第3話

第3章:沈黙の距離


静香の指先が、再びワイングラスの縁をなぞる音が、静かな部屋に溶けていく。

外では雨が降り続いていた。


椎名はソファに身を沈め、彼女の背中越しに街の灯りを眺めていた。

窓際に立つ静香の姿は、夜の向こう側に溶け込むように儚い。


「この雨、朝まで続くみたいですね。」


椎名がぽつりとつぶやく。


「そうね。でも、止まなくても構わないわ。」

静香はグラスを片手に、ぼんやりと外を見つめたまま答えた。


「濡れるのは嫌いじゃないの。」


静香は、触れ合うことを避けるようにして、けれど時折、誘うような言葉を残していく。

それはまるで、境界線を試すような、あるいは自分自身に問いかけているようだった。


「濡れるのが嫌いじゃないなら、わざわざここに泊まらなくてもよかったんじゃないですか?」

椎名がわずかに微笑みながら問いかける。


「誰かと一緒にいる夜が、あってもいいかと思ったのよ。」


静香が振り返る。

窓の外から差し込む光が、彼女の頬を優しく照らしていた。

椎名の視線が、グラスを持つ彼女の指先に留まる。

その指は細く、美しいが、どこか冷たさを感じさせた。


「触れてみますか?」


椎名の言葉に、静香はゆっくりとグラスをテーブルに置いた。

視線を下ろしたまま、小さく笑う。


「触れることが、必ずしも答えになるわけじゃないのよ。」


静香が近づいてくる。

彼女の足音は軽やかで、けれどその歩みにはどこかためらいがあった。


「そうかもしれませんね。」


椎名が立ち上がる。

二人の距離は、ソファ一つ分だけ。


静香は椎名の前で立ち止まり、彼の胸元にそっと指を這わせた。

肌に触れるわけではない、服越しの指先。

それでも、椎名は息を止めた。


「あなた、優しいのね。」

静香の指が、椎名の首筋まで上がり、そこで止まる。


「優しい男は、好きじゃないんですか?」


「好きよ。でも……優しさが、怖いの。」


静香は目を伏せたまま、指先をすっと離した。


触れられる一瞬前で止まる距離──それが、彼女を縛る鎖でもあり、ほどける鍵でもあった。


椎名は手を伸ばさなかった。

彼女が再び指先を絡めるその時まで、待つことを選んだ。

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