この背に翼はなくとも
「これより第二の修練を開始します。くれぐれも、己の心を手放さぬよう」
レオノティスは竜神の声に頷き、暗闇の中へ手を伸ばした。すると竜脈が五感の全てを掌握し、内包する記憶の海へと意識を運んでいく――
リルムフェスタ。
幾多の争乱に晒されてきた王都は、星明りの下つかの間の眠りについていた。
王都の中心には王城と竜樹が並び立ち、より高くそびえる竜樹はそのままリルムリット王国と竜神圏の力関係を表しているようにも見える。
そんな竜樹を睨むように一瞥し、エルギスは城内の回廊を淡々と進んでいた。
蝋燭に照らされた顔のしわは深い。
どうすれば、彼女とこの国を守ることができるのか――エルギスの思考の中心には、常にこの一念があり続けた。
そうせざるを得ないほど、敵対する二つの大国に挟まれた小国というのは危うかった。
居館へ入り、主の間へと長く伸びる赤絨毯を踏みしめる。
危ういといえば彼女自身もそうだ、とエルギスの表情はまた険しくなる。
思えばここを歩く時は、いつも胸が躍っていた。
なのに――いつからだろうか。
躍らせていたはずの胸に、かきむしられたかのような痛みを覚え始めたのは。
何もかもが、人の心など置き去りにして変わっていく。
かつて現実を変えたいと願ってやまなかった自分が、今はその現実に変わらないでくれと無様に縋りついている。
なんと皮肉なことか。
やがて一際荘厳な扉の前に立つと、両脇に立つ見張りの兵たちが敬礼して迎える。
『ご苦労。何やら重要なお話とのことで、警備を含めて誰も近付けるなとのお達しだ』
『はっ。しかし、一人の兵も陛下のお傍に控えないというのは……』
『ほう、この私では陛下の護衛に不足だと?』
『い、いえ、決してそのようなつもりでは……!』
狼狽する兵を見てエルギスはフッと相好を崩し、
『許せ、冗談だ。ともかくそういうわけだから、お前たちは少し休憩していてくれ』
『りょ、了解。それではお言葉に甘えさせていただきます』
敬礼して去っていく兵たちを見送り、その背が視界から消えたところで軽くノックしてドアを開ける。
『失礼します』
恭しく頭を垂れると、いつもの弾んだ声が返ってくる。
『いらっしゃい、エルギス。座って? 一緒に紅茶でも飲みましょう』
応接セットの椅子に腰かけていたアリシアは、目が合うと柔和に微笑んだ。
『は、はあ……では失礼して』
エルギスが対面に座ると、アリシアは慣れた所作で紅茶を淹れた。
『お心遣い痛み入ります、陛下』
『もう。二人きりなんだから、そんなかしこまらないでほしいわ』
子供っぽく、小さく頬を膨らませるアリシア。こういう茶目っ気のある仕草は何年経とうと昔から変わらない。
『申し訳ありません。すっかりこの口調に慣れてしまいまして』
『はあ……ま、あなたらしいけど』
アリシアは紅茶を口に含んでゆったりと間を取り、雰囲気を変えた。本題に入るのだろうと理解し、エルギスも居住まいを正す。
『えっとね。私、実は流行り病にかかってるんだ』
『……そう、でしたか』
短く返すと、アリシアはカップを片手に小首をかしげた。
『あれ。その反応、もしかして気付いてた?』
『言行の端々から、もしやと思うところはありました。確証に近いものを得たのは、人との接触を極端に避けるようになり、手袋を欠かさずつけるようになってからですが』
アリシアの両手は今も純白のドレスグローブに覆われている。グローブをつけることは立場上多かったが、それがいつからか人前に出る時は常に着用するようになっていた。……恐らくは流行り病の症状である、指先の黒色化を隠すために。
『わぉ。誰にもばれないようにしてたのに、さすがだねえ』
アリシアはからからと笑い、しかし、不意に寂寥感のこもった憂い顔になる。
『病状は芳しくないのですか?』
『ん。医者から長くないって言われるくらいには、ね。だからもし私に何かあったら、この国を――アイリスとイルミナを、あなたに託したいの。流行り病の蔓延、帝国と竜神圏の間での板挟み状態……悔しいけど、未曾有の国難は今も続いてる。だからこそ最も信用し、信頼するあなたに、国と娘を導いてほしい』
