第二章 八重の依頼


「わたくしは、八重と申します」

と、お高祖頭巾を外して、女が頭をさげた。

「店の名前は申せませんが、小さいながらも堅実な商いをしている、小間物屋の女将でございます」

八重と名乗った女性は言葉を続ける。それを三人の男は黙って訊いている。

八重は帯に挟んでいた、折り畳まれた半紙を畳の上に広げた。それは左乃助が作った例のかわら版だった。

「ここに書かれいる、水死した女というのは、先日、小名木川と大川が交わる辺りで見つかった、若い女のことでしょうか?ほかに、最近、女の水死の噂は訊いておりませんから、間違いないと思いますが……」

そう言って、八重は三人に視線を巡らせる。

「我々は個別の事件を調べたわけではありません。殺しを依頼した人物が、これらの死因が仕事人と呼ばれる組織の犯行だと言った証言を元にかわら版に載せたものです。確実ではないが、疑われる、ということです」

と、左乃助が説明した。

「ところで、この水死した女性、小名木川の河口付近で見つかった女性としたら、あなたのお知り合いのかたなのですか?」

とダイゾーが尋ねた。

「はい、わたくしの妹です」

「ああ、お身内のかたでしたか。それで、妹さんは自殺するような何か事情がおありでしたか?」

「いえ、妹はとても明るい性格で、しかも、来月には、さる大店の若旦那との婚礼を控えておりました。自殺など……、それに、妹は水が大の苦手で、自殺するとしても、入水自殺はとてもできないはずです」

「でも、自殺と判断できる根拠があったのでしょう?外傷がなく、水を飲んでいた、とか……」

「それは、解りません。担当した奉行所のかたが、覚悟の自殺に間違いない、とおっしゃって、遺体を引き取り、そのまま葬儀をいたしました」

「奉行所は、北ですか?」

「はい、北町奉行所のかたで、葛木さまとおっしゃる同心でした」

「葛木?確か、北の深川の担当は、新藤という若い同心だったはずだが……」

と左乃助が言った。

「わたくしの嫁ぎ先の辺りの、定町回りではないのですが、顔を見かけるかたです」

「歳は?若いですか?」

「いえ、顔に痘痕(あばた)があって、お髭の濃い、中年のかたです」

「ああ、アバタの欽史郎か?」

「和尚、ご存知ですか?」

「ああ、親父は優秀な同心だったが、息子は、イマイチらしい。何でも、親父が大手柄をたてた折に、息子が生まれて、当時(とき)のお奉行の遠山さまから、『金四郎』という、遠山さまの名を授けられたそうだ。まあ、はばかって、字は換えたようじゃが……、うん?ダイゾー、どうした?浮かぬ顔をして……?」

「いえ、何でもございません。ただ、その葛木という同心、何処かで訊いたような……、名前ではなく、その容貌ですが……、アバタ顔に髭面……」

「あっ!そうだ。源吾が言っていた、お糸さんをしょっぴいた、同心ですぜ」

「勘助殺しの担当か……?」

「和尚、話を戻しましょう。八重さん、妹さんが自殺したのではないとしたら、誰かに殺されたことになりますが、妹さんは誰かに恨まれるようなかたでしたか?」

「それなんです。このかわら版を読んで、妹──叶恵と申します──が自殺に見せかけて殺されたとしたら、妹を殺したい人間は、ただひとり……、妹の幼なじみで、お栄という娘です」

「幼なじみ?そのお栄さんというかたは、叶恵さんを殺したいほど、仲が悪かったのですか?」

「いえ、子供頃から仲良しで、習い事も一緒に通っていました。ただ、今回の妹の婚礼の相手という人は、お栄さんの思い人で、二、三年前から、お栄さんはそのかたと結婚すると、周りに言い触らしていたのです」

「それが、別の女性と結婚することになった。しかも、その相手が幼なじみの女性だったってことですね?その男は何故、お栄さんではなく、叶恵さんを選んだのでしょうか?」

「いくつか理由があります。ひとつは、叶恵が、さる旗本のお屋敷で奉公をしていたこと。もうひとつが、そのかたのお店が、わたくしの主人の店と大変懇意な関係であったことです」

「なるほど、お店側からすれば、将来の女将の箔が……ということですね?」

と左乃助が、納得顔で言った。

「妹の婚礼が決まった時、お栄さんは鬼の形相で『おまえと梅太郎は絶対、一緒にさせないよ!どんな目に遇うか、楽しみにしておいで!』と妹に言ったそうです。でも、お栄さんが妹を自殺に見せかけて、殺せるはずはありません。お栄さんは小柄な人で、妹は、大女ですから……」

