ANALYSIS 16

 アメリカン航空792便、―――。

「高度5127、――5,…降下していきます」

副操縦士の読み上げる高度を、機長が目で確認する。目視での位置確認は馬鹿げた話だが、機長個人が持ち込んでいた携帯性の高度気圧計だ。

 副操縦士の読み上げる高度――これもまた、航空機の機能が停止しているいま、何と副操縦士が持ち込んでいる私物、つまりスマートフォンによる管制塔との通信からくる画面なのだが、――。

「ばかげてますね」

思わずも個人的感想を漏らす若い副操縦士に機長が笑う。

「確かにな、…結構正確なものだ、この高度計も」

ガムテープを何処からか乗務員が用意したものを用いて、目の前に動かないよう貼り付けてある携帯高度気圧計――つまりは腕時計が示す高度に半ば感心しながら機長がいう。

 操縦桿はいま何の反応も示さない棒でしかなく。

 普段は見慣れた数値や高度計、速度計等の飛行に必要な表示を示すはずのディスプレイは、唯の透明な塊でしかない。

 飛行機の前に開いた窓だけが、外を実際に見ることのできる唯一の視覚データだ。

「天候が良好なのは幸いだ。再起動に掛かる時間はどれだけだといっていた?」

「動き出すまでに一分二十秒、…墜落するには充分すぎる時間です」

副操縦士もまた自らの腕時計を無造作にコクピットに貼り付けている。

 それは、ストップウオッチとしていま時間を刻んでいた。

 エンジンが止まり、一分二十秒、―――。

 それは、副操縦士がいう通り、墜落するには充分な時間だ。

 現在の高度は、制御を取り戻して機体を立て直す為に必要な高度から考えれば、ぎりぎりのものであるといっていい。

機体が制御を失う事を考えれば、停止する高度は高ければ高い程いい。

 しかし、高すぎれば気圧をコントロールする機能も失われる為に、乗客もパイロットも一瞬の内に意識を失うことに成りかねない。総ての機能が失われる為に、非常用の酸素マスクを使用することも出来なくなる可能性があった。

機能が停止して気圧の制御ができなくなる際に乗客に、そして操縦するパイロットに生理的に起こる危険を避けることの出来る高度との兼ね合いを考えれば。

 だが、その為に取れる高度は充分なものではなくなり、高さを保てないということは、それだけ地表への距離は短くなり、墜落の危険が増すということになる。

 それでも、酸素を失いパイロットも乗客も気絶する危険を避ける為には、計算されたその高度を取るしか方法は無かった。

 コンピュータ制御と別の部分で動く余地のある機械的制御と呼ばれる装置は、現代の航空機では唖然とするほどに少なくなっている。

 その為に、安全の為に下げた高度では、パイロットが気絶することもないが、制御を失った塊となった航空機が地上に激突するには充分すぎる低い高度でしかもてない。

 天候の急変、或いはそうした要素がなくとも。

 制御が失われる前に、幾度も検討が重ねられ、エンジンが停止する際のフラップの角度――それは、航空機が降下していく角度や、速度等を制御するものになる――は、その他の単なる塊となった航空機を出来得る限り機体が制御された状態で保たれるようにと考慮して直前にその位置を停止していた。その他の状態も最善が考えられ、実行はされているが。

 航空力学、周辺の天候、気圧、風の流れ。

 出来る限りの要素を計算した上で、高度を出来るだけ維持出来るようにと考慮されて決定はしたが。

 機長の手許には、それらの計算を書き付けたノートがある。

「まさか、この年になって計算を初めからやることになろうとはな」

幾らか冗談を交えて機長が苦笑をみせていうのは、普段ならオートパイロットに任せて計算しない航空機の位置、重量、速度その他を合わせて航空機の位置を導き出す計算式だ。試験には必須の項目だが。

