1‐5

 弟には、一度だけ会ったことがある。

 二年前、まだ五歳の弟だった。幼く、小さく、可愛い弟。同じ母だが、違う父から生まれた正真正銘人間の弟。

 エミリアは弟に累が及ぶことを恐れ、母に頼んで国外へ出てもらうことにした。そのとき持ち合わせていた貴金属を路銀にしてくれと押し付けて、母と弟を逃がした。


『お姉ちゃん……僕のお姉ちゃん』


 そのとき触れた、弟の小さく暖かく、握れば潰れてしまいそうなほどに柔らかい手を忘れたことは一度としてない。


『さようなら』


 またね、ではなく、エミリアは告別の言葉を使った。

 エミリアだって、気付いている。レヴナンツが使い捨てられることを。

 けれど自分が戦わなければ、魔物が国外に溢れ出す。もしそうやって溢れた魔物が弟に害を及ぼしたら、エミリアは一生自分を許せなくなる。

 弟と逃げることも考えた。だが追手がもしも自分より強力なレヴナントでは逃げきれない。

 やはり逃げたところでなんの利益にも害にもならない人間だけの母と弟だけを逃がすのが一番の最善策だった。

 捨てられるとわかっていても。将来などないとわかっていても。

 この身が朽ちるまで戦い続けた先に弟の安寧があるのなら、喜んで戦死してやる。


     ◆


 下水道の先にはまた鉄格子があった。不親切なことに鉄格子を上げる機構はない。普通の人間では進軍もままならないだろう。こんな狭い場所で鉄格子を吹き飛ばすほど大きな爆薬を使えば下手すれば生き埋めである。爆弾を設置して逃げても崩落を招き先へは進めなくなる。

 レナードは振動剣で鉄格子を斬り裂くと、奥に入った。

 石柱に支えられた広大な空間。なんのために作ったのかわからない。


「なんなんだここは」


 意外にも、ライカではなくエミリアが答えた。


「神光教は頻繁に異端審問会を開いてた。けど時代遅れ的な焚刑ふんけいを堂々と行うわけにもいかない。けど人間っていうのは変な生き物で、鬱憤がたまると誰かをスケープゴートにして性的、暴力的衝動の捌け口にしたくなるのね」


 解説役を奪われたことに腹を立てたのか、ライカが不機嫌そうにフンと鼻を鳴らす。そんな彼女を撫でつつ、


「つまりここは公にはできなかった焚刑を行っていたところか」

「多分ね。知ってる? 魔女狩りの火あぶりって娯楽だったの。生活に不満を持つ人たちを楽しませるためのショーだったのよ。修道士や信者なんていう禁欲的な生活をしてる人たちって色々溜まるし、仕方ないのかもね」


 神光教は狩りと農業、それらに使う武器や農具の鍛冶を重んじる一方、人の人に対する暴力行為や性行為を酷く毛嫌いしていた。他国と戦争する必要がない国だったから暴力は悪いものと認知され、それ故戦争を嫌う気風が出来上がり、戦争で国土を広げられないから無闇に子供を増やす行為は禁じられた。

 それを思うと、帝国復権のため女が子作りの道具にされているのは大きな矛盾ではないかと皇帝に問いたいところである。敬虔な神光教信者の皇帝はどうこたえるだろうか。


 薄暗い中でもレナードたちの目は闇を見据えていて、人間をはるかに上回る五感が気配を敏感に察知する。

 レナードはダーインスレイヴを半身になって右横、切っ先を天に掲げるように構える。フォム・ダッハ――婆さんのかつての魔剣使いの記録でいう所の八相である。エミリアもデッドマンズを手に、ライカは巨大化する。

 最初は振動だった。続いて水の跳ねる足音がし、闇に体が浮かぶ。


「ダルクスパイダス……」


 全高四メートル、足を除いた全長は六・五メートル。人をあざ笑う巨体を誇る大蜘蛛。ダークバイオレットの装殻が石柱に埋め込まれたガス灯の輝きを跳ね返し、六本の足が巨体を支える。前の二本は鎌のように鋭く、そこだけは蜘蛛というより蟷螂に見えた。鋏角がギチギチ音を立て、八つの赤い単眼の視線が二人と一頭に向けられる。


