5 ショートカットの女
仕事帰りにツルヤに寄って買い物をし、帰宅するとすぐに食事を作った。のぞみは放課後真っ直ぐに帰宅したあとはひたすら自室に籠もって熱心に勉強していたようだ。いざ目標が定まると彼女は途端に集中してそれに向かって取り組み始める。逆にいえば、平時の彼女の日常はいかにも平均的な高校生のそれで、同級生たちが予備校や学習塾で適当に課外学習に励んでいるのに比べれば、むしろあまり勉強しない方だ。友だちと一緒に遊ぶ都合がつけば積極的に出かけるし、誘いがなければ大抵松宮白馬くんと過ごす。就寝までに最低一時間自室で机に向かう習慣だけは小学生の頃から変わらず継続しているものの、今日日高校生の勉強量としては明らかに不足しているといわれても仕方あるまい。それも娘が通うのは県内屈指の進学校の一つとされる松本開智高等学校である。校則と呼べるものは数えるほどしか存在せず、あくまで生徒の自主性を最大限に重んじる開放的な校風を持つ公立校だが、のぞみ曰く「みんな凄くよく勉強している」そうで、暇さえあればせっせと自習に励むのが開智の学生の標準で、入学当初から海外の大学へ進学することを明確に意識して計画的に自分を追い込むような熱意に満ちた視野の広い生徒もいるのだという。かといって頭でっかちな勉強頭ばかりかというとむしろ逆らしく、何か一芸に秀でていたり、修学以外の分野で煌びやかな才能を発揮したりする者がゴロゴロいて、しかも何をさせても良い意味で遊びがなく、彼らが課外で上げる成果はどれも一流である。「とても敵わないんだよね」などと娘は平気でため息をつくのだが、しかし同級生と切磋琢磨しながら自分も負けじと頑張ろうという気分にはなぜかならず、高校三年間を通じて帰宅部であり、会報を読む限りあれだけ生徒会が熱心に活動しているというのに外野から幾分冷めた目で眺めているという風であり、
「およそ開智の生徒らしくない」
という評判を、私は娘の友人や担任の先生方からいろいろな場所で幾度となく聞かされた。ただそれが必ずしも悪評とならないのは、娘の三年進級時の席次が学年トップであり、その飄々とした性格と振る舞いも手伝って「無二の秀才」との評価を多方面から得ているためであり、彼女の学校での立場をいくらか救っている。
そういう生徒が進路相談の席上、担任と進路指導を専ら担当する教諭二人の面前で何の躊躇いもなく名古屋の普通の看護学校へ行きたいと希望を口にしたことは教員たちのみならずクラスメートをも驚かせた。何も名門進学校としての誇りと卒業生たちの進学先での煌びやかな活躍の実績が在校生の進路を制限するものではないが、過去十数年を振り返ってもそういうささやかな進路希望を口にした者はほとんどいないそうで、のぞみの二年時の女性の担任は娘よりむしろ私の方を向いて暗に、考え直されたらいかがですか、というような意味のことを言いにくそうに言った。自身のことは自ら責任をもって自分で決めるというのはこの高校の校是であり、親である私の考え方にも合致するところだが、それにしてももったいないと思ったのだろう。
入学当初に同じように保護者を交えた面談の機会を得たとき、
「のぞみさんは普段ご自宅ではどれくらい勉強されているのですか?」
と当時の担任に熱心に訊かれた。卒業した中学校からの申し送り書にも彼女はよくできるとの評価が載っていたから、高等学校の教員として純粋に興味があったのだろう。
「さあ」私はあえて一旦口を濁してから正直なところを打ち明けた。「日に一時間、机に向かっていれば良い方ではないかと」
隣に行儀良く座っていたのぞみもうんうんと頷いて私の発言に同意を示した。
「一時間? それだけですか?」担任は狐につままれたような表情で聞き返した。冗談だと思ったのかもしれないが、しかしこちらも嘘は言えない。さらに、
「日曜日は休日ですから娘は一切勉強はしません。遊んでます」
と付け加えると担任は目を丸くした。これも本当だ。
