私の忘れもの

夢咲蕾花

私の忘れもの

「ここに来ちゃ駄目だ。怖い妖怪がたくさんいるって、わかっただろ?」


 私は、その声の主のことをほとんど忘れてしまった。顔はおぼろげで、目元に歌舞伎役者のような緋色の隈取くまどりがあったことは覚えているが、名前は思い出せない。


 ただその手が優しかったこと、そして背負ってくれた腰に九本の尻尾が生えていて、とても優しい匂いがしたことだけは、はっきりと覚えている。

 五年も前だっただろうか。肝試しで男子にからかわれ、むきになった私は入ってはならないという神域しんいきの森に足を踏み入れてしまった。

 そこからはあまり覚えていないけれど、その男の人が私を見つけてくれて、助けてくれた。


「約束、できるか?」


 男性は小指を差し出した。私もそれに応じて、小指を絡める。


「二度とここには来ないって――」


 その声を上書きして、私は――


「うん、やくそくだよ、なにがあっても、わたしは――」


 私は――


 なんだったか。なにかを約束したのだ。

 男性は面食らったような顔をして、「覚えていたらな」と笑った。

 その顔は、とても寂しそうだった。



     ◆



「お父さんなんて大っ嫌い!」


 私はそう怒鳴って、家を飛び出した。後ろから「待ちなさい! 浮奈うきな!」と声がしたが、それを無視して走った。

 ひょんなことから言い争いになり、私は激怒して弟を叩いた。それを見たお父さんがわけも訊かず私を犯人にして、怒った。

 悪いのは私じゃないのに。弟が私の人形を取るから――


 怒りに任せた私の足は、そこで立ち止まった。


 大きな鳥居。村人たちが『妖怪の住処である幽世かくりょに繋がっているから近づくんじゃない』と口を酸っぱくして言う、神域の森だ。

 馬鹿馬鹿しい、そんなもの、いるはずがない。

 いくら私が十二歳の子供だからといって、もうそんなものを信じるほど幼稚ではないことくらい、周りもわかっているだろうに。


「馬鹿馬鹿しい」


 胸中で沸いた言葉を口にし、鳥居をくぐって階段を上った。

 その先にあったのは、朽ちた神社。大昔に建てられ、神様を祀るために人々がお供え物を持って年に一度ここを訪れたというが、そんなもの作り話だ。

 大昔に作られたのは事実でも、神様なんているわけがない。どうせここを管理する人間がいなくなって、誰かが面白おかしく脚色しただけに違いない。


 そのときだった。


 私の首筋に、衝撃が走って視界が暗転したのは。


     ◆


「――こんな小便臭いガキ、捕まえてなんになるって言うんだ?」

「――村人が警戒して誰も来ないんだ。丸焼きにして、食おうぜ。なあに、ひいらぎ様にゃばれねえって」


 聞き覚えのない声がして、私は目を開けた。

 動けない。

 手足をロープで縛られ、私は芋虫のように転がされていた。テレビで聞いたことのある、馬のいななきと、振動。馬車だろうか。自動車が普及したこのご時世に、一体どこの誰がそんなことを――


「起きたみたいだぜ、兄貴」


 その人間――いや、違う。なにかが、振り返った。


「ひっ」


 私は息を飲む。


 頭が、人間ではない。牛の頭になっている。


「つ……、つくり、もの」


 自分で口に出して混乱した頭を落ち着けようとするが、どう見ても被り物ではない。本物の牛だ。


「運がないな、ガキ。だけど安心しろ、その命は無駄にしねえで、俺らがちゃんと食ってやるからよ」


 二人組の牛男たちは声を上げて笑う。

 私は震える手足を、どうすることもできなかった。


「あん?」


 そのとき、牛頭の一人が馬車を停めた。


「どうした、兄貴」

「馬鹿が通せんぼしてやがる。――おい、どけ! き殺すぞ!」


 ここからでは私の目にはなにも見えない。必死に身を乗り出し、荷台から顔を覗かせる。

 すると月明りに照らされて、狐の面を被った和服に袴と言う時代錯誤的な格好をした男性が立っていた。


「悪いが、そういうわけにもいかない。そのむすめを放してやってくれ」

「横取りしようってのか!? ああ!?」


 あの人も私を食べるつもりなの?

