プロローグ後半(小学生編、読み飛ばして構いません)

1節,ヒロイン蓮華、11歳



「わぁ、蓮華、すごく似合うじゃない!」

お母さんの感極まった笑顔がパァっと広がる。


「この浴衣はね~、おばあちゃんがあなた位の時に着たものなのよ~。春貝の腺を使って特別に染め上げたとっても高価な織物なの。だから50年経っても全然色が変わってないのよぉ~」


お母さんは私を見つめては感嘆し、ため息を漏らす。


「……」

私はというと、ちょっぴりタンスの匂いのするこの浴衣と、いつもは肩まで下ろしている髪をきつく結い上げられた心地悪さで、なんとなく拗ねていた。


花火大会に行くことが私の願いの全てで、綺麗に着飾ることに興味はない。


「はぁ~まだ11歳なのに、こんなに艶っぽくなるのねぇ。娘ながら怖いわ、この先が」


お母さんのため息をよそに、私は花火大会を前にどこか落ち着きのない夕暮れに心を囃し立てられる。


「あそうだ、蓮華。今晩の花火大会には近所の京一君と一緒に行ってきなさい。彼のお父さんにはもう伝えてあるから」

「えっ! 京くんと?!」


どきんっ。


心臓が1つ大きく鳴った。

トクトク……トクトク……。

まるで音が直接耳に届いてくるみたい。

私はそっと胸の辺りを手の平で押さえた。


「蓮華、履物は可愛い赤の紐尾がついた下駄にしなさい。玄関に出して置いたから。カラン、コロンって可愛い音がして、きっとその藍色の浴衣によく合うわよ」

「赤い紐尾の下駄……うん!」


私は鏡に映った別人のような自分の姿を改めて見つめる。

キツく結い上げて、額や耳の裏が張って少し痛いけれど、京くんの名前を聞いて痛みは吹っ飛んだ。

一緒に川べりを歩く姿を想い浮かべると、顔がかぁっと熱くなる。


京くんといっしょに歩ける。

いっしょに花火みられる。

いっしょにお話できるんだ。

いっぱい、いっぱい。


「でもさぁ男の子と二人って……ちょっと早すぎない? 蓮華はまだ11歳だし」

するとお父さんの心配そうな声。


「え、なんで?」

11歳だからって何?

早すぎるって何が?