のぞみはこれまで一度も予備校や学習塾に通ったことがない。通信教育や家庭教師を使ったこともない。私にその金を出す経済的な余裕がなかったからだ。自分の薄給が娘の学習の機会を奪っているようでずっと心に
おそらくのぞみを秀才に育てた要因を挙げるとすればこのささやかな習慣をおいて他にない。娘は高校に入学するまでひたすら学校で学んだことを、親鳥が雛に口移しで食事を与えるように私に教え続けた。途中から効率を考えて教科ごとにある程度内容をまとめるようにして、曜日ごとに科目を定めてこの勉強会を開いた。食事を終えて風呂に入るまでの時間を使って、娘は先生になり、私は生徒になった。のぞみはこのやり方を当初から気に入った。曰く、初めから人に教える前提で昼間に授業を受けていると、話の聞き方がまったく変わるのだという。教わった内容に少しでも疑問を残したままだと、そのままの自分の理解では帰宅したときに私に説明ができない。自然により深い理解を求めざるを得ず、不足している知識を補うために自分の手を動かしたり、先生に質問したり、あるいは放課後に自分で調べたりしなければならない。さらには学んだことを自分の言葉で組み直して口に出して人に教えるというのは脳のまったく異なる部分を盛んと使うらしく、「はっきり言って物凄く疲れる」そうだ。しかし頭の体操としてはこれは申し分ないもので、「おかげで夜はぐっすり眠れるよ」と娘は言う。
「それは」私の話を聞いた担任はしばらく言葉を失った。やがて、「それは素晴らしい勉強方法ですね。とても優れた考え方です」とやや興奮気味にひどく持ち上げ始めた。別に私の功績でも何でもないが、その通りだとは思った。
だからというわけではないのだが、のぞみは学校で学べる以上のものを他に求めようとしなかった。すべて学校で勉強したことを咀嚼し、呑み込み、それを人に一字一句漏れなく教えられる領域まで消化することに専念し、それ以上の修学機会を欲しがらなかった。開智に進んでからは私の代わりに白馬くんを教えるようになった。私の貧弱な頭脳では最早彼女の高校の授業範囲についていくことはできなかったし、私たちのこの習慣を知った白馬くんがぜひ自分も生徒にして欲しいと、半ば幼馴染みのプライドをかなぐり捨てるようにして頼み込んできたから、私はいっそのこと彼に生徒の座を譲ることにした。その方が二人の将来にとっても良いだろうと思ったし、娘にしてみれば、学んだことを誰かに教える作業こそが大事なのであって、生徒は誰でも良かった。母親の
「お父さん、分かると思うけど、これ、ホントに疲れるというか大変なんだよ」
とのぞみが念を押すように、彼女の勉強法は相当なエネルギーを費やすものだ。観念的にいえば、高校生が必要とする平均的な知識を高等教育を受け教員として相当な場数と経験を積んだ開智の先生方と同等のレベルで理解しつつ教授しなければならず、決して生半可な学習量では実現できない。学校で学んだことを反復学習するだけでのぞみにとっては精一杯だったはずだ。高校に進学すると、そのハードルはさらに引き上げられた。娘は放課後、開智の自習室に籠もって数時間を費やし、白馬くんに求められると会得したばかりの知識を彼に教授し、なるべく家に持ち帰らないように努めた。日曜日に教科書を開かないのは当然のことだ。彼女は休日にすっかり頭を休める重要性を理解していたし、実際にその必要があった。そして娘の開智高校における席次を見れば明らかなように、彼女はこれ以上取り立てて勉強しなくとも、既に信州で有数の優れた頭脳を持っていた。
そののぞみが、白馬くんや私に教えるためではなく、あくまで自分の将来のために、改めて机に向かい始めた。新しい季節がやって来たのだ。
