【第1章】日常

アラーム音が部屋の静寂を破った。スマートフォンから流れる規則的な電子音は、まだ薄暗い室内を、どこか味気ない現代の空気で満たしている。

時刻は朝の五時半。いつもならもう少し眠っていたいところだが、不破 廉は手探りでベッド脇の机にあるスマートフォンを止めると、大きく伸びをしてゆっくりと布団から身を起こした。


狭いワンルームのアパートとはいえ、築年数はそこそこ新しい。白を基調とした壁紙と、最低限の家具しか置かれていない室内は清潔感があるが、どことなく物寂しい雰囲気を醸し出していた。

その一角に、小さなローテーブルと椅子が二つ。そこにはごく簡素な食器類と、ノートパソコンが置かれている。


「ん……兄ちゃん、もしかしてもう起きてるの?」


声の主は、廉と同じくこの部屋で暮らす双子の妹、不破 凛である。目をこすりながら布団の中から顔を出した凛は、まだ眠そうにまぶたを開けたり閉じたりしている。

部屋のあちこちに散乱している原稿用紙や、描きかけの漫画の下絵。凛の仕事道具がそのまま放置され、彼女が深夜まで作業していたことを容易に想像させた。


「朝だぞ、リン。いつまでもグダグダしてると、今日も学校に遅れるんじゃないか?」


「もう卒業したもん。高卒の私に朝っぱらから学校なんて関係ないし……」


凛は布団にくるまったまま小さく唸ると、渋々と身体を起こす。髪は少し跳ねたまま、いかにも寝起きらしい格好だ。

彼女は高卒で、今は漫画家を目指しながらアルバイトを掛け持ちし、作品づくりの時間を捻出していた。

施設で育ったため、実質上の家族は兄の廉だけであり、互いに生活を支え合うのが当たり前になっている。  


廉は身支度を済ませると、キッチンへ向かった。ワンルームにはコンパクトなキッチンが備え付けられていて、手慣れた手つきで朝食の準備を始める。

冷蔵庫には昨晩のうちに買っておいた食材が詰まっており、魚と野菜を取り出してフライパンを温めた。


「今日の朝ごはんは焼き鮭とスクランブルエッグ、あと味噌汁も作るからな。寝ぼけてるなら顔洗ってきなよ」


「はーい……」


凛は寝ぼけ眼のまま、仕方なく洗面所へ向かう。廉が料理をしているときの横顔は、凛がいつ見ても少し真面目すぎるくらい集中していて、同時にどこか優しげだった。

二人きりで暮らし始めてから、廉はずっと彼女の食事を作り続けてくれている。

施設を出てすぐは金銭的にも余裕がなく、インスタント食品ばかりの時期もあったが、廉がバイトと株投資の両方で少しずつ稼ぎを安定させ始めると、彼女に手作りのご飯を振る舞うのが毎朝の習慣になっていた。 


やがて、簡単な朝食がテーブルに並ぶ。湯気の立つ味噌汁と、こんがり焼かれた鮭の香ばしいにおいが、ほんの少しだけ殺風景な部屋に家庭の温もりを運んできた。

凛は椅子に座り、いつものように「いただきます」と小声で言ってから、おいしそうに箸を動かし始める。


「そういえば、兄ちゃんは今日も大学だっけ? それとも例の災害の調査に行くの?」


凛が味噌汁を一口すすると、口をやけどしかけたのか「あちち」と小さく声を漏らした。廉はクスリと笑ってから、真剣な顔つきで答える。


「昼前までは大学の講義がある。気象学の研究で参考文献を探したいしな。それが終わったら、ちょっと気になる被災地を見てこようと思ってる」


「また……危ないところに首を突っ込むの? やめてって言ってるのに」


兄の行動力は凛にとっては心配のタネだ。最近、テレビでも連日報じられる“局所災害”――Calamities(カラミティーズ)の増加傾向は誰もが知るところになっている。