「散れ!」


 レナードが怒鳴ったのとダルクスパイダスが跳躍したのはほぼ同時だった。

 大蜘蛛は巨体に似つかわしくない身軽さで飛び上がるとレナードたちをまとめて斬り飛ばさんと鎌のような前足を振るった。汚水が散り、シィィイイ、とダルクスパイダスの悔しげな呻きが漏れる。

 レナードは汚水を転がり起き上がりと同時にターン。目の前の足を振動剣で斬り飛ばす。虫でも獣でも魚でもそれ以外でも、魔物の血は赤い。血が溢れ、吹き飛んだ足が宙を舞うが即座に霧状になり切断面に吸い込まれる。直後、足は何事もなかったかのように再生した。


 魔物が持つ超常的な再生能力だ。グールやコボルト程度の雑魚ではここまで激しい自己再生は見られないが、魔物は通常生物からかけ離れた治癒力を持つ。これが人類を追い込んだ理由の一つである。

 どんなに巨大な大砲を撃ち込んでも再生してしまう。大砲がある程度大きければ再生を上回る傷を与えられるが、余りにも大きい大砲は小回りが利かない。近年生まれた戦車という兵器も万能ではない。一方で大型魔物は先ほど見た通り高い機動力を持つ。大砲との相性はすこぶる悪い。

 蒸気機械、火薬、銃はここ百五十年で生まれた革新的な技術だが、生まれて以降さほど技術革新は行われていない。技術的な頭打ちを迎えたのだろう。


「『フレイムピラー』!」


 エミリアの叫びと共に、ダルクスパイダスの腹の下から火炎の柱が上がる。轟々と燃え盛る火炎は装殻を焼き、大蜘蛛も熱から逃れるために下がる。無防備になったそこを、レナードとライカが見逃すわけがない。


「『ショックスライサー』!」


 レナードの剣が超振動。キィイン、と澄んだ音がして、大上段から振るわれた一撃から波打つ衝撃波の刃が撃ち出される。

 ダルクスパイダスは鎌を交差してガードしたが、二本まとめて折れる。

 そこにライカが突っ込む。並の剣より遥かに鋭い爪が強靭な膂力で振るわれ、大蜘蛛の装殻を粉々に砕いて眼球を潰す。だが深追いはせず、ライカはすぐに下がった。

 再生力の高い大型魔物との戦いの肝は如何に少ない損害で相手に攻撃を与えるかだ。

 あの並外れた治癒力とて無限にあるわけではない。小さな傷でもダメージを与えていれば限界を迎える。


 一瞬にして鎌が再生し、ダルクスパイダスは怒号のような金切り声を上げてライカを攻め立てる。

 ライカは振り下ろされたり薙ぎ払われたりする鎌をひょいひょい避けていく。かすり傷を負うが、その程度魔物であるライカの前では意味がない。彼女も魔物の多分に漏れず、極めて高い再生能力を持つ。一度、頭が吹き飛んでも再生する様を見たことがある。彼女は人間の管理施設に入れられた際に魔物の治癒力を人間に転写する実験の被験体となり、不老不死の肉体を手に入れたのだ。だから、彼女は死なない。

 しかしそれを知らないエミリアはライカから注意を逸らそうとデッドマンズを発砲。四連射がダルクスパイダスの装殻にひびを入れたが、肉にまでは達さない。


「ギィイイイ……」


 鬱陶しい、と言わんばかりにダルクスパイダスの矛先が変わる。


「ふ、『フレイムウォール』!」


 彼女は調査員だ。こんな大物と戦った経験など片手で数える程度しかないだろう。恐怖に震える彼女の声が耳に届く。

 火炎の壁を生み出し、敵が進撃を止める――そう思ったに違いない。


「馬鹿野郎! 逃げろ!」


 だが直後、ダルクスパイダスは火炎を突破。


「え……あ――」


 鎌が振るわれた。大気が悲鳴を上げるような音がして、大蜘蛛の鎌がエミリアの胴を易々貫いた。

 取った首を掲げるように、ダルクスパイダスは天高くエミリアを持ち上げると、すぐに興味を失くしたのか彼女の肉体を振るい落とした。

 勢いよく転がったエミリアは石柱に叩きつけられたが、ぴくりとも動かない。


「クソッたれ!」

「レナード、私が引きつけます。エミリアに血清を。今なら間に合うかもしれません」

「わかった!」


 ライカがダルクスパイダスに飛び掛かる。腹に上って前足を叩きつけ、這わせる。その隙にレナードはエミリアの傍に駆け寄った。


「ぁ……が…………ジョ……セ、フ」


 ――ジョセフ?