夕飯のハンバーグが完成すると二階にいる娘を呼んだ。のぞみはすぐに降りてきた。柴色の起毛のパーカーにショートパンツといういつもの部屋着姿だ。パーカーは有名なアイドルグループの公式グッズとして売っているものだそうで、白馬くんがそのグループのファンなのだという。ただ娘は極端に世事に疎い女子高生で、とくに芸能界やネットメディアやテレビの話題にまったくといっていいほど関心がなく、当然そのアイドルグループのことも何も知らない。
「ななせまるっていうのが白馬は好きなんだって」
といつぞやのぞみが教えてくれたのだが、無論私には何のことだかさっぱり分からない。そこでつい大真面目に、
「それは戦国の頃の出城か何かのことか?」
と訊いたのだが、娘は曖昧に首を捻って、
「たぶん、違うと思う」
と自信なさげに答えた。彼女にもよく分からないのだという。ただ恋人にせがまれて言われるがままにそのパーカーを着ているだけで、曰く娘がその紫色の服を着ていると白馬くんはひどく興奮するらしい。まあ、そういうものなのだろう。よく分からないが。
自宅には叔父の
という余談はともかく、松本の四月の夜はまだまだ寒い。だが、娘は真冬でもよほどのことがない限り、家ではスカートかショートパンツで素足を大胆に出して過ごす。それも彼の趣味なのだと彼女は私に理解を求めるのだが、仮にそうだとしてもそれは恋人の前で見せてやれば良いのであって、父親の前では年頃の女の子らしく防衛に徹しても良さそうなものだ。母親譲りの長くほっそりとした足は丁寧に剃毛して、クリームを塗っている。娘は人並みに美容には気を遣っている。あるいは人並み以上かもしれない。奈津さんには、
「修児さん、高校生にしてはちょっとお金かけ過ぎなくらいよ」
とたしなめられるほどだが、娘に渡している小遣いはいたって平均的なもので、彼女はそれに本屋でアルバイトとして働いて稼いだ金を足して自由に処分している。単純に美容により多くを回しているのだろう。開智高校の数少ない校則の一つはアルバイトを禁じているものの、娘は端からそれには無頓着で、おそらく学校側にも知られていると思うが、黙認されているようだ。のぞみは自立・自活についてのこだわりが極端に強く、それは父子家庭に育ったことと無縁ではない。
食卓に並んだ皿の料理を見てのぞみはひどく嬉しそうな笑顔を見せた。ケチャップソースの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。ハンバーグは娘の大好物だ。人によって意見が違うかもしれないが、私はこれほど手間のかからない料理はないと思っていて、仕事の帰りにスーパーに立ち寄り、陳列棚に並ぶ食材を前に献立に迷ったり、難しい料理を作ることに億劫になったりしたときは、さっさと合い挽き肉を手に取ってしまう。この料理にはおよそ失敗する心配がない。何より娘の機嫌を取ることができるから、片親にとってこれほどありがたいものはない。
私の皿に載ったハンバーグを覗き込んだのぞみが不思議そうな表情をしている。
「お父さんのやつ、やけに小さいじゃない」
「うん。僕は今日はこれくらいでいいんだ」
「それ、どちらかというとミートボールだね」
「まあ、似たようなものだからね。味付けが多少違うだけで途中まではほとんど同じだ」
「そっか。じゃあ、いただきます」
「いただきます」
ちゃぶ台の前であぐらをかいて娘と食事を囲む。十七年、この光景を続けてきた。一年後、娘はこの家を出て行く。淋しい思いは当然あるが、あっという間だったという気もする。何よりこの歳になっても父親が作った不器用な料理を大人しく一緒に食べてくれることに感謝しなければならない。彼女のおかげで私は孤独にならずに済んだ。
食事をしながら二人で互いの今日一日に起きたことを報告し合った。これもずっと続けている習慣だ。家族は四六時中一緒にいるわけではない。娘は学校へ行くし、友だちと遊ぶし、恋人の家に泊まる。私は会社へ行き、仕事をする。互いが互いを見ていない時間は確実に存在するものだ。