だが、その真のメカニズムは判然とせず、被災地の惨状をニュース映像で見るたびに、凛の心はどこか締め付けられるような痛みを感じていた。

過去の大きな震災で両親を失った記憶もあり、それを再び味わいたくないという強い思いがあるのだろう。


「大丈夫だ。危険なところには深入りしないし、俺はただ、災害が起きる前の予兆をつかみたいだけだから。妙な法則がある気がするんだよ。

人口密度や気温、気圧、それに人の移動。いろいろなデータを組み合わせて、何かパターンが見えてくるんじゃないかと思ってる」


「そうやって、またメガネを指で持ち上げて“理屈はあるはずなんだ”って言うんだよね……。

確かに兄ちゃんは天気予報や株価の予測は得意みたいだけど、災害となると話が違うよ。危なくなったらちゃんと逃げてよね?」


「わかってるって。俺だって死にたいわけじゃないしね」


廉が笑って答えると、凛はどうにも押し切られたような顔をして味噌汁をもう一度すする。

小さく息をつきながらも、彼女はどこか兄を信頼しているような、それでいて苦々しげな表情を浮かべていた。このやりとりは二人にとっての日常の一部だ。

施設育ちの彼らにとって、互いを気遣いながら言葉を交わすことが、家族愛の最も自然な形なのだろう。


食事を終えたら、廉は洗い物をさっさと済ませ、凛は伸びをしながら漫画のネームをちらりと確認する。

担当編集から次のプロットを早く出してほしいと言われているらしく、焦りが募る中で昨夜はほとんど眠れなかったようだ。


「うーん、どうしよう。私もいい加減、次の読み切りのネタを仕上げないと……災害についての話でも描こうかな。流行りのネタに乗っかるのは安直かもしれないけど」


「凛の漫画、いつも登場人物がユニークで面白いじゃん。災害がテーマだと陰鬱になりがちだけど、誰も書いたことのない角度から描くならアリかもな」


「そうかなぁ……ありがとう、一応考えてみる」


そんなふうに兄妹が他愛のないやり取りをしていると、玄関のチャイムが鳴った。廉がドアスコープから外をうかがうと、宅配便らしい。

小さな段ボールを受け取ってから部屋に戻り、開けてみると中には防災関連の専門書が数冊入っていた。

見慣れた海外の書店サイトで廉が取り寄せたもので、災害学の理論や地質学、気象学関連の資料がぎっしり詰まっている。


「また本? 兄ちゃん、いつ読むのよ」


凛は呆れたような口調だが、廉はうれしそうにページをパラパラとめくる。


「夜に読めるだろ。大学の図書館にもない珍しい本が結構あるんだよ。

ほら、これなんか局所的な竜巻のメカニズムを扱ってる論文っぽいし。災害予測の手がかりがあるかもしれない」


「わかったわかった。頭でっかちになりすぎて、肝心なときに逃げ遅れないでね」


凛はそう言いながらも、どこか尊敬が入り混じった目で兄を見ていた。廉は貪欲なまでに学ぶことをやめない。

生き延びる術を探るためか、あるいは亡き両親の研究の続きを追っているのか――凛にはそのあたりが複雑すぎて、正直うまく理解できない。

けれど、兄が必死に前を向いていることだけはわかる。


時計を見ると、そろそろ大学の講義に向かう時間だ。廉は急いで身支度をし、肩にリュックを背負う。

スマートフォンの画面には、株価アプリがアイコンの通知を点滅させているが、今日は忙しくなるためじっくりチャートを追う時間はなさそうだ。

玄関先まで見送りに来た凛は、ほんの少し寂しげな笑みを浮かべながら言った。


「いってらっしゃい。無理しないでね、マジで」


「わかった。凛もネームの描きすぎで倒れるなよ。じゃあ行ってきます」


廉がドアを閉める音がして、静まり返った部屋に一人取り残される凛。

彼女はしばらくぼんやりとリビングを見渡していたが、「よしっ」と小声で気合いを入れ、散らばった原稿用紙を一枚ずつ拾い上げてはデスクへ持っていく。

兄への心配は尽きないが、今できることは自分のやるべきことをきちんとやるだけだ。そう思いながら、ペンを握り、パソコンを立ち上げる。


外はまだ薄曇りの空。天気予報によれば昼過ぎからは晴れ間が見えるらしい。

しかし、予測不能なCalamitiesがいつどこで発生するか誰にも分からないのが現実だ。

ニュースアプリには、今朝もどこかのビル内で突如として局所洪水が発生し、数名が負傷したという記事が上がっていた。

凛はその見出しを横目に見つつ、心のどこかでまた嫌な予感がする。


「もう災害はこりごりだよ……」


そんな独り言をこぼしながらも、彼女の頭の中には半ば職業病のように“災害漫画”のアイデアが浮かんでくる。

恐怖や混乱の中でも、そこにドラマがあるなら描きたいという創作意欲がわずかに湧き上がるのだ。


やがて、彼女はインターネットで参考資料を探し始める。施設時代の仲間や、たまに連絡をくれる親友のナナにも「災害をテーマにした漫画ってどう思う?」とメッセージを送る。