私は意味が分からなかった。


「まぁいいじゃない。11歳には11歳なりの恋があるのよ、ねぇ蓮華?」

「恋……うん」


「そ、そう? ちょっとまだ早い気もするけど……」

なんだか渋い顔のお父さん。


「じゃあ分かった……。蓮華が京一君と花火大会に行くのは良しとしよう。でもな、蓮華」

頭の上にポンと手の平を置く。


「パンツはしっかり穿いてから行きなさい」


ズルッ。

私はずっこける。


「浴衣でパンツを穿くのは、本当は間違いなんだけどね。ん~」

お父さんは、おちょぼ口でチューをする顔を私に近づけてきた。


ぐっぐぐぐ……。

右手でお父さんの顔を押さえると、ぐっと力を込めて遠ざける。

嗅ぎ慣れた匂いがした。



「さすがにパンツは穿かせたわ。蓮華も嫌でしょ? スースーするの」

「うんお母さん。スース―は嫌。恥ずかしいもん」


スースーするという言葉につられて、お尻のあたりをスリスリさする。

当たり前のように浴衣の下にパンツを穿いている。

いつも寝るときに身に着ける分厚いやつだ。

聞かれるまでもないことなのに、

変なの。



☆------☆------☆------☆------☆------



トットトト。

赤くて可愛らしい巾着袋を手にすると、玄関に向かう。

「じゃあ行ってくるね~!」

可愛らしい紐尾の下駄を履くと、傍まで見送りに来ていたお母さんに手を振って、外へ出る。




ムワリ。


うわぁ……まだ暑い。

夏の夕暮れは、少しだけ湿気を帯びている。

日が西に沈みかけて、辺りがオレンジ色に染まる。


「あの子も、もう11歳か。アレはまだ治らないんだな」

「そうね……」


背後からお父さんとお母さんの会話が聞こえてきた。

私は何が治らないのか分からなかったけれど、特に気にしなかった。

この後の花火のことで頭の中は一杯だった。

今日は七夕。

一年に一度だけある織姫星の日。


夜は近くの河川敷で大きな花火大会がある。

少しだけ湿って夕暮れの風に吹かれながら、私はカラコロと下駄の音を鳴らす。

遠くで、カナカナカナ、と日暮らしの悲し気な音が響いていた。


カナカナカナ……。

カナカナカナ……。



☆-----☆-----☆-----

「蓮華のステータス」


1,命の残り時間 

  :キッカリ6年間と6時間10秒

2,主人公へ向けた想い :初恋レベル

3,希望        :★★★☆☆

4,絶望感       :☆☆☆☆☆

☆-----☆-----☆-----



2節,花火大会デート、絆



ズドォンッ! ズドォンッ! バンッッ! バンッッ!


花火の煌めき、十重二十重

開いては消え、また、開いては消える。

その一瞬を逃すまいと真剣に見つめる私のとなりに、

一言もしゃべらない君がいます。


「わぁ! きれーい。京くん、すっごい花火! ねえ! あの花火、“割れ茶碗”って言うんだって!何でかなぁ? お茶碗落して、パチンって割れた音に似てるからかなぁ?」

私は必死だった。


正直に言うと、花火を見上げながら花火の映像が何一つ記憶に残っていない。

それは打ち上げられた花火が記憶に残らないほど質素なものだったからじゃない。

花火はとても綺麗で凄かった。

記憶に残らなかったのは別の理由。


「京くん、今の花火すごくなかった? ズバンってすごく大きく広がって、しばらくしてズドンってお腹に響くような音がして!」


対岸に設置された砲台からは、星の瞬きにすら負けてしまうような小さな小さな火珠がひゅるひゅると打ち上げられてゆく。

しかし、それが煙に霞む中空に到達する頃、ズバンっと炎の傘が開くみたいに美しく炸裂するのだ。同時に、ズドンと凄まじい音が周囲に響き渡り、遠くの山々で木霊する。


「綺麗だなぁ。ねえ、京くんもそう思う?」


川縁の土手の上、隣に座っている彼の方を向く。

でも相変わらずソッポを向いたまま。

私と反対側の方向、屋台も人も花火もない暗い川の下流の方をずっと見つめている。

そっちには何も無いのに……。

その様子がまるで私を避けているみたいに思えて怖かった。


「京くん……花火みてる?」

そっと聞いてみる。

「見てるよさっきから。何回も言わなくても見てるって」

「……」


強い言葉が返ってきて、思わず身体が震えてしまう。

京君はまた川下の方をプイと向く。


「……わぁ、きれいだなぁ」


だから私は無理に感嘆してみせる。

嫌われているのかもしれない。

身体が震えていることを悟られないように意識してしまう。

みるみるうちに身体が固くなってゆく。

カチコチだ。


私は天空を見上げながら、そこに咲き誇る美しい花火に心を奪われた“フリ”をし続けた。

「わぁ、大っきい……」


花火はとても鮮やかで煌びやかで美しい。

でも、夜空は辛かった。


ちりん、ちりん


ふと、耳にする可愛らしい音。

それは、終盤の仕掛け花火に差し掛かる頃のことだった。

一瞬だけれど、花火を見上げる大勢の人達の声が止まり、沈黙が訪れた。

そのとき、ふいに背後から可愛らしい音色が聞こえてきたのだ。


ちりん


「風鈴屋さんだ」

京君がそう告げた。


抑揚のない呟きだけど、花火の音に消されることなく私に届く。

足元の浴衣の裾を摘まんだ私の右手が、きゅっと閉じられた。

フワリ。

夏の夜風が微かに香る。

「……」


京君の視線の先を追うと、暗がりの中に一軒の屋台がポツンと佇んでいる。

他の屋台のように人で賑わっていない。


アレ?