「小型機を休日に飛ばしていて良かったよ」

小型機では必要な燃料計算や飛行計画や現在位置を割り出すのに使う計算式が役に立ったという機長に副操縦士が訊ねる。

「何を操縦しておられるんです?」

「中古の二人乗りだ。尤も飛ぶのは一人だがね。乗客を乗せて空を飛ぶのは、仕事だけにしたいからな」

「――そうですね、一人で飛ぶのは気楽でしょう」

「飛ぶ醍醐味だね」

機長が笑んでみせていうのに副操縦士が答えようとして。

 詰まるようにしてくちをひらく。

「高度、2458、―――」

管制室から連絡する数値が連動するようになっているアプリの表示に副操縦士が言葉を失う。

 機長が腕時計をみて答える。

「見えているよ」

 天候は晴れ、―――特に強風や突然ダウンバーストを呼ぶ雲も無く、通常ならば問題なく着陸できる良いコンディションの日だ。

 いまは、機能が戻らなければ地上に激突するしかないカウントダウンにある。

 機長の緊張した面持ちが、前方を見つめる。

 降下姿勢を取る飛行機の邪魔になるものがないように、いま管制領域に、空港へと進路を取る上空にある航空機はこの旅客機だけだ。

 風が悪戯をせず、このまま直進していることが出来ていれば、最後の進路は空港を直線で目指している。

 白く、一瞬薄く雲が過ぎり、緊張が走る。

 そのとき。

「…――――空港だ」

 機長の視力が、遠くいまだ先に見える空港を捉えた。

 空からの距離では、まだ数キロ先になる。

 途中、空港までは何も無い。

 海上を飛び、人家や人口密集地上空を飛ぶこと無く空港に辿り着けるルートが開かれている。

 何故、初めにこの機が選ばれたのか理解していた。

 航空機の制御装置――オートパイロットの脆弱性を狙った墜落プログラム。その危険性が警告されていた事は知っていたが。

「まさか、しかし私達の操縦している機体がそれに当たろうとはね」

「帰ったら宝くじでも買いますか?」

「億万長者になれそうだな」

副操縦士の戯れ口に機長が笑んで答える。

 墜落プログラムを停止させる為に、オートパイロットの機能を攻撃して一時停止させて。

それによりこの機体に潜んでいる墜落プログラムを停止させて、機体の制御コンピュータを再起動させる。

 そして、再起動によりオートパイロットが起動して墜落プログラムが働き出す前に、手動制御にしてオートパイロットを切り離す。

 そして、手動により着陸する。

 簡単にいうが、オートパイロットを切り手動にするタイムラグ、そしてその際の機体の制御等を考えれば、奇術やサーカスのアクロバットに等しい芸当だ。

 サーカスはしばらく、忘れていた。

 機体を振り回すような芸当は論外だが、機体を振り回す激烈な天候異変や、そうした何かに対応する能力を求められることを、普段のオートパイロット任せの安全な飛行では忘れるのだが。

 この機体が、そのアクロバットをする最初の機体に選ばれたのは偶然ではない。

 地上への損害をあたえる可能性の低い航路。

 周辺の天候が良好であること、急変がないと思われ、さらに視認性の良い時間帯。

 空港管制官の練度。

 周辺に整備されたレーダー網。

 空港には今頃、可能な限りの消防車が隊列を揃えて待機しているだろう。

 乗員乗客二百三十五名を乗せて、いま無事に彼らはこの機体を着陸させなければならない。

 それが、どんなアクロバットでも。

 機体の上空には、そして二機の付き添いが先程から飛んでいる。

 この機体が、着陸をテストする最初の一機に選ばれたもう一つの理由だ。

 ――ここは空軍基地に近いからな。

皮肉交じりで機長が考える。上空の介添えは、機体が制御不能になって予定外の地域に墜落する兆候を得たなら、直ちに撃墜するだろう。

 市街地にもし墜落するようなら。

 上の介添えは、F-18Aか、それともBかな。

 挨拶くらいはほしかったが、と。

 上空から彼らが飛行ルートを外れたなら撃墜する為に監視している戦闘機の機種について考えて。

 副操縦士に賭けを持ち出そうかと考えて、横をちらとみてやめておいた。

「―――…」

 副操縦士の視線は、高度計のアプリから、目の前に貼り付けたストップウオッチにした腕時計に釘付けになっている。

 空は青い。

 機長は、空港を真っ直ぐ見見通せる現在位置を無意識に見えていた標識灯になる塔の位置で確認し、速度を簡単に計算しながら、ふと楽観的な気持ちになっていた。

 墜落まで、このままなら一分少々。

 正確にコンマ以下までの計算を学生自体のように思い起こしながら。

 必ず降ろす。

 無事に、帰す、…――――。

 唯、単にそれが仕事だ。


 空を飛ぶ飛行機、いや、いまは単に慣性の法則に従い地表へと落下を続けている飛行機は。

 このままならば、後一分程で地表へと激突するだろう。






「機長」

副操縦士の緊張した声が掛かる。

「切るぞ、再起動だ」

「はい!」

突然、電源が蘇り、一斉にランプが点く。オートパイロットが生き返る瞬間に、機長は制御を切ろうとして。

 何だ?

