第5話 山あいの宿で芽生える予感

私のスマホに、彼から一本のメッセージが届いたのは、夏休みも後半に入った頃だった。


「実は、祖父母がやってる山あいの旅館が忙しいらしくて……。もしよかったら、ちょっとだけ手伝いに来ない?」


画面を見つめながら、思わず胸がドキリと高鳴る。彼から直接「力を貸してほしい」って頼まれるなんて、少し意外で嬉しかった。だけど、正直言って戸惑いもある。だって家族の仕事を手伝うって、しかも数日泊まり込みみたいに大きな話になりそうだし……。それに、彼と二人きりで過ごす時間が長くなる、ということに、少しだけドキドキしていた。


最初は「どうしようかな」と悩んでいたけれど、彼がメッセージで「祖父母が『女の子なら客室の布団整理や掃除なんかを手伝ってもらえると助かる』って言ってる」と具体的に打ち明けてくれて、心が揺れ動く。何より、彼がそんなふうに私を必要としてくれているのが嬉しくて仕方ない。彼の言葉は、いつもより少しだけ優しく、そして少しだけ頼もしく感じた。


とはいえ問題は、家族――特に母の許可を取れるかどうか、だ。

リビングに向かうと、ちょうど母がテレビのワイドショーを観ていた。お盆前の観光地の混雑状況が映し出されるニュースを横目で見ながら、私は意を決して声をかける。


「お母さん……実は、友だちの祖父母が旅館をやっててさ。夏休みの終わりにかけてすごく忙しいらしくて、手伝いに行かないかって誘われたんだけど……。数日泊まる感じになるみたい」


母は一瞬目を丸くして、「高校生が勝手に泊りがけで働いていいの?」と驚いている様子。そこで、私は彼とのやり取りをスマホで見せながら説明した。どうやら観光ピークが重なるらしく、祖父母だけでは回らないこと、危険な作業や深夜までの重労働はさせないつもりでいること、もしものときはすぐ連絡できるようにすること――などなど。私は、母が心配するだろうな、と少しだけ不安に思っていた。


「でもねえ、やっぱりちょっと不安だわ。いつから行くの? どういう感じで泊まるの?」


「週末に向けて何泊かするみたい。彼のおばあちゃんが、直接お母さんとお話ししたいって言ってるみたい。……ダメかな?」


母は少し難しい顔をして考えこんでいたけど、私がスマホで「おばあちゃんに今かけてもらおうか?」と提案すると、驚きながらも「じゃあ、お願いしてみようか」と応じてくれた。私は、少しだけホッとした。


ほどなくしてスマホが鳴り、母が出ると、受話器の向こうから聞こえてくるのは穏やかで温かみのある女性の声。彼のおばあちゃんらしい。母は最初やや緊張気味だったけど、おばあちゃんが「宿の仕事は大したことをさせるつもりはないですよ」とか「女の子だから、部屋の片付けやお布団の上げ下ろしを手伝ってもらう程度で十分助かるんです」と優しく説明してくれているのが聞こえる。おばあちゃんの声は、とても優しくて、安心できた。


最後には母が「……そうですか、わかりました。もし何かあったらすぐに連絡しますので、よろしくお願いします」と言って電話を切った。なんだかほっとした表情に変わっている。


「話してみたら感じのいい方だったわ。旅館も昔から営んでるみたいだし……。夜遅くまで働くわけでもなくて、向こうで夕飯やお風呂もしっかり用意してくれるって。もちろん無理はしなくていいって言ってたし。」


母はそれでも「ちゃんと気をつけて行くんだよ」と何度も釘を刺したけど、最後は「せっかくならいい経験になるかもね」と背中を押してくれた。私は内心大喜びしつつ、「ありがとう。ちゃんと連絡するから」と安心させるように言う。母の言葉に、私は心から安心した。


数日後――。

指定された日時に合わせて、私と彼は電車とバスを乗り継ぎ、山あいの温泉街へ向かった。緑が迫る渓谷沿いを抜けるバスの車窓からは、澄んだ川の流れや古い木造の家々が見え隠れして、私は心が弾むのを抑えられない。彼と二人で旅をする、という状況に、心が躍った。


「いつもここに来てたの?」


「うん、小さい頃から毎年夏休みに遊びに来たりしてた。旅館の仕事手伝いも、じいちゃんばあちゃんに呼ばれるときはチラッとやってたんだよね。でも、今回みたいに人手不足で本気で困ってるのは初めてかも」


彼がそう言う横顔は、いつもよりほんの少し頼もしく見える。降り立ったバス停から歩くと、足元は古い石畳に変わり、のどかな雰囲気が漂っていた。朝の空気が山の緑を通ってきたせいか、街中よりも涼しく感じられる。彼の横顔が、いつもより少しだけ大人っぽく見えた。


「いらっしゃい! よく来てくれたねぇ、ほんとに助かるわ」


玄関をガラガラっと開けて顔を見せてくれたのは、先日電話で話してくれた彼のおばあちゃん。柔らかい笑顔で出迎えてくれて、私も自然に「お邪魔します。よろしくお願いします!」と頭を下げる。おばあちゃんの笑顔は、とても温かかった。


古いけれど清潔感のある木造の廊下を通り、私はまず部屋に荷物を置かせてもらう。外観からは想像できないほど、きちんと手入れされた落ち着いた和室。さっそく布団の上げ下ろしや、チェックアウト後のシーツ替えなどを手伝う段取りを説明される。


「朝は少し早いけど、無理のない範囲でやってくれると助かるわね。あとはお掃除や夕方までの客室チェックくらいかな」


おばあちゃんの優しい声が心地よく、私は「はい、がんばります」と素直に応じた。彼も慣れた手つきで荷物の整理をして、私が不安にならないように「一緒に回ろうか」と声をかけてくれる。少しだけ恥ずかしい気持ちもあるけど、こうしてあらためて二人で“働く”ってなんだか新鮮だ。彼と一緒に働く、という状況が、なんだか少しドキドキした。


夕方、ひとまずやるべき仕事を終えて、縁側に腰を下ろす。外には小さな庭があって、蝉の声が遠くから響いてくる。


「ありがとうね、本当に助かったよ。最初は戸惑うかなと思ったけど、ちゃんと動けてるみたいだし」


「ううん、私こそ貴重な体験できてるし、楽しいかも」


彼と顔を見合わせて笑うと、ほっとするような温かい空気が流れる。ここで過ごす夏休みの終盤が、どう変わっていくのか――思わず期待が膨らむのを感じた。それにしても、山あいの宿ってこんなに落ち着くんだ……。


都会のざわつきから離れたこの場所で、彼と一緒に過ごせるなんて、ちょっとした特別感もある。まだ大きな出来事は何も起きていないけど、それでも私の胸はなんだかほんのり熱い。彼と二人きり、という状況が、なんだか少しドキドキした。


「これから、もっと彼との距離が近づくのかな……」


そんなぼんやりとした予感を抱きながら、湯けむりの漂う温泉街の夕暮れを見つめた。夏休みはもう残り少ないけれど、きっとここで過ごす時間が私の心に新しい“何か”を芽生えさせてくれる――そんな期待に胸が弾んで止まらないのだ。彼との時間が、私にとって特別なものになりつつある、そんな気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る