『…………私のような非才の身に過ぎるお言葉。謹んでお受け致します。しかし、イルミナ殿下については……?』
イルミナは現在セルフィール帝国にいる。長引く戦乱と流行り病の猛威に疲れ切ったこの国を救うため、アリシアは娘の身柄と引き換えに休戦をもぎ取ったのだ。
『方針は今までと同じ。叶うことなら、故郷の土を踏ませてあげてほしい。けどもしあの子を守ることで、この国をより病ませてしまうのなら……あなたの判断で、お願いね。エルギスだったら心配いらないわ』
『……しかと、承りました』
アリシアの答えに、エルギスは熱いものがこみ上げてくるのをぐっと抑える。
どうしてもイルミナを見捨てなければならなくなってしまった時は、自分が決断して手を汚さねば。アイリスに妹殺しの咎を背負わせることだけは、してはならない。
『代わりにといってはなんですが、暫し暇をいただけますか?』
『暇、ねえ』
アリシアは意外そうな反応をする。当然だろう。王国軍に仕えてからというもの、こちらから休暇を申請するなど初めてのことなのだから。
『もちろんいいけど、理由を聞いてもいい?』
『サイノスの竜樹を訪ね、《竜脈術》を修めたいのです。私が他者とマナを共有するという特異な能力を持っていることは、陛下もよくご存じかと』
『ええ、そうね』
昔は秘密特訓などと称して、よく二人きりで訓練した。けれど決まってマナの少ないアリシアが先にへばり、そのたびにエルギスからマナを分けてもらっていた。
もう、十年以上も昔のことだ。
そのことを思い出し、アリシアはクスッと笑う。しかしそれもエルギスの次の言葉でかげってしまう。
『もしその力を応用して竜脈を共有化できれば、不治とされる流行り病の治療に生かせるかもしれません』
『……エルギス。私は、自分のことはもういいの。この残り少ない時間は全て、アイリスたちと国のために使いたい。次世代を担う子たちのために――』
『これからでしょうっ!!』
女王の私室という場にそぐわぬ怒号が響く。
『前王妃のセルフィール帝国に対する反乱計画が露見したことにより、この国は危急存亡の大混乱に陥りました』
竜樹戦争の最中。
王妃の企てが発覚すると、王は帝国への忠誠を示すために王妃を粛清。すると王妃派は連座から逃れるため、帝国から譲り受けていた魔物の群れを開放した。これにより王都は大混乱に陥り、ついには王が落命する事態にまで至ってしまった。
混迷を極める状況下にあって王位継承権を持つアリシアを保護したのは、王妃派の要請を受けリルムリット王国へ電撃的に侵攻していた《竜師》・リコリスだった。
アリシアはリコリス庇護の下、サイノスの軍勢を率いて王都を制圧。圧倒的な力を示し、王位へついた。
しかし、未だ健在の王子こそ正統後継者であるという声も多く……リルムリット王国は、王子を擁立するセルフィール帝国派とアリシアを擁立する竜神圏派に二分。血で血を洗う泥沼の内戦へ発展した。
『そんな状態から三国間休戦を締結できたのは、陛下のご尽力があればこそ。またマナ技術による流行り病の克服も、ようやく現実味を帯び始めているのです。だというのに! いま拠りどころたる陛下が崩御して、どうして臣民が救われましょうか!』
『――私だって生きたいよ!!』
エルギスの凄まじい剣幕に、アリシアは怯むどころか敢然と抗弁する。
『できることなら、いつまでもこの国の行く末を見ていたい! イルミナを思いっきり抱き締めたい! ごめんねって謝りたい!! だけど……医者になんて聞かなくたって、自分の身体のことは私自身が一番分かってる。もう、どうにもならないって。これが……私の、運命なの』
運命。まるで諦めるための方便のように使われたその一言が、エルギスの激情を煽る。
『ならば、そんな運命など私が打ち砕いて御覧に入れます。《竜脈術師》となり、陛下に降りかかる全ての災いをことごとく打ち払ってみせましょう』
『……無理よ。竜脈を使えるのは竜神と、その子である《竜師》たちだけ。竜神とリルムフェーテ家の伝承も、おとぎ話……』
『おとぎ話であろうとなかろうと、私は《竜脈術師》へ至ってみせます。私の身にも、半分だけとはいえ竜人族の血が流れていますから』