 牛頭たちが馬車から降り、狐面の男を睨め上げる。


「忠告はした。退かないというのなら、こちらも容赦はしない」

「グダグダうるせえんだよ! てめえから食って――」


 牛頭の一人が拳を振り上げる。男性はその拳を払い除けると、姿勢を崩した牛頭の男に腰から抜いた日本刀の柄を叩き込んだ。


「がっ――」

「兄貴! てめえぶち殺してやる!」


 もう一人が突進するが、狐面の男性は半身になってそれを避けると、足を蹴飛ばし転倒させる。


「て、てめえ」

「退け。退かないのなら容赦はせん」

「るせえ!」


 立ち上がった牛頭に、男性は刀を振るった。


 私は血が出る、と思って目を見開いたが、聞こえてきたのはものを斬ったときの音ではなかった。


「無駄な殺生は嫌いでな。峰打ちで済ませてもらったぞ。……さて」

「こ、来ないで!」


 私は身を捩る。だがなにもできない。


「安心しろ。俺は君を助けに来た。……やれやれ、出かけて来てみれば暴漢二人に、子供が一人。言いつけを破ったのか」

「……あな、たは」

「ああ、名乗るのが礼儀だな。俺はシュウ。君は?」

「う、浮奈」

「浮奈……覚えたぞ。今縄を切ってやる。じっとしていろ」


 シュウと名乗った男性は器用に刀で縄を切る。


「ありがとう、ございます」

「礼には及ばない。しかし関心せんな。神域の森には入るなと言われていただろう」

「……ごめんなさい」

「人の子の身で幽世に来るとはな……もう少し、あの村のものにはきつく言うべきか」


 私はシュウさんに訊く。


「まるで、人間じゃないみたいな口ぶりですね」

「ああ。俺も、そこの牛も、人間ではない。化生の者だ。妖怪と言った方がわかりやすいか」

「……よう、かい」

「安心しろ、浮奈。これは悪い夢だ。じきに目が覚める。……さて、ここを出るぞ」


 そのとき、私のお腹が盛大に鳴った。


「ご、ごめんなさい」

「はは、緊張がとけたか。まあいいだろう。少しより道でもするか」


 と言って、シュウさんは私の手を握る。

 ……?