数分後、ナナから「いいじゃん、それ! リアルに描いたらウケるかもよ」という能天気な返信が届き、思わず苦笑した。

自分が巻き込まれる可能性を思うと、素直には喜べない。それでも、漫画を描くことは凛にとって“自分の居場所を作る”行為に他ならなかった。


一方その頃、大学へ向かった廉は、淡々と講義をこなしていた。

気象学の入門的な話が中心だが、彼は講義中にもスマートフォンで世界各地の気象データや災害発生地点の情報に目を通し、関連付けを考え続けている。

ノートには大量のメモと矢印が描き込まれ、素人が見れば何が書いてあるのかさっぱり分からないだろう。

人口密度、建物の構造、地質の特徴、そして未確認流星群や未知のエネルギーの存在――断片的な情報が彼の頭の中で入り乱れ、時折「こういう可能性もあるか……」と呟きながらペンを走らせる。


講義が終わると、大学の図書館へ直行し、新着の研究論文にざっと目を通す。

気象衛星の画像や地震観測データがまとまった雑誌も片っ端からめくり、もし局所災害と関連しそうな記述があればノートに書き写す。

周囲の学生から見ると、彼は何やら必死に勉強している優秀な学生のようにも映るが、実際は災害の仕組みを解き明かすための作業に夢中で、単位にはあまり興味がないのかもしれない。


図書館を出たあと、時計は午後二時を回っていた。陽の光が窓ガラスを照らし、キャンパスの中庭には学生たちが思い思いにくつろいでいる。

廉は少し急ぎ足でキャンパスを横切り、バス停へ向かった。次に彼が向かうのは、つい先日「建物内部で突然洪水が発生した」と報じられたビルの跡地。

現場はまだ立ち入り禁止区域になっているが、外観を見るだけでも何か分かるかもしれない、というのが廉の考えだった。


きっと、危険だという凛の声が頭をよぎる。しかし、彼の中にはどうしても抑えきれない探究心が燃え上がっていた。

まるでこの世のどこかに“真実”が隠されていて、それを見つけ出せば災害からみんなを救えるのではないか――そんな漠然とした期待と執念が入り混じっている。

施設を出るときに誓った「今度こそ、自分の手で大切なものを守る」という思いが、彼を危険な領域へと駆り立てる原動力になっているのだ。


バスに乗り込んだ廉は、窓の外を見つめながらため息をつく。少し肌寒くなってきた空気と、どこか張り詰めた街の空気。

Calamitiesがまたいつ襲ってくるか分からないという不安が、街行く人々の足取りを微妙に重くしているようにも見えた。

スマートフォンのニュースアプリでは、「未確認流星群、今月再接近か?」という見出しの記事がトップを飾っている。

それを開いてみると、確定情報ではないと断りつつも、海外の一部研究機関が奇妙な小惑星群の軌道を観測したという話が載っていた。

胸騒ぎを感じながら読み進め、廉はスマートフォンの画面をそっと閉じる。


「この日常は、いつまで続くんだろうな……」


自分に問いかけるように、小さく呟いた。朝の温かい食卓、妹との何気ないやり取り、大学の講義。

そうした“普通”がいつまでも続くなら、それが一番幸せなはずなのに。今の世界では、もしかするとそれが儚い幻想に過ぎないのかもしれない。

両親を奪われたあの災害と同じ悲劇を繰り返させないために、自分にできることがあるなら何でもやりたい――その強い意志が、彼を行動へと突き動かしているのだ。


バスが動き出し、市街地のビル群を抜けていく。遠くの空には、まだ薄暗い雲がたなびいている。

Calamitiesは次にいつ、どこで牙をむくのか。廉はゴクリと息を呑みながら、鞄の中の資料をそっと握りしめる。

そして、これから訪れる場所で、自分が何を目にすることになるのか、まったく予測できないまま――彼は、まだ見ぬ“世界の真実”へ、少しずつ足を踏み入れようとしていた。

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