第六章 銀狼対茂平
1
「それで、お市さんは銀狼を探しているんですか?」
朝の光が射し始めた時刻、元嵯峨屋だった商家に、南町奉行所の役人が乗り込んで取り調べを行っている。左乃助から伝言を受け取り駆けつけた、豪左衛門の息子で、同心の慎之介が事件の顛末を左乃助から訊いたあと、お市という忍びのことを尋ねたのだ。
銀狼と思われる覆面の武士が暗い水路に消えたあと、ハチを先頭に左乃助たちが現れた。その場所は、裏木戸からひと区画離れた稲荷の小さな祠がある場所だった。地下道はその祠の裏に通じていたのだ。
お市は座敷と裏庭での出来事を話し、銀狼と思われる男に臭いのする粉を被せたことを伝え、ハチにその臭いを嗅がせた。そして、すぐに走り去ったのだった。
ダイゾーと白竜斎は、ハチと共にその場をあとにし、左乃助ひとりが現場に残った。
銀狼に殺された三人の死体は、半年前に押込みが千両箱を奪った時のままになっていた、鍵の壊れた土蔵の中に運び込まれていた。土蔵の周りには、小さな足跡が入り乱れていて、その足跡は、最終的には壊れた塀の小さな穴から、隣家の庭を経由して、木戸から路地へと出ていったようだった。
左乃助は、現場をそのままにして、番屋に知らせに走った。『深川白狐組』の印である、銀製の星形に狐の浮彫りが施されたバッジを見せる。訝しげにそれを眺めた番太郎が、現場の土蔵の中を見て、慌てて、奉行所に若い男を走らせた。
「慎之介さん、この事件は我々、白狐組が関わっていることは内緒に願います。通りすがりの夜回りが血の臭いに気づいて、番屋に知らせたってことで……」
「解りました。将棋組の第四番隊の仕業ということも、わたしの胸にしまっておきます。しばらくは、悪事を企てた奴らの仲間割れの方向で、三人の身元を洗います」
「ええ、まずは銀狼を探しだして、カタをつけます。もうすぐに見つけだしますよ、意外な場所でね……」
※
「間違いなく、ここに入ったようです」
と、三味線を抱えた芸者を装った、お市が言った。
「ハチも反応しています。先ほどの客が銀狼に間違いありませんね」
と、ダイゾーが言った。
「では、わたしが確証となる、刺青を調べてきます」
「しかし、それは……」
「平気です。淫らなことをするのではありません。少し、身体を撫でてやるだけです。ダイゾー殿はあとの手配をお願いします」
お市はそう言って、引き戸を開け店の中へ入っていった。
そこは、八丁堀の町御組屋敷に近い湯屋である。朝湯の開店したばかりのその湯屋に、黒の羽織姿の武士が入っていった。そのあとを追うように、お市が女湯の脱衣場に入った。
町方同心の特権なのか、八丁堀の同心は朝湯を女湯のほうに入る。女湯に設けられた、鹿の角の刀掛けに腰のものを置いて、誰もいない、女湯に男はゆっくりと入っていった。
「おや、八丁堀の旦那、ごめんなさいね。昨日は、遅くなって、仕舞い湯に間に合わなくて、白粉が落ちてないんですよ。気持ち悪くてね。お邪魔するお詫びに、お背中を流させてもらいますよ」
薄暗い湯場の湯煙の中に白い素肌が同心の目に飛び込んできた。めったに、この時刻に女客が入ってくることはない。若く、きれいな肌の玄人らしき女の申し出を断ることなど彼にはできなかった。
洗い場で胡座になって、背を向ける。チラリと見た女の身体は、胸の膨らみも腰の肉付きも申し分ない。芸者としたら、売れっ子に間違いない。手拭いで隠された下半身の茂みを想像して、彼は股間が熱くなった。
糠袋を使って、背中を擦られる。時々、女の手のひらが、脇から、横腹、太股に当たる。彼の一物が硬く、盛り上がっていった。
「うう、堪らぬ……」
2
「間違いございません。足の裏の親指の付け根に将棋の駒、銀将の刺青がございました」
お市が、濡れた黒髪を手拭いで巻き上げ、湯屋から出てきて、ダイゾーに告げた。
「それで、奴は?」
「精を放って、放心状態です。少し、薬が効き過ぎたやもしれません」
お市は、湯煙に、忍びの催淫薬の微粒子を乗せて、同心に吸わせたのだ。
「では、奴が出てきたら、予定どおり、そこの神社の境内に案内してください。待っているかたがいらっしゃいますから……」
しばらくして、同心姿の男が、首を振りながら、湯屋から出てきた。
「旦那、待ちかねましたよ!あんな大きなもの見せつけられたんじゃあ、そのまま帰れませんよ。ちょっと、付き合ってくださいね……」
お市の湯上がりの色っぽさに、男はふらふらと、後をついて行く。女の誘いに乗って、神社の境内に入った。
突然、前を歩いていた女の姿が消えた。ようやく、薬の効き目が収まってきたのか、この展開にふと、疑問と同時に不安を感じた。
「葛木の旦那、お待ちしておりましたぜ。お糸の仇を討たせてもらいやす」
境内の欅の大木の陰から、左手に武骨な杖をついて、中年から初老の町人が、白装束に身を包んで現れた。右手には、黒光りのする十手が握られていた。
「お主は……?おう、茂平ではないか?お糸の仇とは、あの取り調べのことか?あれは、お上の取り調べだ。行き過ぎたことはしておらぬ。逆恨みというもんだぜ」
「しらばっくれるのは、お止しなせえ。女の色香に惑わされて、足の裏の、見せてはならねえ刺青を見られたんだ!」