普通親は、自分は自分の子のことなら何でも知っていると思っている。というより思いたがる。実際には子供たちから彼らの話を逐一具に聞き取っているわけではないし、彼らが何を考えているのか、いまどんなことに興味があるのか、あるいは何に悩んでいるのか、いちいち何度も尋ねて把握しているわけではないはずだ。どんなに子供想いの親であってもそれは同じだ。日常生活を送っていれば、親は確実に自分が知らない子の一面を我が子に与えることになるのだ。それを自立と呼ぶこともできるし、放任していると切り捨ててしまうこともできるし、高尚な概念を持ち出せば、子供の自我を独立させるのに必要な過程なのだと論じてしまうこともできる。
上手くいくのであれば、子のすべてを知らなくとも親は充分に務めを果たせる。問題は、子が自ら一人で過ごす時間に独りでにつまずいてしまったときだ。あるいは知らず知らずのうちに望ましくない方向へと自ら走り出してしまったときだ。そのときに親が「私は知らなかった」のひと言で子を突き放してしまうと、彼らは私たちに対する信頼を一度になくしてしまう。どんなに自立に向かって成長しているように見えても親は子の心の拠り所であり、どんなことがあっても最後は頼りにできると信じる安全装置でなければならない。我々に「知らなかった」で済まされることなどない。どんなに知ることが困難であっても私はのぞみのことを知り、彼女を理解し続けてやらなければならず、それは不断の努力によってなされるものだと私は思っている。
一日別々の場所で別々のことをしていた親子が、その日の最後の食事を囲みながら一日の出来事を共有することは、親子の心が離ればなれにならないために必要なことだと思って今日まで続けてきた。娘はこれまでいつだって私に絶対的な信頼を寄せ続けてくれたが、何も親子だから当たり前なのではない。
新学年となり、開智高校は生徒それぞれの進路に合わせてクラスが細分化し、のぞみは理系の最上位クラスに振り分けられ、文系の白馬くんとはカリキュラムの大部分を分かつことになった。娘にしてみれば文理の区別や習熟度によるレベル分けは意味を持たないことで、とりわけ看護学校を受験する彼女にとっては、東京の最難関の医学部を目指しているような理系の生徒に混じって授業を受けることにまったくこだわりはないらしく、白馬くんと顔を合わせる機会が減ってしまったことをハンバーグを突きながら嘆いていた。高校生活に相も変わらず少女のようなときめきを求め、それを何より重視する点でものぞみは異色の存在で、開智でこれほど嫌みなく堂々と交際している生徒はのぞみと白馬くんくらいのようで(高校の暗黙のルールで恋愛自体禁止であるという噂を耳にしたこともあるが)、そういう意味でもやはり開智の生徒らしくなかった。
しばらく新しいクラスの話を盛んと聞かせてくれたのぞみは、私がいつもより小食であることに気づいて、
「どうしたの?」
と心配してくれた。
EMのドライバーの仕事が重労働だとは私は思っていないが、とはいえオフィスでデスクワークをすることに比べればよく身体を動かすし、医薬品の配達というのは基本的に軽い荷物が多いものの、一日何十件もパレット片手にあちこち歩き回ればそれなりに疲れる。この仕事に就いてもう二十年以上が経つが、東京にいた頃に比べて格段によく食べるようになったし、食事量はあるいは平均的なサラリーマン以上かもしれない。食べ盛りの娘より食べるくらいだ。
「うん、ちょっとお昼を食べ過ぎたんだ。夜はセーブしておこうと思って」
「アオシマ屋のお弁当じゃなかったの?」
「そうなんだ」私はミートボールサイズのハンバーグをひと口かじった。呑み込んでからさりげなく「実は人からカツサンドをいただいてね」と言った。
「カツサンド?」のぞみはいかにも羨ましそうな顔をした。「いいなぁ、わたしカツサンドなんてもう何年も食べてないよ。どこのやつ?」
「いや・・・・・・それがその人の手作りなんだ。どうも今朝わざわざ揚げたものを挟んでくれたみたいで」