『…………』
アリシアの目線がエルギスの角へ注がれる。
慈しむような目に、エルギスは彼女だけがこの角を褒めたことを思い出す。
エルギスが生まれたのは、竜樹戦争の初期。当時この国は竜神圏と激しく敵対していたため、竜人族の血は忌むべき対象とされていた。故にエルギスの翼は、彼が子供の頃に祖父の手でもぎ取られた。一方で角は残った。削ぎ落される前に、家族がセルフィール帝国と竜神圏の戦闘に巻き込まれて死んだからだ。
そうして孤児となったエルギスは、辺境の修道院でアリシアと出会った。
王と妾との間に生まれたアリシアは、王妃が子をもうけたことで王城を追い出されるようにして修道院へ送られたのだ。
アリシアは己の身空を理解しながら、王を想い、民を想い、城を出ることを受け入れた。
俗世間から隔離されてきた少女は、何もかもが真っ白だった。だからこそ少女は竜人族との混血であるエルギスにも分け隔てなく接し、彼の閉ざされた心を解きほぐした。
そうしてエルギスの心に触れるうち、アリシアもまた癒されていた。ずっと孤独に、何者も信用せず生きてきたエルギスの過去が、自らの過去と重なったからだ。
『陛下。昔かわした約束を覚えておられますか』
不意の問いかけに、アリシアはもちろんと苦笑交じりに答える。
王と王妃が同時に崩御して後、アリシアはリコリスとともに王城へ戻ることを決意した。玉座の空白を埋めるために。
出立の前日、アリシアは離れ離れになるエルギスへこう尋ねた。
『もし私が助けてって言ったら……傍に来て、守ってくれる?』
あの時と同じ言葉が、幾年もの時を経て再びエルギスへ投げかけられる。
『――任せろ』
今度は即答する。子供の頃は意味もわけも分からずおどおどして、それでもなんとか絞り出した答えを。
今こそ、迷いなく返す。
『……ふふ、懐かしい。今でもつい昨日のことのように、鮮明に思い出せるわ』
妙な間ができると、二人して小さく噴き出した。
『私は竜人族の血を引いて生を受けたことを恨んできた。そんなちっぽけで空ろだった私に、あなたは生きる理由と力への意志を与えてくれた』
竜人族の血は差別を生み、王国軍でのし上がるのに大きな障害となった。しかし同時にその血は潤沢なマナを与え、《精霊術師》としての高みへ導いてもくれた。だからこそエルギスは肉が腐るほどの苛烈な修練へ身を投じ、そうして得た力でもって戦果を挙げ続け、あらゆる批判を真っ向から捻じ伏せてきた。
そして今、かつて忌み嫌った血がアリシアを救う希望にさえなろうとしている。
『私の思う「強さ」とは、理想を実現するための力への意志の強さ。あなたのためならば、私はどこまでも強くなってみせましょう。私は、あなたをお救いするためにこの血を宿して生まれてきたのだ』
エルギスの熱のこもった弁に、アリシアは顔を伏せ胸に手を当てる。
『……私は果報者ね。竜人族と人間族の溝を埋めるなんて言いながら何も――むしろ竜樹を弱らせることでより対立を深めているのに、こんなにもあなたに忠節を尽くされるなんて』
『竜神とてあなたの真心は理解しているでしょう。それに、まだ終わったわけではありません。この私が終わらせません』
『エルギス……』
アリシアの視線に熱がこもる。
この期に及んで、生を望んでもいいのか――? そう問われているような気がして、エルギスは自信に満ち満ちた表情を張り付ける。
『この一身に代えてもお守りしましょう。リルムリット王国も、両殿下も。そして陛下……いや、アリシアも。恐らくは最初で最後の、《翼のない竜脈術師》として』
『ん……約束ね』
アリシアは屈託のない笑顔を返し、両手でエルギスの武骨な手を包み込んだ。いつかと同じように。
だからエルギスも、いつかのようにアリシアの身を抱き寄せる。ほんの、触れるか触れないか程度の力で。
いくら外見や関係が変わろうと、陽だまりのような温かさはあの時感じたまま。この温もりさえあれば、空も翔けられるような気がした。
この背に、翼はなくとも――
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