第2話 彩る紫陽花に揺れる心
駅で待ち合わせをしたのは、六月も半ばに差しかかった土曜日。梅雨入りしていたはずなのに、この日はなぜか雲間から日差しがこぼれていた。私は少し早めに家を出て、彼を待たせないように駅へ急いだ。出かける前に母が「気をつけて行ってきなさいよ。雨具だけは忘れないでね」と、さらりと言ってくれたのが、なぜか心に残っていた。
本当はクラスメイト何人かと一緒に行く予定だったのに、皆バイトや部活、塾の予定が合わず、話は白紙に。私も「せっかく楽しみだったのに残念……」と思っていたところ、彼が「もしよかったら、二人で行く?」と声をかけてくれたのだ。
(正直、まだそんなに会話を重ねていないはずなのに……どうしてこんなに心が弾んでるんだろう)
駅に着くと、彼はすでに来ていて、控えめに手を振ってくれた。「おはよう」と交わす声が、妙に胸に響く。彼の声は、いつもより少しだけ優しい気がした。
「今日は、雨降らないといいね」
「うん、天気もちそうでよかった」
そう言葉を交わしながら、私たちは路面電車に乗り込んだ。少し郊外にある古いお寺まで乗り継いで行くこのプチ旅が、普段の自転車通学とはまったく違った新鮮さを感じさせる。隣に彼がいるだけで、いつもの景色が少し違って見える気がした。
電車の窓から見える町並みは、いつもの通学路では見たことのない風景だ。彼が「俺、あんまりこっち方面来たことないんだけど、大丈夫かな」と呟くので、私はスマホで路線を確認しながら「私も初めてだけど、たぶん乗り換え合ってるよ」と笑った。少しだけ会話がぎこちない気もするけれど、そんな初々しさが逆に心地よかった。彼の少し不安そうな表情が、なんだか可愛らしくて、心がくすぐられた。
降り立った小さな駅から歩くこと数分。参道を進むと、一面に紫陽花が咲き誇る光景が飛び込んでくる。青や紫、ピンクの花が重なり合い、ほんのりとした陽の光を反射して揺れている。想像以上の美しさに息をのむ私を見て、彼も「ほんと、すごいね」と感嘆の声を漏らした。彼の横顔が、太陽の光に照らされて、いつもより少しだけ大人っぽく見えた。
「わぁ、この紫陽花、色がすごく鮮やか……」
「そっちは淡いブルーっぽいね。品種が違うのかな」
小さな声で感想を言い合いながら参道をゆっくり歩く。初めての二人きりのお出かけで、なんだか落ち着かない。けれど、そのぎこちなさが奇妙に心を満たしていく。まだお互いに探り探りだけど、言葉の端々に優しい空気が流れている気がした。彼の言葉は、いつもより少しだけ柔らかく聞こえた。
境内を回りきったころ、小さな段差でつまづきそうになった私を、彼がさりげなく支えてくれた。指先が触れただけなのに、一瞬ドキリとするほど熱が伝わってきたように思う。彼の指が、私の腕に触れた。その感触が、なぜか頭から離れなかった。
「ありがとう……ごめん、ぼーっとしてて」
「いや、俺こそ気づくの遅れた」
ほんの短いやりとりにさえ胸が高鳴る。こんなふうに二人で出かけるなんて、不思議と夢みたいな感覚だ。彼と二人でいると、時間がゆっくりと流れているように感じた。
そのあと、門前に並ぶ甘味処へ立ち寄ることに。古民家風の店内には冷たいおしるこや抹茶ゼリーなど、和スイーツの写真がメニュー表に並んでいて、どれも美味しそうだ。私が迷っていると、彼が少し照れたように「甘いの、好きなんだよね?」と聞いてくる。彼は、私のことをよく見ているんだな、と嬉しくなった。
「うん、大好き。家でもよくアイス食べてるくらい」
そう答えると、彼は「じゃあ、おしるこか抹茶ゼリーがおすすめかな」と言ってくれて、私は「じゃあおしるこにする!」と即決。彼は寒天がたっぷり入ったあんみつを注文した。
「こんなとこに一緒に来るのって、なんだか不思議だね」
甘味を味わいながら、私がぽつりと口にすると、彼は少しだけ考え込んでから、「そうだね。でも、悪くないかも」と控えめに笑った。その自然な笑顔を見た瞬間、私の胸がまた小さく弾けた。こんな風に話せるなら、もっといろんな場所へ行ってみたい……そんな願望が静かに湧いてくる。彼の笑顔は、いつもより少しだけ優しく、そして少しだけ大人っぽく見えた。
帰り道は電車を乗り継いで駅へ向かう。行きよりは言葉が増えた気がする。彼がテスト範囲の話題を出せば、私も「あそこ長文が多いから大変だよね」と共感する。特別盛り上がるわけではないけれど、初めての二人旅にしては上出来だと思う。何より、ずっと胸がふわふわしたままだ。彼と話していると、時間が経つのがあっという間に感じた。
駅に着くころには夕方が近づき、周囲が淡いオレンジ色に染まっていた。改札を出ると、私と彼の帰り道は反対方向。自然と「じゃあ、またね」という空気になるけれど、足が名残惜しそうに止まってしまう。
「今日はありがとう。すごく綺麗だったね、紫陽花」
「うん、ほんと。誘ってくれてありがとう」
言葉は短いけれど、その内側にはたくさんの気持ちが詰まっている気がした。私は「また一緒にどこか行こうね」と口にしかけて、恥ずかしくなり途中でやめた。でも、彼も同じように思ってくれているようで、わずかに笑みを浮かべながら手を振った。彼の笑顔は、夕焼けに照らされて、いつもより少しだけ優しく、そして少しだけ切なく見えた。
紫陽花の鮮やかな景色が、私たちの距離を確実に近づけた一日。まだ誰にも言わないけれど、この小さな冒険が、私にとって特別な始まりになった――そんな予感を胸に抱きながら、私は彼の後ろ姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。彼の姿が見えなくなっても、胸のドキドキは、まだ止まらなかった。
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