 人の名前だろうか。


「待ってろ」


 虫の息だがまだ死んでいない。レナードは腰のベルトから蒸気式圧搾注射器を取り出し、エミリアの首筋に当てた。針を使わないタイプの注射器で、ボタンを押し込めば一回分の血清が送り込まれる仕組みだ。

 パシュ、と音がして赤い薬液が吸い込まれた。直後、エミリアの腹の穴が急速に塞がる。


「手間かけさせやがって……クソガキ」

「……そう、思うなら……なんで助けたのよ」

「寝覚めが悪い」


 吐き捨て、レナードはライカが引きつけるダルクスパイダスに挑む。

 ダーインスレイヴを一心不乱に振るい、足を落とし、鎌を斬り、頭を貫く。

 両方の鎌を斬り飛ばし、ダルクスパイダスが大口を開けて威嚇する。馬鹿なやつだと思いながらレナードは手榴弾を取り出し、安全レバーと点火ピンを抜いて相手の口の中へ突っ込む。

 爆音が轟いた。

 ダルクスパイダスの頭部が内側から粉々に破られ、足がくずおれる。限界を迎えたのは火を見るよりも明らかだ。


「『ショックスライサー』ッ!」


 大上段からの脳天唐竹割。

 ズダン、と床ごと叩き割られたダルクスパイダスの肉体はそのまま再生の兆しを見せることなく、完全に生命活動を止めた。


「お疲れさまです」

「お前もご苦労さん」


 通常サイズに戻ったライカを撫でてやる。もふっとした手触りが心地いい。彼女は怒るのだが、ライカを枕にして眠ると安眠できる。だからときどき、嗜好品の配給食糧を彼女に渡すことを条件に抱き枕になってもらうことがある。


「また私を枕にしたいとか思っているんでしょう」

「よくわかったな」

「四年の付き合いですからね」

「仲いいわね」


 ふらりと立ち上がったエミリアが銃を拾い、声をかけてきた。少しだけ気になるので、訊いてみる。


「ジョセフってのは誰だ」

「なんであんたが弟の名前を知ってんのよ!?」

「弟?」

「あ……」

「少し場所を移しましょう。この先に拷問部屋があります。ここに座るよりはマシでしょう」


 ライカの匂いと勘を頼りに進むと、大部屋の隅に階段があった。一階分というほどもない高さの空間に上がると、錆びた拷問器具の置かれた部屋に出た。ブロック敷きで座り心地は悪そうだが、まあ汚水にケツをつけるよりはいい。

 二人と一頭は車座になる。


「で、弟のジョセフってのはなんだ? レヴナントか?」

「違うわ。父親が違うけど、同じ母親から生まれた私の弟」

「人間か……お前が帝国復権に前向きなのはそれが理由か」

「……まあね。私たちが使い捨てられることなんてわかりきってる。けどもしも本当に爵位が与えられるのなら、弟にいい暮らしをさせてあげられるし……。それに、ここで私たちが魔物を止めないと、弟にまで被害が出るかもしれない」

「ジョセフはどこにいるんですか?」

「隣の国。国外に逃がしたの。お母さんと一緒に」

「賢明な判断だな」

「ありがとう。じゃあ、あんたについても、教えてよ」


 どうして『じゃあ』なのか。


「人に語って聞かせるほど面白い人生は歩んでない」

「わかるのよ。階段を下りてたとき、やたらと背後を気にしてた。仲間のレヴナンツに見せる態度じゃないわ。なにに怯えてたの?」

「レナード、聞かせてあげましょう。彼女の話も聞いてしまいましたし、おあいこです。それに理解者が増えれば、今後の戦いも有利に進められるかもしれません」


 ライカの言うことには一理ある。上が信じてくれないのなら、同僚に信じてもらうしかないのだ。無論マグナスを討つのは自分だが、道中なにが起こるかわからないし、事情のわかる者が一人二人いればなにかと便利かもしれない。


「言っておくが、なにも面白くはないぞ」


 トーンの落ちたレナードの声に、エミリアが息を飲む。


「……なにがあったの?」


 意を決し、レナードは口を開いた。自ら古傷を抉り、塩を揉み込むような苦行だった。


「五年前――」

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