「ウソ! 凄い! ズルい!」のぞみははしゃぎだした。「えっ、誰なの? 職場の人? あっ、分かった、白馬のお母さんでしょ?」
「残念ながらどちらでもない。奈津さんとはここしばらくお会いしてないし」
「ホントー?」のぞみは疑うように悪戯っぽい笑みをこちらに向けた。
「心配しなくとも、きみや白馬くんに黙って彼女と逢ったりはしないよ。変な噂が立ったらきみたちだって困るだろう」
「困るよ」あっさりとのぞみは答えた。茶碗を手に取り食事を再開する。彼女は白飯を口に運びながら続けた。「お父さんと白馬のお母さんが再婚すると、わたしは白馬の妹になっちゃう」
「姉ではないのか?」
「どうして?」
「きみの方が何となくお姉さんっぽい気がするから。彼はどうも、のぞみの尻に敷かれているような感じがする」
「そんなことないよ。白馬は頼りがいのある男だよ」のぞみは私から視線を少しだけ逸らして、私の背後にある仏壇のあたりにうっとりとした視線を向けた。「彼、わたしとエッチするとき、わたしの手足を縛り上げて、首を軽く絞めながら『オレのこと好きか?』って訊くの。わたしが頑張って何度頷いても、彼、自分が満足するまでわたしに自由に息をさせてくれないの。どう考えても白馬の方がわたしより
「そ、そんなことやっているのか・・・・・・」私は恐怖を伴いながら呆然としてしまった。
「冗談に決まってるでしょ」のぞみは吹き出した。「お父さんってからかいやすくて助かる」彼女は面白おかしそうに笑った。「白馬は四月生まれじゃない。わたしたちほとんど一歳分歳が離れてるんだもん。彼がお兄さんでしょう、どう考えても」
相変わらずの理屈屋というか、考えに遊びのない高校生だ。信州にはこの手の若者が多い。県下屈指の難関校たる開智の学生ともなると、まさにこういう理屈屋の宝庫である。
私はため息をついた。「大人をあんまりからかうもんじゃないよ」
「それで、誰なの? カツサンドの彼女」
「まだ女だと言った覚えはないんだけどな」
「男がそんなもの朝から作ってお父さんに持たせたのだとしたら、その人はゲイで、お父さんに気があるんだと思う。ただ娘としてはそれだけはどうしても容認できないけれど」
「僕が由希以外の人間と交際すること?」
「そうじゃないって」のぞみは声を大きくしてまくし立てた。「性のマイノリティーを尊重することや多様性を受け入れることが社会をより良くすることはわたしだって知っているし、きちんと理解しているつもりだけれど、それと個人の性的指向は別物だと言ってるんだって。お父さんが他の女の人と付き合うのは全然構わないし、できればまた誰かと一緒になって欲しいと思って応援しているけれど、わたしは二人のパパの娘にだけは絶対になりたくない」
「誤解を招くような言い方をしてすまない」娘の強い口調に圧されながら私は冷や汗をかいた。私を動揺させたのはもちろんゲイを好まないと言ったことではなく、娘が私の再婚を積極的に後押ししているということだ。「女性だよ、もちろん。僕にカツサンドを包んで持たせてくれたのは。今日初めて会った人だったんだけれど」
「独身?」
「離婚されたらしい。本人がそう言ってた」
「美人?」
「なかなか」
「お母さんと同じタイプ?」
「いや、全然違う」
「たとえばどんな風に?」
「ひと言で説明できないけれど、由希はきみと同じでいかにも 〝美人さん〟 というタイプだった。打ち解けるまでは男に警戒心を抱かせるくらいちょっと近寄りがたい雰囲気さえあった。高嶺の花だよ」
「わたし、そんなにお高く留まってないよ」
「たぶん、白馬くんはそう思っていないと思うよ。きみをほかの男に取られることを何より恐れているはずだ」
「ふうん」のぞみは箸を置いて茶をひと口啜った。「それで、その人は 〝美人さん〟 ではないの?」
「可愛らしい人だ。屈託なく笑い、少々無茶なこともするし、突拍子もないことを言ったりもする。薬問屋のドライバーにお弁当を手渡したり、人が飲んでいたコーヒーカップをいきなり横取りして躊躇いもなく味見したりする」
