ミストの誘い

御筆ふみ

霧の向こう側

 朝、起きると歪な形になった手を見つめる。

 私はこういう運命なのだと、自分に言い聞かせて起き上がった。

 自分は、生きることに向いていない。水に触れると、溶けてしまう身体なのだ。

 私が小さいときから、家族は私に付きっきりで世話をしてくれた。とにかく水を使わずに生活する方法を模索し続けていた。私の生活に、家族全員が合わせていた。ずっとこんな暮らしで、家族に支えられながら私は生きてゆくものだと思っていた。けれど、そんな生活には、限界が来る。

「なんで、エメットばっかり」

 急に姉が怒鳴りだしたときは驚いた。ずっと、私に優しくしてくれた、温厚な人だったから。私の生活に合わせることに嫌気が差したのだろう。そのあと姉は私に謝ってくれたが、あれが本音であることが嘘ではないということは確かだった。自分の家族は自分のためにいるわけではない。これ以上、大切な家族に迷惑はかけられない。

「お母さま、私は1人で生きてゆきます」

 父と姉が出掛けている間、母にだけ、そう言った。父と姉からは、反対されると思ったから。お母さまは涙だけを流してただ呆然としていた。その涙は、エメットが1人で生きてゆけるのかという不安からなのか、エメットから解放される、という安心感なのかはわからなかった。私は母の姿を直視することはできず、足早に家を出た。行くあてもなく辿り着いたのは森だった。この森でなら、誰にも迷惑をかけずに生きてゆくことが出来るかもしれない。そう思い、森に足を踏み入れた。偶然、誰も住んでいなさそうな家を見つけ、そこで住むことにした。

 たった1人。誰とも接することなく、しばらく暮らしていた。変わりようがない、平凡な生活を、これからも送るはずだった。

 その生活に、変化が訪れた。玄関のドアのノック音が響いたのだ。

「だ、誰かいませんか」

 ここまで私を訪ねて来る人なんて初めてだったから、少し手が震えながらも、ドアを開けた。その人は、整った顔をした小学校低学年くらいの子供だった。知り合いじゃなくて、少しほっとした。

「助けてください。迷子になっちゃって……」

 たしかにこの森に慣れていない人は迷子になりやすい。だから、きっと私が案内するべきだ。しかし、外には霧が広がっていた。私は……この中を歩けるのだろうか。

「お願い、お姉さん……」

 その子はだんだんと目が潤んできた。

「早くお母さんとお父さんに会いたいよ」

 そう言うと、わんわんと泣き出してしまった。

「ああ、わかった、わかったから。お姉さんが案内してあげるから、泣かないで」

「本当に? ありがとう、お姉さん」

 さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、弾けた笑顔だった。

「じゃあ、行こう」

 行く先が見えない森に、踏み入った。

「どうして、この森に来たの? こんな朝から」

「虫を採りに来たの。そしたら、いつの間にか1人で……」

「どこから来たか、わかったりするかな」

「えっとね……この森、思ったよりとっても広かったから、どこから来たのかも忘れちゃった」

「あっ……そっか」

 よくわからないことを言う子だな……。まあ、人通りの多い場所へ出ればきっと大丈夫なはず。とにかく、この子を森から出させてあげないと。

「お姉さん、私、帰れるかな……」

「きっと帰れるよ」

 そう返事したが、内心焦っていた。じわじわとした感覚が身を包む。身体が、少しずつ溶けだしている。大丈夫だ、と心の中で自分に言い聞かせる。もし、この子を親御さんのもとへ帰して、無事に私も帰れたら、少しは克服できたと言えるかもしれない。そうしたら、また私も家族と一緒に……なんて、そんなことあるわけないか。この子には家族と暮らす権利がある。その未来を壊す前に、早くこの森から出なくては。

 霧で行く先が見えず、同じような景色をずっと眺めながら歩いていると、自分も不安になってくる。道を間違えてしまっているのか、これで合っているのかさえわからない。ただ、自分を信じて歩き続けている。

「お父さんにも、お母さんにも会えないね」

「そうだね……でも、人通りの多い場所まで行けば、きっと大丈夫だよ」

 この子を安心させようと、必死に声を掛ける。その言葉は、自分も安心させるように言っていた。

 この霧が無かったら、きっとすらすらとこの子を帰してあげたのに。いや、霧が無かったらそもそもこの子は迷子にならなかったかもしれない。運命というものの残酷さを知りながらも、やはり前に進むことしか出来なかった。一向に着く予感がせず、私はこの子に迷惑をかけている。この子の幸せを奪うなんて、絶対にあってはならないことなのに……。だんだんと不安が自分のなかで積み上がり、足がすくみそうになった。すると、その子供が足を止めた。

「あ、お姉さん、霧が晴れてきたよ」

「うん……え?」

 その刹那、さっきまでの視界が嘘のように晴れ渡った。そして、森とはかけ離れた、広々とした平地に来ていた。

「やっと、二人きりだ」

「ちょっと……どういうことなの?」

「お姉さん……いや、エメット。ここは天国だよ」

 一瞬、思考が固まった。その子供はみるみるうちに大人にと変貌し、私の身長をあっという間に超えた。

「神があなたをお呼びだ」

「どういうことですか」

「神は、君を気に入ったんだ。他とは違う、特別な人間だったから……君の生きざまは、とても尊いものだった。これからはずっと、この天国にいてほしい」

 そうか。もう私は死んだのだ。あなたに誘われて、霧のなかで溶けた。特別な身体を持って生まれたから、ここに誘われた。

「じゃあ、共に行こうか。ここを案内するよ。きっと気に入るさ」

 戸惑いながらも、私はその暖かな手を取った。私は、霧の向こう側で、私は生きてゆくことを決めた。

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ミストの誘い 御筆ふみ @mifude_kaibun

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