「どうかしたか?」

「いえ……」


 なんだろう。


 懐かしい。


     ◆


「シュウさん、いらっしゃい。今日はお目当ての女の子は休みよ」

「馬鹿を言うな。俺がまるで女好きみたいに聞こえるだろう」

「どの口でそれを言うんだい。柊様のお付きが女好きの駄目妖怪だなんて、街の全員が知ってるよ」

「……最低です」


 私は思わず、命の恩人であるはずのシュウさんに言ってしまった。

 若女将、といった具合の店主と思しき人の前で、彼は慌てて取り繕う。


「い、いや違うぞ浮奈! 決してそんなことはない! そんな冷たい目で俺を見るな!」

「なんだい色男。今日はそんなちびっこいのを連れて。……見ない顔だね」

「ああ、この子は俺の遠い親戚でな、浮奈と言う。さっきばったり出くわしたから、ちょっと連れて回ろうかと思ってな」

「あんたに家族なんていたのかい? 初耳だよ」

「それよりも、団子をくれぬか。安心しろ、今日は銭を持って……あれ」

「はいはい落としてきた、だろ。柊様につけとくから」

「すまん……」


 シュウさんは肩を落としたが、すぐに私の手を引いて小上がりに上がった。


「だらしないひと……」

「ぐぬ……だ、だが剣術は見事だろう!」

「暴力にしか取り柄がないなんて、尚更です」

「…………」


 シュウさんは明らかに落ち込む。お面越しにも、表情がわかるほどの落ち込みようだった。

 ……て、まさか。


「わ、私をそういう目的で助けたんですか!?」

「違うぞ! 俺はちんちくりんになど興味はない!」

「ち、ちんちくりんって……酷いです!」

「あ、いや、あと十年も経てば美人になるだろうと……」

「追い打ちをかけないでください!」


 どうせ胸も引っ込んでるチビですよーだ。

 ふてくされた私の前に、三色団子と湯気を立てる熱いお茶が置かれる。


「仲がいいわねえ」

「そんなんじゃないです!」


 私は否定したが、若女将さんは笑った。


「ゆっくりしていきな」

「ありがとうございます」

「うむ、すまんな。次はしっかり銭を持ってくる」

「何度聞いたことか、その台詞」


 どうやらシュウさんの無銭飲食は頻繁にあることらしい。

 私はそんな彼からものを貰っていいのか、少し躊躇ためらう。


「どうした? ここの団子は最高に美味い。食って損はない。……ああ、黄泉竈食よもつへぐひを気にしているのか?」

「よもつ、へぐひ?」

「知らんか。黄泉竈食ひというのはな、あの世のものを口にするとこの世に戻ってこられなくなるという話でな。だが安心しろ、そんなことはない」

「まるで実体験があるみたいですね……」

「まあ、な」


 シュウさんはどこか悲しそうに呟いたが、すぐに口を開く。


「とにかく、食べて損はない。俺は腹を空かせた子供に施しを与えられないほど愚鈍な男ではない」

「……でも、お金がないじゃないですか」

「安心しろ、柊様が出す」

「さっきから聞く柊様って、誰なんですか?」

「この土地を守る神様みたいなものだ。俺が仕える主でもある」


 ひょっとして……。


「シュウさんって、もしかして凄く偉い人なんですか?」

「まあ、そんなところか」


 シュウさんはお面を少しだけずらし、団子を口に運ぶ。


「どうして顔を隠すんですか?」

「俺の素顔を見た女はみんな虜になるからな。ふっふっふ、色男はつらいものだ」

「……どうせ不細工すぎるだけでしょう」

「余計なお世話だ」


     ◆


「ここを下れば、戻れる」


 シュウさんはそう言って、暗い夜道を私の手を引いて歩いた。


「あの……」

「なんだ?」

「どうしてそこまで親切にして下さるんですか? さっき会ったばかりなのに」

「さてな。俺は俺のしたいことをしているだけだ」


 そう言って、彼は私の歩調に合わせて足を進める。

 そのとき――


「下がれ! 浮奈!」


 突然のことに、私は対応できない。

 なにが、と思ったときには私は突き飛ばされていて、シュウさんの後姿を見ていた。お面が吹き飛び、私の傍に落ちる。

 彼の前には、さっきの暴漢が二人。

 また私を襲いに来たのか……と思ったが、あれだけ酷く乱暴な態度を取っていた牛頭の二人は、シュウさんの顔を見るなり凍り付いた。


「な――」

「なぜあなたがここに!?」


 あなた? あんなに口の悪い二人から出る言葉ではない。


「退け。退かぬと捻り潰す」

「ひぃ! 柊様、お許しを! まさか柊様だと――」

「退け、と言っている。退け」

「わかりました! すみません! すみませんでした!」


 ――柊様?