「今日初めて会ったばかりなのに、もうそんなにイチャイチャしてきたの?」
「あまり大袈裟に言い立てないでくれよ。お父さんはドライバーとして仕事しに行っただけで、彼女の方も当たり障りない世間話に付き合ってくれたに過ぎない」
「きっと慣れてるんだね、その人」のぞみはひどく感心したように両腕を組んだ。「男の人の心を掴む技術に長けてる」
「分かるのか?」
「わたしも女だからね。これでも一応」
「疑っちゃいないよ」
「でも、わたしはお父さんと同じでうぶそのものだから。媚びを売って男を落としたり、胃袋を掴んだり、そういうのは全然上手くない」
「そうなのか」
「何ていう人?」
「雪乃——福原雪乃」
「ほほう・・・・・・」のぞみは右手で口元を覆い、肩をすくめ、にやついた。「それはお父さんにとって容易ならぬことだね。名前を呼ぶたびにお母さんのことを思い出さずにいられない」
「問題はもう一つある」
「何?」
「その人は髪が短いんだ。栗色の綺麗なショートボブ」
「へえ」のぞみは目を見開いた。「珍しい。だってお父さん、ショートの女の人、苦手じゃない」
「そうなんだ」私は認めた。「苦手だったはずなんだ」
娘の秀才は小学生当時から既に顕れていて、彼女は普段の学校の授業の課題だけでなく、夏休みの読書感想文や自由研究でもその異才を遺憾なく発揮した。
以下は、つまらない挿話である。
小学四年生の夏休みの自由研究でのぞみは松本空港の模型を作った。紙細工を駆使して滑走路とターミナルと管制塔を作ったのだが、空港はジオラマのほんの一部で、娘は松本・塩尻の市街地図を適当に縮写し、地図の上に模型を据えた。さらに周囲をぐるりと囲む山々も紙粘土をこねて作り、ジオラマの外周に正確に配置した。いかにも彼女らしい精緻な造りで、山肌や頂の形状を忠実に再現した。それを可能とするために私は車を出して娘をあちらこちらへ連れて行き、のぞみは空港から見える山々の写真を使い捨てカメラで手当たり次第に撮った。さらに中央図書館で国土地理院発行の山岳地図を見つけてコピーをもらってきて、模型の精度を高めた。
そこまではいい。というか、その程度であれば父親も胸中穏やかでいられた。
のぞみはさらに過去の空港周辺の気象データを欲しがり、夏休みに入る直前に学校のコンピュータ室を借りてウェブサイトから必要なページを捜し出して印刷した。彼女が必要としたのは風の流れだった。具体的には松本盆地周辺に幾重にも重なる山々の尾根を伝って市街に流れ込む複雑な風の動きを知りたがった。上空に低気圧があるような悪天候時にそれらがどのように変化するかということに関心があった。
娘は新聞の土曜版に、日本で最も標高の高い場所に存在するこの松本空港というのが国内屈指の着陸が難しい空港であるという紹介記事を見つけて読んだらしい。よほど面白いと思ったのか、それを自由研究のテーマに据えることにした。
松本空港は、周囲を取り囲む山々から流れ込む複雑な風が着陸に必要な進入路上で交差し、機体を下からあおるような気流を生むために操縦士泣かせの空港なのだという。さらにはこの豊かな山脈は空港から上空を飛ぶ航空機に正確に通信電波を飛ばす妨げにもなり、地上から着陸を誘導するための
日本列島というのは平地が極端に少なく、少ない平地のほとんどが中央の険しい山々に追いやられるように海岸に寄っており、商業都市の多くが海沿いにある。東京も名古屋も大阪も福岡もそうであり、都市に必要な空港も必然的に海の近くに造られる。
海沿いの平地の空港というのは基本的に海風を御すことのみを考えれば良く、海風というのは大雑把にいえば一方向である。無論、時と天候次第で風向きはころころと変わるが、幾方向から同時に吹き下ろし交錯する複雑で気まぐれな風に翻弄されるということは普通はない。しかし松本盆地にはそれが日常的にある。