さっきまで、あんな屋台あったかな。

煌々とした白色灯に照らされて、屋台の軒先には、沢山の風鈴が飾られている。

京君はするりと立ち上がると、吸い寄せられるようにして屋台のほうへ歩いてゆく。


「あ……」

私も後を追う。


ちりん、ちりん


屋台の前では、色とりどりの可愛らしい風鈴達が、まだ青い若竹で組まれた竿に吊るされている。時折頬を撫でるように吹く静かな夜風に揺られて、ちりん、と可愛い音を鳴らす。

京君は屋台の前に立っている。

私はそっと京くんの背中に浴衣の袖を触れさせた。

ピトリ……。

京君は、風鈴の一つを指さす。


「この青いやつ、蓮華に買ってやるよ」

「……え?」


たくさん並んだ風鈴たちの中で、ひと際目立つ青い色の風鈴が揺れる。


ちりん


可愛らしい音。

ひとつ。


まるで、京君の指先に応えるかのように、小さな短冊が揺れている。

風鈴の丸いガラスは、頂点に向かって青色がどんどんと濃くなる。

その中を一羽の赤いヒヨドリが飛んでいる。

とても綺麗。

そして可愛らしい。


それを私に買ってくれるというコト?

「あ、ありがとう。でも、どうして……(買ってくれるの?)」

「……」


京君は私の問いかけには答えてくれない。

その代わり、屋台のおじさんにこう告げた。


「おいちゃん、その青いやつ頂戴」

屋台のおじさんは、京君の顔を見ると目を細めた。

「あいよ坊主、400円ね」

それから、青竹の竿から青い風鈴を一つ、取り外す。


「蓮華……これ持ってろよ」

京君は私の顔を一度も見ることなく、ぶっきらぼうに風鈴を手渡す。

それから、お代の400円をおじさんに渡すと、さっさと一人で川縁の方へ歩き出した。


スタスタスタ。

え?

あ、待って!


心の中で叫んだけれど、声には出せなかった。

一人屋台に取り残された私は、京君の背中をぼーっと眺めている。

そんな私の頭上で大輪の花火がキラキラと瞬いた。




ドドンっ!

ズバン、ズバン!



赤、青、緑の大輪が十重二十重に瞬き消えてゆく。

終盤に差し掛かった大輪の花火達が、夜空に一斉に咲き誇る。


私の心臓はドキドキしている。

花火の音に対してじゃない。

頬は真っ赤になっていて、手の平は汗ばんでさえいる。


「お譲ちゃん、蓮華っていう名前なのかい?」

屋台の傍で立ち尽くす私に、おじさんが話しかけてきた。

私はコクリと頷く。

それから一泊置いて、口を開いた。

「うん……。あ、はい」


おじさんは真っ白で細身のシャツを着ていた。

屋台の雰囲気に似合っていない。

法被(はっぴ)にねじり鉢巻じゃあないし、髪の毛も長くて、耳の下までストンと落ちている。


「ハハ、蓮華ちゃん可愛いね。それも飛びっきり。さっきの坊主はお友達なのかい?」

「あ……その、近所に住んでるお友達……」

「そか、そか」

おじさんは微笑みながら、すぅと目を細める。


「さっきの彼のことが好きなのだね」

「え……あっ!」


突然の言葉に頬がカァーっと熱くなる。

目を泳がせながら両手をブンブン振って”違う”と告げる。

京くんはずっと先を歩いている。

おじさんの声を聞かれた心配はない。



「おじさん、さっきの坊主の好きな女の子が誰なのか、分かるよ。なんとなくだけど」

「えっ! ホントっ?」


風船がパンって弾けた瞬間のように、私の心が破裂する。

ドクンッ!


「だれっ?!」


知りたい! 知りたい! 知りたい!

京君が好きな人が誰なのか知りたいっ!


「う~ん、教えない。蓮華ちゃん、自分で考えな」

「えぇっ?! なんでっ? ねぇなんでっ?」

あんまりだ!

好きな人を知っていると言いながら答えを教えてくれないなんて!

とっても意地悪だと思います!