「何!あの女は、おめえの手先か?あんな淫売の証言など誰が取り上げるもんか!」
「淫売ですって?ははは、あのかたは、深川白狐組の一員ですぜ。それを淫売と思い込むとは、お父上の足下にもおよびませぬなあ。それと、旦那が将棋組のひとりだとわかったのは、昨日、今日のことじゃあねえ!叶恵の入水自殺ってヤツが、本当は殺しだとわかった時に、旦那は疑われていたんですぜ。南町のお奉行様から、北のお奉行様始め、若年寄様までお話が通っていて、旦那の役宅の調べが始まっていますよ。糸の切れた弓とか、血のついた黒頭巾とか、南蛮渡来の毒薬とか……勘助に飲ませた毒薬と同じものでしょうね?」
「クゥー、茂平、それも白狐組の奴らの差し金か……?」
「左様で……。旦那、もう観念なすったほうがよろしいですぜ。今頃、手配書が回っていますぜ。奉行所だけじゃあねえ。火盗改や、お目付衆も将棋組壊滅の沙汰をもらっているはずですからね……」
「誰が観念などするか!奉行所の同心など、もう沢山だ。仕事人の依頼料の分け前がたまっているんだ。茂平、おめえを斬って、江戸から、おさらばするぜ。手配書といったところで江戸市中だけよ。ちょいと、北へいきゃあ、お役目違いの場所にならぁ」
葛木欽史郎は腰を沈め、刀の鯉口を切って、擦り足で茂平に近づく。
「及ばねえかもしれねえが、十手でお相手させてもらいやすぜ」
「十手の腕前はあっても、その足じゃあ、俺の剣からは逃れられねえよ」
その言葉が終わらぬ間に、間合いを詰めて、刀を下から斜め上に、居合い抜きに切り上げた。
「なに……?」
仕事人として、二桁の数の人間をこの居合いで斬ってきた。それが、杖に頼らねば歩けない初老の男にかわされたのだ。
茂平の身体は空に向かって上っていった。実際は背中に付けた二本の縄によって、欅の大木の枝に引き上げられたのだが、葛木には、天狗のように空に舞い上がったと見えていた。
欅の梢を見上げた瞬間、黒い影がその梢の中から、飛び降りてくるのが視線の縁に留まる。危険を察知して、居合い抜きしていた剣を顔の上に構えた。
ガキーン!と鈍い金属音がして、葛木の剣が半ばから無くなっていた。
葛木の身体が、転がるように、木の根元から離れる。考えてではない。野性的な感覚だった。
地面に膝をついたまま、顔を上げると、欅の大木の側に、白狐の仮面をつけた異様な衣装の人間が立っていた。白い袴のような、股引きのような、下半身に、革製だと思われる紐でくるぶしを縛った短いブーツを履いている。上半身は、洋風の黒いシャツの上に、鹿の革で作られた、陣羽織を短くしたような袖のない羽織を着ていた。
「白狐組の者だな?」
使用できなくなった剣を棄てて、欽史郎は腰の背中側から、十手を抜きだし、右手に構えた。
「お止めなさい。勝ち目はありませんよ。わたしに気を取られていると、背中に味方の矢が飛んできますよ……」
「なに?」
と、驚きの声をあげ、欽史郎は後ろを振り向く。その一瞬の隙に白狐は手にした黒い杖で、欽史郎の右肩を強打した。
「ウッ!」
と、唸り声を発して、十手が地面に転がる。
「茂平親分、お縄を!」
と、白狐が叫んだ。
欅の梢から、茂平が左乃助に助けられながら、地面に降り立ち、腰の取り縄を素早く欽史郎の右腕に絡ませた。
欽史郎はもがくように、左手を振る。その手を、左乃助の礫が襲った。
欽史郎の左手から、白い小さな塊が地面に落ちた。
「南蛮渡来の猛毒で、自害など、させませんぜ……」
※
「それで、あばたの欽史郎は、何処で吟味を受けることになったのだ?」
と、験楽寺の縁側で、お美津の淹れたお茶を飲みながら、医師の浄庵が左乃助に尋ねた。
「北町のお奉行と与力が、ウチで取り調べる、と訴えたんですけどね、月番は南のほうですから、南の与力も譲りません。そこで、欽史郎も士分ですから、若年寄配下の目付が吟味することになりそうです。今は、仮に寺社奉行の松平様の牢屋にひとりで入っていますがね……」
と左乃助が答えた。
「葛木といえば、祖父の代から、北町の同心でしたからね。特に欽史郎の父親の貫三郎は何度も手柄をたてて、北町に葛木貫三郎あり、と呼ばれた男でしたから……北町としたら、身内から獄門首を出すことになりそうですから、吟味は自ら行いたいでしょうが……」
と、茂平が言った。
「茂平親分にとっても、複雑な気持ちではないのか?貫三郎とは若い頃、手柄争いをしたと訊いているぞ」
と浄庵が茂平に問いかける。
「まあ、そんなこともありやしたが、親父は親父、息子は息子でさぁ。何で殺しの請け負いの仲間入りをしたのか?そいつを訊きてぇですがね……」
「葛木をお縄にしたのは、茂平親分ですぜ。お白州の場に呼ばれるんじゃあねぇんで?」
「いや、俺の手柄じゃねぇ。ここの白狐組の手柄だ。ダイゾーが俺にお糸の仇を討たせてくれる、お膳立てをしてくれたんだ。てぇした奴だ。左乃助、良き友ができたな?この縁を大事(でぇじ)にするんだぜ。俺もこれで、心おきなく、隠居生活ができるってもんだ。今から、お糸の墓前に報告してくるとするかな……」
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