のぞみは力作のジオラマを完成させると、アクリル板を加工して作った透明なカバーを上から被せた。カバーに白いインキのマジックペンで風の流れを書き足した。すべて自分が取り寄せた過去の気象データをもとになるべく正確に描き込んだ。カバーは三種類用意した。平時の流れと、悪天候時のパターンを二種類作り、そのうちの一つは実際に着陸を試みたものの断念し、出発地の札幌へと引き返した一例を参照して、どのような乱気流が生まれたのか視覚的に分かるように図示した。彼女はさらに、ジオラマとは別に短いレポートを作成し、合わせてその年の課題提出物として休み明けの学校に持参した。
よほど驚かれたようで、いったいどれだけ親が手伝ったのかというような嫌みを私は方々から言われたが、私にこの研究に手を出すのは不可能だった。すべての発想が娘の独創であり、独創である以上要所要所で彼女がその可愛らしい小さな頭で何を考えているのか私にはまるで見当がつかず、さらにいえば添付の手書きのレポートを読んでみたものの、とても小学四年生の文章とは思えず、その科学的な内容の半分も私は理解することができなかった。何よりその創意工夫と子供らしい苦心に満ちた試行錯誤の痕跡は、とてもではないが大人が中途半端に関与してできあがるようなものではなく、娘の提出物を見てそれをすぐに県の科学技術大賞の選考会に応募した彼女の担任教諭も、審査の上満場一致で最高の栄誉である県知事賞を贈ることを決めた審査員たちも、そのことに一切の疑義を挟まなかった。
以上のことはまったくの余談である。多少娘を自慢したい意図がないわけではないが、伊那市で行われた展覧会に娘の担任に連れられ、のぞみの表彰式に出席したときのことを書くためにこの話題を持ち出した。
当時ののぞみの担任は二十代の女性で、若いが聡明で子供たちの信頼の厚い先生で、娘の良き理解者だった。三年生から持ち上がる前に保護者面談で顔を合わせたときは長い黒髪を真っ直ぐに下ろしたいかにも真面目な印象であり、少々古風にすら映ったが、私としてはとかく好印象だった。それが県知事賞受賞の報せを伝えてくれたときには髪をバッサリと切ってしまっていて、わずかだが色も入れていて、見違えるように垢抜けてしまっていた。伊那まで向かう電車の中で私はその先生と上手く目を合わせられず、娘の功績をひたすら褒めてくれる彼女に対して終始要領の得ない返事を繰り返し、最後の方はひたすら黙っていた。
後日のぞみは担任から、
「高島さん、ひょっとして先生、お父さんから嫌われているのかしら」
とひどく心配そうに耳打ちされたらしい。私は正直にのぞみに打ち明けた。女性の容姿についてはうるさく言う方ではないし、これといってはっきりとした好みやこだわりがあるわけではないが、どうもお父さんは髪の短い女性が苦手なようなのだと。それがどんなに心優しく、気品があり、当人に相応しい魅力を持った女性であったとしても、髪を切るとこちらは途端に落ち着かなくなってしまうのである。
以下は蛇足ながら、さらなる余談である。
娘の恋人である松宮白馬くんの母親の奈津さんは、彼がまだ二歳にならない頃に離婚し、以来女手一つで白馬くんを育ててきた。離婚当初は私の叔父の家と同じ地区にある実家に幼子と身を寄せ、娘と同じ保育園に息子を預けている間、ひたすら再婚相手を求めて数々の男性と交際を試みたらしく、園の保育士や同じ地区に暮らす住人の間で噂になるほどだった。私は当時それどころではなく、近所の付き合いに首を突っ込む余裕はなかったから、このことは後年奈津さんの口から直接聞かされた。
「わたしはどうも男の人への依存が過ぎるようです」
と彼女は反省の言葉を口にしていたが、白馬くんが小学校に入学する前後に思い直し、再就職して自活する決意をし、実家の一室で子供向けの英会話教室を開き、いまもそれを仕事にしている。聞けば東京の私立大学の英文科を出ているという。初めて挨拶を交わしたときから決して悪い印象はなく、私に比べればずっと知的な人だと思っていたから、前述の男漁りのエピソードはとても意外で、学歴を知ってやはりきちんと育った人なのだと納得した。もっとも奈津さんは、
