳がましさを感じていた。

関係もない者の死を悼んで、何年も音信がなかったのにこうやってわざわざ会おうとするだろうか。何か理由があるから会おうとしたのだろうに。

「正直言って、話がちぐはぐよ。自分は旦那との仲については何も知らないし関係もなかったって言うけれど、何で私と会いたがったの? 何を知りたいのかしら。私、何のためにここにいるのかしらね」

 健吾は項垂れたまま、次の言葉を発しない。どうしてこんなに打ちひしがれているのだろう。矛盾した言動の影に何が隠れているのか。何が嘘で何が本当なのか。雪子と健吾に何があったのか知らなければ雪子の供養にならないと怒りを鎮めた。

「正直に話してくれないのなら私は帰ります」

 案の定、席を立つ振りをすると健吾が慌てて顔を上げた。その眼には涙が浮かんでいた。鼻先まで濡れている。俯いて泣いていたとのだ。座り直して目の前に袋ごとティッシュを差し出すと健吾は何度も鼻をかんだ。

「すみません、年甲斐もなく。真由さんにはとてもお世話になりました。俺と雪子のことは真由さんにしか話せないし分かってももらえない。何があったのか、正直に話します。雪子への懺悔です。自分の馬鹿を聞いてやってください」

 今気づいたかのように冷えたコーヒーをガブリと飲んだ。真由も氷が融けて水っぽくなったグレープフルーツジュースを一口すすった。

 雪子の境遇については一度話を聞いたことがあると話し始める。家のことはほとんど知らないといったのは噓だと。


2010年 11月

 布団の中で健吾の胸に雪子の頭が載っている。重なりあった脚と絡み合った腕。どちらがどちらと区別がつかないほど一身になっていた。

 窓からは、街明かりに照らされ、夜空から深々と降り続く雪が見える。音といえば湯の沸く音と互いの呼吸の音だけだ。

 健吾は唐突に焼けつくような喉の渇きを覚えた。今一番欲しいのは氷の入ったウイスキーだ。今日は半日以上飲んでいない。喉が求めるものをもう我慢できない。が、雪子は何というだろう。

「どうしたの?」

 健吾の喉の動きに気づいたように雪子が顔を上げる。

「薬缶の水が無くなっているかもしれないからちょっと見てくる。ここにいてくれ」

 シャツとパンツを身に着けストーブの傍へ行き薬缶を手に取った。まだ十分あるが、台所へ売って蛇口を細く開ける。シンク下の開き戸を開け、ウイスキーのボトルを取り出し、ふたをとって直接数口飲んだ。理想の冷たさではないが、取り合えず喉の渇きは治まった。薬缶をストーブに乗せた瞬間、水が熱にはじけるチリチリという音がした。

 何事もなかったように布団に潜り込み雪子の肩の下に手を差し入れ抱きしめる。強い酒が腹の中を熱くして、体が再び雪子を求める。

キスをすると雪子が顔をそらした。

「お酒飲んだのね」

「少しな」

 それ以上健吾を拒否しなかった。責める言葉も言わずに受け入れられるのが嬉しかった。先刻の行為よりゆっくりと丁寧に愛撫していく。初めて眺めるかのように目でも愛でた。細い鎖骨の間にチェーンの先の何かが光っているのが目に入った。寝室に明かりは灯っていない。居間からの細い明かりに反射して輝いている。ダイヤか。

 雪子を腰に乗せて果てた時、目の前のダイヤが揺れた。自分には縁のない宝石が雪子を飾っている。また酒が欲しくなった。今度は雪子と二人で飲むか。目を瞑って考えていると健吾の顔に雪子が顔を寄せてきた。

「何を考えているかわかるわ。お酒でしょ。我慢できないのね」

「二人で飲もう。お祝いだ」

 顔の上でダイヤがきらめく。

「この宝石はダイヤかい? 結構大きいよね」

 雪子は慌てて胸を押さえた。今気づいたかのようにペンダントトップを握り締め、体を離す。

「忘れていたの。夕べ夫の友人たちの接待をした時、夫につけろと言われて。外すの忘れていたわ」

『旦那っていい給料をもらっているんだな。俺はそういう贅沢はさせてやれない』心が呟いた。

 雪子が話し始めた。これは夫からのエンゲージリングだった事。夫の勧めで、リニューアルしてペンダントにした事。ダイヤは指輪としてはいつもつけられないがペンダントなら目立たず付けられて、自慢にもなる、と言ったと。

「今朝夫を送り出すのに忙しくて、つけているのを本当に忘れていたの。気にしないでね」

「気にしてないよ。君にはよく似合っている」

 本当は気にしていた。引きちぎってしまいたかったくらいだ。雪子が外した後、頭のところに置いてあったハンドバッグにしまうのを黙って見ていた。

「大事なんだな」小さく呟いたが、雪子の耳には届かなかった。


 翌日、健吾は、北三条通公園まで雪子を送った。マンションが近づくと「身の回りのものだけ持ってなるべく早く家を出ます。日にちが決まったらメールします」と雪子が言うのへ「わかった」と応じたが、昨夜の酒が少なかったからか、喉がひりついて頭が虚だった。


2015年 9月

「そういう事です。つまり俺はダイヤをプレゼントした男に負けた。雪子に何がしてやれる。働いてもいない身だった。あの日、マンションから少し離れた公園の入り口で、雪子が『待っていてね』とにっこり笑って帰るのを見送って気持ちが裂けました。自分に資格があるのかと」

「そういう事です」

 同じ言葉を繰り返しまた項垂れた。

 真由は先にレジに立って精算を済ませ、健吾を促してカフェを出た。店の中で健吾がまた泣き出しそうだったからだ。そっと健吾の肘を支えて大通公園の方へ歩く。しょんぼりした男と、険しい顔を挙げて歩く女の二人連れをすれ違いざま物珍しそうにみる者もいた。

 二人は、大通り2丁目の木陰のベンチに腰掛けた。黄昏ているが、まだ人の顔の区別はつく。真由は目立ちたくないばかりに健吾の側に寄る。

「わからないわ。二人であなたの部屋で過ごした後、何日かして雪ちゃんはあなたの所へ来たのでしょう。それでどうしてマンションに戻ることになったの。雪ちゃんとそんな中になったのにどうして別れることになったの。ダイヤのせいなんていわないでちゃんと説明して」

 見回すと左にそびえるテレビ塔の脚下に観光客が集まっている。近くに団体客用の食堂があるからだろう。塔の時計はすでに夕食の時間を示していた。   

 この数年のうちに、子どもたちが就職や進学で巣立って、真由は夫の隆司と二人暮らしだ。雪子が自死するまで、健吾とどうなっていたのか全く知らなかった。大人の関係なのだ。あれこれ聞きだすのも気が引けて、様子を見ることもしなかった。何かあれば話してくれるだろうと思っていた。

 真由はやりたいことをやり、行きたいところへ行く。自由に生きていたが、隆司と過ごす時間には気を使っていた。もう帰らなければとまた塔の時計を見上げる。

 二人の後ろにはブナや楡の大木が並んでわずかな風に揺れていた。真由は雪子といい関係になった途端にうじうじし始めた健吾を理解できなかった。






 

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