 それって、神様の名前じゃ……。


「大丈夫か、浮奈」


 シュウさんが振り向く。

 その顔を見て――


「……あな、たは」


 整った目鼻立ち。

 だが私の目を引いたのはそれではない。

 目元にある、緋色の隈取。


「……あ」

「……思い出してしまったか」


 シュウさんは、諦めたように嘆息した。


「昔、私を助けてくれた、狐の……」

「そこまで覚えているのなら、隠す必要はないな」


 そう言って、シュウさん――いや、柊様は、狐の耳と九本の尻尾を出した。


「約束しただろう。二度とここには――」

「いいえ、違います。私はこう言いました。『おむこさんにするから、わすれないでね』と」

「……そんなことまで覚えていたか」

「はい。そして柊様は、『覚えていたらな』と」


 柊様は夜風に尻尾をなびかせながら、「やれやれ」とため息をついた。


「色男はつらいな」

「約束、守ってもらいますからね」

「駄目だ。帰れ。お前にはお前の人生がある。そんな一時いっときの勢いに身を任せて未来を棒に振るな」

「嫌です。私は……柊様のことが好きなんです。この気持ちに、嘘はありません」


 柊様は困ったように笑う。


「子供に興味はない」

「十年も経てば美人になる、ですよね」

「……変わったのは背丈だけか。言っておくが、俺の目は厳しいぞ」

「必ず振り返らせて見せます。だから、十年後の今日を、楽しみにしていてください。このお面は、約束を忘れないために、私が貰っていきます」


「わかった。約束だ。十年後の、今日だな」

「はい」


     ◆


 慌ただしい声が、屋敷内に響く。


「柊様はどこだ!?」

「わからぬ!」

「また抜け出したのか! ええいなんて身勝手な……」

「どこに行ったかわかるか!?」

「部屋に書置きがありました!」

「見せよ!」


 そこには、一言、


『迎えに行く』


 と書かれていた。


     ◆


 俺も、存外馬鹿なことをしているのだと思う。

 浮奈を見送って、ちょうど十年が経った。あんな口約束など、とうに忘れているに違いないというのに、俺はなにを期待してか、村へと通じる道で待っていた。

 俺に言い寄る女など、ごまんといる。だがなぜか、俺は浮奈のことを忘れられなかった。

 あの夜以来、どの女を見ても脳裏に彼女がよぎり、女を抱くこともままならずに何度もねやをあとにすることがしょっちゅうだった。


 あの子ももう二十を過ぎているだろう。あれから青春を送り、もしかしたらもう結婚もしているかもしれない。

 未練がましい俺のことなど忘れて、今頃楽しく過ごしている。

 彼女にとっては、そちらの方がいいのかもしれない。

 俺は屋敷に帰ろうと、狐の面で隠した顔を道から外そうとした――そのときだ。


「……!」


 闇から浮かび上がるように、一人の女性が歩いてくる。

 顔には、あのとき彼女にあげた、狐の面。


「……浮奈、か?」

「はい」


 浮奈は面を外した。俺も知らず知らず、面を取り外し、尻尾を露わにする。


「柊様!」


 彼女は紛うことなく、浮奈だった。顔立ちに名残がある。それに、あの面。


「馬鹿だな、本当に来るとは」

「柊様も、他人のことを言えないでしょう。本当に、待っていてくれるだなんて」


 ぎゅっと、抱きしめる。両の手と、尻尾を使って。この儚い女性が、離れてしまわないように。


「お眼鏡に、かないましたか?」

「……ああ。俺が見てきたどの女よりも、美しい」


 嘘偽りなく、俺は彼女に言った。


「浮気は、許しませんからね」

「安心しろ。お前ほどの美人を放っておくものか」


 俺はこの世に生を受けたことを、ここまで喜んだことはなかった。


「逃がさぬぞ。人の世には、もう戻さない。いいな?」

「はい」


 浮奈はそう言って、俺の口に、己の唇を重ねた。

 甘い花の蜜を吸ったような味がして、俺はますます強く、彼女を抱きしめた。


     ◆


「こうやって、私はお父さんと出会ったの」

「へえ。おかあさん、にんげんなの?」

「そうよ」


 私は息子の頭を撫でて、そう言った。


 顔立ちはどことなく私に似ているが、柊様の血が強く出たのか、狐の耳と二本の尻尾が生えている。


「じゃあ、ぼくはどこからきたの?」

「えっ?」

「おとうさんとおかあさんは、どこでぼくをみつけたの? ねえ、おとうさん、おしえて」

「ぬ……俺ではなく、お母さんに訊けばよかろう」

「ちょ……私にそんな難しいこと――」

「済まぬ、用事を思い出した!」


 そう言って柊様は逃げていく。


「むずかしいの?」

「そ、そうね。もう少ししたら、わかるんじゃないかしら」

「ふうん」


 私は息子の頭をもう一度撫で、柊様に内心毒づいたが、この幸せを噛みしめる自分に少しだけ笑った。


「どうしたの?」

「ううん。あなたと、お父さんがいることが、嬉しいの」


 私の忘れもの。


 それは、確かに、今ここにある。

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