一瞬、オートパイロットの赤いランプが、…―――。

「機長?」

「切り替えたぞ。高度」

瞬時、何か赤いランプが意志をもったもののように見えて、機長が遅れかけた動きを副操縦士の声に取り戻し、手動操縦に切り替える。

「高度、…1238」

「高度1238」

通信が復活し、高度計をみてあまりの低さに副操縦士が息を呑みながらも伝える高度を復唱して機長が忙しく手を動かす。

「ランウエイ、コントロール」

機長が空港への着陸を許可されているルートに乗っていることを宣言し高度と機体速度、燃料、フラップの位置、エンジンを確認する。

「エンジン点火」

「エンジン点火」

停止していたエンジンを点火して、最小限の推力が得られるように微速で吹かす。

「ブレーキ準備、ギアダウン」

「ギアダウン、確認しました」

空港までは既に一・二キロ。ここまでくれば、微速でエンジンを吹かしながら、降下した機体を着陸させるしかない。    

着陸せずにやり直すには、機体は既に降下しすぎている。

機体を支える主脚――脚が下りているかを計器で確認して、管制にも確認を求める。

「こちら空港、視認しました。脚は下りています」

「了解」

空港の滑走路が迫ってくる。

 エンジンを絞り、誘導灯を確認。

 滑走路を取り巻くように赤い消防車の集団がいるのを機長が視認する。

「貴港の歓迎準備に感謝する。これより当機は主滑走路に着陸する」

「主滑走路への着陸を許可する。」

他の機体は既に一機も姿がみえない。随分と贅沢な着陸に機長が頬を歪める。

 皮肉に笑んで、さらにエンジンのスロットルを絞る。

 機体の高度がさらに下がり、空港が目の前に見えてくる。

 そのとき。

 横風が、突然機体を。






「どうして、…―――もうすぐ」

西野が、旅客機を映す映像がアップになったことに驚いて身を乗り出す。

 横風に僅かに旅客機が押されて揺れたようにみえた瞬間。

 まさか、―――。

西野が口許に左手を当て、息を呑み見つめた瞬間。

 アップになっている旅客機の向こうに、小さな機影――戦闘機がその上空を弧を描いて飛ぶのが見える。

 空港まで後少し、…だというのに。

戦闘機の銃口が旅客機に向いているのが見えた気がして。






「慌てるな、――」

機体を突然襲った横風は、この空港での着陸を難しくする名物だ。

 横にぶれかけた機体を見事に修正し、機長が操縦桿を操り機体を着陸する為の中心線に戻す。

 滑走路を目指す空中の見えない道を横にそれかけた機体が、計器の中でも見事に中心線へと修正される。

「…―――あれは」

副操縦士が思わず声に出した、前方を弧を描いて上昇していく姿が見えた戦闘機に機長が軽く肩を竦める。

「F―18Aだったな。ホーネットだ」

「…いまのは、俺達を撃とうとしたんでしょうか?」

恐らく接近していたのを中止して上昇していったと見える弧を描く軌道に、副操縦士が震えながらいうのに。

「着陸するぞ。賭けておけば良かったな」

「何をです?…―――526、300,…――」

副操縦士が訊きかけて、高度の読み上げに戻る。

 見る見る内に滑走路が視界に入り、機体の窓から見える景色は既に滑走路の路面だけになる。

 高速で迫る滑走路に、機体が減速しながら近付いていく。

 速度は着陸には微妙にまだ速すぎる。

 落ちていた高度に推力を保つ為に吹かしたエンジンの速度を、充分に殺せていない。

「高度200、―――」

副操縦士が訪れる惨事を予測してしまうのを押さえて高度計を読む。

 二百にしては、速度は速すぎるままだ。だが、エンジンを絞りすぎれば墜落する。

 空港まで、後数百、―――。

 着陸をやり直すことの出来る高度ではない。

 大型機の重い機体は、速すぎる速度のまま空港に近付いている。

「逆噴射、スロットル全開」

「逆噴射、スロットル全開」

機長の操作でエンジンが逆方向に全開で動く。制動をあたえられた機体が、前から急に壁に押されたように動きを止める。

 ふい、と宙に機体が無重量で浮くような瞬間が生まれた。

 前に進もうとする力と、逆方向に制止する力、―――。

 その二つが釣り合って、瞬間機体が宙に留まる。

「タッチダウン、―――」

瞬間、浮いた機体が静止した次の瞬間。

 降ろされていた車輪が、まるで羽根のように滑走路に触れていた。

 空気の層と推力の釣り合い、が奇跡を起したように機体をそっと滑走路に降ろす。

「…――――!」

 乗客の歓声が、閉じているコクピットの中にまで聞こえてきていた。

 路面に着地した機体は、スピードを殺しながら滑走路を順調に滑り、―――。

「…―――」

機長が大きく息を吐く。

 ボーイング777――アメリカン航空792便は、無事滑走路に着陸していた。






 濱野が、顔を覆うように手で撫ぜて、目を閉じて息を吐く。力が抜けたようにしながら、まだ目を閉じたままで首を振って。

 西野もまた、肩を落として、情けない顔をして漸く着陸した792便を見ていた。

 旅客機を寸での処で墜とす処だった戦闘機は、僚機の映像にまだ映っている。

「よかった、…」

力が抜けて見守っている西野に。

 濱野が、顔を撫ぜた手を下ろして、黒縁眼鏡の奥から鋭く射すような視線でモニタを見据えていう。

「よし!次はスペインだ」

五機目はスペイン。

 まだ、五機が上空には待機している。――――



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