「誤解ですよ、修児さん。わたしがいたのは、サークルのコンパと浜辺のBBQで男子学生にチヤホヤされることが女子大生の本分だと思っているようなレベルの学校で、わたしもまさにそういう頭の弱い学生でした。英文学なんてこれっぽっちも真面目に勉強した記憶はありません」
と謙遜するが、そうはいっても学士は学士である。中卒の私からすれば雲上人であり、事実立派に育った白馬くんを見ていると、彼女にはひたすら憧れと尊敬の念しか抱かない。
そんな奈津さんも白馬くんが小学生当時はまだ一人で我が子を育て、家庭を支え続ける自信が持てず、再婚の夢も無論諦めていなかった。彼女はより現実的な選択肢を模索していたが、あるとき何を思ったのか、白羽の矢を私に立てようとした。
それも単に生活を安定させる手段としてではなく、私に異性として真っ直ぐな恋愛感情を持ち始めたらしく、こうなってしまうと猪突猛進型の奈津さんは手がつけられなくなる。彼女は私に白馬くんの父親になって欲しいと真剣に考えていたようで、当然自分ものぞみの母親になるべく覚悟を固めていた。
私は困惑した。
だが、それ以上に動揺したのは義理の兄妹にされようとしていた白馬くんとのぞみの方だっただろう。既に二人の関係は単なる幼馴染み以上のものになっていたし、奈津さんはともかく、私はそのことを知っていたし、理解もしていた。
「冗談じゃない」
とはさすがに言わなかったが、このままではまずいと二人は思った。白馬くんは私のことを好いてはいてくれているようで、義理にも私が自分の父親になることを歓迎する気持ちはあったというが(このことは開智に二人が入学する直前のお祝い会の席上でこっそりと打ち明けられた)、それでのぞみとの恋仲を諦めなければならないとなると話は変わってくる。
(何とか翻意させよう)
という話が二人の間でまとまり、その方策を練った。そこで何事にも頭が鋭く回転する娘が、私の性癖を参考に良案を思いつき、白馬くんに伝え、実行させた。子供が思いつく悪知恵としてはかなり悪質な部類に入る。
「お母さん、髪をショートにしてみたらいいんじゃないかな」
ある日白馬くんは出し抜けに奈津さんにそうアドバイスした。暗にそうすれば私に気に入られるかもしれないよ、と彼は匂わせていた。
あくまで素直で純真な心を持つ奈津さんは白馬くんとのぞみの魂胆にまったく気づかず、小学生の息子の勧めに従い、髪を切った。そんな単純なことで男女の仲がどうにかなるものなのかと白馬くんは半信半疑だったのかもしれないが、結果的には私の単純かつよく分からない性癖が仇となり、私はイメチェンした奈津さんを目の当たりにして言葉を失い、以来なるべく直接顔を合わせる機会を減そうと意識せざるを得なくなってしまった。彼女を一人前の立派な母親として尊敬しているし、娘の幼馴染みの母親として、あるいは一人の女性として親愛の情も持っているが、どうも私には、それとは別個に一種の強烈なアレルギーのようなものがあるらしい。
奈津さんは未だに小学生当時の白馬くんのアドバイスを律儀に守り続けており、そのうちに奈津さんも二人の関係に気づき、おかげで娘たちは兄妹にならずに済んでいる。
以上、恥ずかしながら長々と自分の奇妙な性質について説明してきた。のぞみは正しい指摘をしている。これは確かに珍しいことなのだ。
福原雪乃と初めて顔を合わせた私は、いま述べてきたような拒否反応を示さなかった。まったく初めてのことだ。私が打ち明けた話から娘は機敏にそのことを察した。
私は、雪乃に一目惚れをしたのだと。
希望 秦鴻太朗 @__e_m_logi__
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