第8話
第9章:境界を越える夜
車内には、静かな雨音が響いていた。
ワイパーがフロントガラスをゆっくりとなぞり、その先に広がる街の灯りをぼかしていた。
助手席に座る静香は、グラスを握るように膝の上で指を絡める。
隣に座る椎名は、無言のままハンドルに指先を添えていた。
触れない関係が続いていた。
それでも互いの距離は限界まで近づき、触れれば壊れてしまいそうな緊張が漂っていた。
「……今夜も、触れないの?」
静香がぽつりとつぶやいた。
言葉は小さかったが、雨音の中で明確に響く。
椎名はゆっくりと静香の方を向く。
「触れたら、どうなると思います?」
静香は小さく笑い、視線を前方の夜景に戻した。
「どうなるかは、触れてみないとわからないわ。」
椎名はそれ以上何も言わず、ただ静香の横顔を見つめた。
彼女の肩にかかる髪が揺れるたびに、その指先は自然と動きそうになるが、触れることはしなかった。
触れれば、きっと戻れない。
椎名はその一線を、無意識のうちに守っていた。
けれど、それがどれほど危ういものかも感じていた。
静香は椅子に深く座り直し、ゆっくりと肩を寄せた。
椎名の肩に静香の髪がかすめる。
「……触れたら、きっと壊れるわ。」
静香は、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
椎名は小さく息をつく。
「壊れたら、どうします?」
「もう、壊れてもいいかもしれない。」
静香は、椎名の視線に応えるように顔を上げた。
目が合った瞬間、彼女は自らの指先をそっと椎名の頬に伸ばした。
指が触れる寸前で、椎名が手を伸ばし、その動きを止める。
静香の指が彼の掌の中に包まれる。
雨音の中で、その音だけが大きく響いた気がした。
触れたのは、ほんの一瞬。
けれど、その短い接触がすべてを変える。
静香は触れられた指先に、微かな熱を感じた。
「……やっぱり、意地悪ね。」
静香が呟く。
「意地悪なんじゃない。」
椎名は静香の手をそっと離し、目を細めた。
「触れなければ、求め続けてくれるでしょう?」
静香は目を伏せ、口元をかすかに歪めた。
「求めているって、気づいてるのね。」
「ええ。」
車内に沈黙が落ちる。
触れた指先の感触がまだ肌に残る。
それだけで、静香の心は小さく震えていた。
「……触れて。」
静香は、ほとんど聞き取れないほどの声で言った。
椎名は微かに眉を上げ、静香を見つめる。
「もう一度、言ってください。」
「触れて。」
静香は再び椎名の指先を取り、今度は自らの頬に導いた。
指が肌に触れた瞬間、静香は小さく息を呑む。
触れない愛撫が続いた日々は、この瞬間のためにあったのかもしれない。
静香は、触れられた頬にそっと手を重ねる。
触れたことを後悔する気持ちは、どこにもなかった。
「……壊れてもいい。」
静香の呟きが、雨音に溶けて消えた。
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