「梅太郎さんというのですね?婚礼のお相手のお名前は……。でも、誰かに頼めば……?」

「そうです。だから、かわら版を読んで、妹はお栄さんの依頼を受けて、仕事人が、手をくだしたのではないかと……」

「ダイゾーさん!これは、ひょっとしたら……?」

「ええ、『嘘から出た真』かもしれませんね?となると、お栄さんが危ないことになります!八重さん、お栄さんはどちらにお住まいですか……?」

「ダイゾーさん、お栄が危ないって、何故解るんです?」

猪牙舟で、大川を遡りながら、左乃助がダイゾーに尋ねた。船頭は顔見知りの政と呼ばれている男。ダイゾーを海から救いあげた時の船頭だ。お栄は、上野の広小路にある茶屋で働いているということで、足の速い猪牙舟を使った。

「わたしの思い過ごしならよいのですが、あのかわら版には、殺しを依頼した人物の告白によって事故や自殺でなく、殺人だとわかったように書いていましたね?本当に殺人だとは我々にはわかっていないのです。ところが、叶恵という女性の死が殺人だったとすれば、依頼人の告白というのが、叶恵さんを殺してくれと頼んだ人物、つまり、お栄だということになる。仕事をした奴が、お栄が口を割ったと勘違いする可能性があるのです。こんなことになるかもしれないと思って、仕事人の仕業ではないような事件を選んだのですが……」

「お栄は口封じのため、消される可能性がある、ってことか……」

「それと、先ほどの八重さんの話の中で、気になったことがいくつかあるんです」

「気になったこと、とは?」

「葛木という同心のことです。何故彼が、叶恵の遺体の担当になったのでしょう?」

「葛木?それは、アバタの欽史郎のことですかい?」

と言ったのは、櫓を漕いでいる政だった。

「政さん、欽史郎って同心を知っているのかい?」

「ああ、担当でもねえのに、うちの舟宿に来て、無心をしていくぜ。前は定町回りをしていたこともあったが、役にたたねえんで、後輩に代わって、その助(スケ)をしているんだ。ただ、ひとつ特技があって、死体の検死を任されている。死因だとか、死んだ時間帯だとかがよくわかるらしいんでね」

「なるほど、それで、叶恵の遺体を調べて、自殺と判断しやがったのか」

「検死を得意としているのか……?それにしても、叶恵に死ぬ理由がなく、恨みを買っていることも調べなかったのでしょうか?」

「まあ、事件にして、仕事を増やしたくなかったんでしょう、そういう奴ですから……」


「お栄さん?お栄さんなら、ついさっき、岡っ引きの親分さんに喚びだされて、不忍池のほうに行きましたよ」

お栄が働いている茶屋を訪ねると、同僚の若い娘がそう言った。

「岡っ引きの親分?この辺りを縄張りにしている親分さんかい?善三親分だったっけ?」

と、左乃助が確認する。

「いえ、この辺りでは、見かけたことのない人でしたよ。目付きの良くない、出っ歯の……」

「不忍池のほうへ向かったんですね?左乃助さん、急ぎましょう!」

「おお、こんなことになるなら、ハチを連れてきたらよかったぜ。不忍池って言っても、かなりの範囲になる。しかも、俺たちはお栄の顔を知らねえ……」

「大丈夫、小柄で、あそこの茶屋の娘とほぼ同じ衣装のはずです。しかも、似合わない、岡っ引きとふたり連れ。誰かが見ていますよ」

「よし、政、片っ端から、目撃者を当たれ!」

「ええっ!オイラも白狐組のお仲間にしてもらえるんですかい?」

「バッカヤロウ!猫の手も借りてぇくらいなんだ。お栄を探す手伝いをするんだ!」

不忍池に到着し、行き交う人に、岡っ引きらしい男と小柄な茶屋の娘のふたり連れを見かけなかったか尋ねる。何人かが、目撃していて、弁天様のほうに向かったことがわかった。

左乃助の長い脚が跳ぶように走っていく。弁天様を祀る弁天島に架かる橋に、それらしい、ふたり連れの影が見えた。

その時、ビューと風を切る音がして、橋の上にいた、ふたつの影のひとつが、グラリと傾き、橋の上に倒れていった。

「危ない!伏せろ!」

と、左乃助が残ったひとりに大声を浴びせた。瞬きする間もなく、ふたつ目の矢が、その人物に突き刺さるのが、見えた。

「クソ!飛び道具か……」

「左乃助さん、気をつけて!道念を殺した強弓遣いかもしれません」

そう言いながら、ダイゾーは背中から、黒い杖を抜き出し、片手に剣のように構えて、橋に向かって駆けていった。

「ダイゾーさん!自分は、矢を射かけられても、杖で払える、ってことですかい?」

「矢を射った賊は、神田明神下から、神田川へ逃げたようです」

矢は、弁天島の南側、池之端の町人地から放たれたようだった。左乃助は、被害者をダイゾーに任せ、犯人を追いかけたのだが、犯人は神田川に待っていた、猪牙舟に乗って、川を下っていったのだった。

不忍池の弁天島に架かる橋の上に、ダイゾーと政がいて、被害者に刺さった矢を脇差しを使い、中程で切っていた。

「男のほうは、見事に心ノ臓を射抜かれていて、即死です。女のほうは、左乃助さんの声に反応して、身体をひねったおかげで、急所は外れています。矢は抜かないで、すぐに浄庵先生のところへ運びましょう。邪魔が入らないうちに……」

ダイゾーがそう言って、政の背中に矢尻が刺さったままの女を背負わせ、政が猪牙舟を停泊させている場所へ急がせた。

通行人が報せたのか、番屋から番太郎らしい男が駆けてくる。左乃助は現場に残った。

番太郎が男の死体を改めているところへ、目明しと思われる、着物の裾をからげ、股引きに、古着の羽織を着た中年男が息を切らして走ってきた。

「これは、明神下の善三親分さん、お早いお着きで……」

と、左乃助は顔見知りの目明しに声をかけた。

「おう!誰かと思やぁ、かわら版屋の左乃助か?茂平さんの手伝いを辞めて、深川でなにやら、お上のお声がかりで、よろしくやっているそうだな?オレの邪魔はしないでくれよ」

善三はそう言って、男の死体に近づいた。

「矢で射殺されていやがる。誰か、目撃したもんはいねえのか?」

「アッシが、刺さったところをチラッと見たんですがね……」

「なんだ?左乃助、オメエが目撃者か?オレはまた、かわら版のネタを拾いにきたのかと思ったぜ。詳しく訊かせてもらおうか?こいつが誰だか、知っているのか?」

「親分のお知り合いでは、ねえんで?十手らしいもんが見えたのですけどね」

「何?十手者だと?いや、見たことのねえ面だぜ。この界隈のもんじゃあねえ。おい、オメエは見たことねえか?」

と、番太郎に確認する。番太郎は首を横に振った。

善三が死体の懐を探ると、着物の中に十手が隠されていた。ほかには、小判が五両と一分金と小粒銀が入ったあまり上等ではない財布があった。

「へえ、見かけによらず、金持ちなんですね?着物は古着だし、草履も年期もんなのに……」

善三が確かめている財布を覗き込んで、左乃助がそう言った。

「身元のわかるもんはねえな。よし、番屋に運んでくれ。似顔絵を作って、身元を洗うことにしよう。どうも、この十手は贋もんだぜ。お上から預けられたもんじゃあねえな……」

「うむ、急所は外れているが、矢傷は深いぞ。矢を抜けば、血が溢れ出す。湯を沸かし、サラシを用意しろ。外科の手術が必要じゃ。部屋の中も、炭火で暖かくする必要があるぞ」

浄庵の診療所に矢の刺さった女を運んで、早速、治療が始まった。浄庵には弟子はいない。通いの老婆が身の回りのことをしてくれる。ダイゾーと政は、その老婆に急かされるように、湯を沸かし、炭火を火鉢にくべ、サラシの用意をさせられた。

「ダイゾー、矢を抜け!政、傷口を焼酎で拭いて、サラシで血をぬぐえ。ワシがそこを糸で縫いあげる!」

浄庵の指示で外科手術が始まり、ほどなく、終わった。政が新しいサラシで、傷痕をきつく縛った。老婆は炭を火鉢に追加している。

「あとは、この娘の体力次第。今夜、発熱するだろうが、その峠を越えられれば、命は助かる……」

「政さん、ありがとうございました。政さんの体力と、猪牙舟を漕ぐ技術がなかったら、間に合わなかったかもしれません」

ダイゾーが、隣で尻餅をついたような格好で、息を整えている男に頭を下げた。

お栄と思われる小柄な女を背負って、町筋を駆け抜け、猪牙舟の櫓を操って、深川まで最短時間で運んできた船頭の働きは、賞賛に値するものだった。ダイゾーの矢傷に対する応急処置も、出血をかなり抑える効果があり、浄庵を感心させた。

女は、橋の上で倒れた際に頭を打ったようで、意識がなかったが、矢を抜く痛みで一度眼を開き、また、意識を失った。暴れられなかったおかげで、手術は迅速に完了できたのだ。

「いや、なに、オイラの取り柄は体力と櫓さばきだけですからね。喧嘩にゃあ弱えぇし、女にゃあモテねぇ!」

「いえ、立派な漢(おとこ)ぶりですよ」

「おお、水滸伝でいえば、水軍の将、李俊じゃな?」

「へえ、そんな立派な漢ですかい?では、白狐組に入れてもらえヤスかい?使い走りで、イイんで……」

「しかし、政さん、舟宿の仕事があるでしょう?」

「舟宿の船頭は、オイラのほかにもいますよ。オイラも世の人のために働きてぇんで……」

「確かに、水軍は必要じゃな。将棋組は逃亡の際には、舟を利用することが多いようじゃ」

「ええ、今回の弓の遣い手も舟で移動していましたから……。政さん、舟宿の主人か女将さんに承諾してもらえたら、我々の仕事を手伝ってくれますか?豪左衛門さんには、わたしから話しておきます。政さんなら、身元は確かだし、反対するものはおりませんよ」

「ありがてぇ、女将さんには、オイラの気持ちはわかってくれるはずです。明日にでも、承諾をいただいてめぇります……」

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