「そんなぁ。えぇ~。おじさんのケチっ、意地悪っ教えてよっ!」

本気でそう思ったから、非難の言葉が次々とあふれ出す。

おじさんは身を乗り出す私の勢いに少しだけ驚いた顔をした。


「ハハハ、ごめんよ蓮華ちゃん。おじさんは、蓮華ちゃんに意地悪するつもりはないんだ。でもまぁ気になるよね? 好きな子が誰か知っている、なんて聞かされたらね」

「うぅ」

低い唸り声を出す。


「あ、そうだ蓮華ちゃん。おじさん、答えは言わないけれど、代わりに別のことを一つ、教えてあげる」

「別のコト?」

「そうだよ」


おじさんは微笑みながら屋台に頬杖をついた。

私はなんとなくだけど、おじさんを深い森の奥に住んでいる猪だと思った。

え、猪?

何でかな?

分かんないや。



「蓮華ちゃんの持っている風鈴、それね……」

おじさんの視線が私の手元に移る。

すると涼しい風が吹いて、ちりん、と可愛い音を鳴らす。


「風鈴はね、ワンちゃんやネコちゃん、動物達じゃあ持てない人間だけに許された“愛”って心を最も簡単に、そして的確に表現したものなんだよ。愛……蓮華ちゃんにはまだ難しいかな?」


私はぷるぷると首を振って”いいえ”のサインを送る。

難しくなんかない。

私、知ってるもん。


「風鈴の大きな丸いガラス、それを“外見(そとみ)”っていってね、その中心からぶら下がっているガラスの棒を“舌(ぜつ)”というんだ」


ちりん

サヤサヤと風が吹く。


「“外見”と“舌”、このふたつがあって初めて風鈴となる。どちらか一つじゃ音は鳴らない。永遠にね」

私はこくりと頷く。


「音を鳴らすためには、ふたつ必用なんだ。お互い離れ離れになっちゃいけない。それなのに、“外見と舌”を繋ぐ絆の糸のなんと細く、結び目の頼りないことか。そうは思わないかい?」


私は改めて風鈴の姿を見つめる。

たしかにガラス細工の外見からは一本のか細い、そして赤い糸で“舌”がぶら下がっているだけだ。

結び目は緩くて、今にもポトンって落ちちゃいそう。


でも、短冊に揺られて“舌”はよく動く。

どんなに小さな風であってもフワリと揺れて、ちりん、と鳴らす。


「その心細さが、大切なんだよ」

おじさんは、風鈴を見つめる一字一句を心に溶かし込むように語りかける。


「絆は細い一本でいい。強かったり、たくさんあったりしちゃダメなんだ。絆が太くて何本もあると、きっと、“外見”はたくさんの絆に縛られて動けなくなる。だから、“音”は鳴らない。でも」


「絆の糸が細すぎれば、外見の重さに耐え切れず、“舌”は地面に落ちて砕けてしまう」


ふいに、悲しげな顔をした。

私にはそう見えた。


「“外見”も“舌”も不安なんだよ。いついかなることで二人を繋ぐ細い絆が千切れるかもしれない。互いが離れ離れになってしまうかもしれない」


ふわり、風が舞う。


ちりん、ちりん


可愛らしい音。


「だからこそ、不安に抗うようにして、舌は風を受ければ、例えどんなに僅かな風であっても、ちりん、と鳴らす。私はいるよ。ここにいるよって。それなのに……」


おじさんは話を止めると、再び悲しそうな顔をする。

どうしてだろう?

悲し気な表情の中に一瞬だけど、チリっと炎が浮かんだ。


「神さまはあえて、風鈴をこんな不完全なカタチにお創りになった」

私の頬をそよぐ夜風と、手元から駆け上がる可愛い音色たち。



ちりん、ちりん



「じゃ、ここで蓮華ちゃんに質問。風鈴の外見と舌って何を意味していると思う? そして、そこから生み出される“ちりん”って音は何だと思う?」

「え?」


どこまでも深く優しい微笑みを浮かべ、問いかけてきた。

私は人差し指の爪を噛みながら考える。


「外見と舌はぁ、男の人とぉ女の人?」

おじさんは“愛”と言っていた。

てことは、男の人と、女の人が出てくるはずだ。


「そうだね、正解。だとすると、音は何かな? “ちりん”って鳴る可愛い音は?」

「音? え……音、音、オト、おと、う~ん」


小首をかしげ、考えこんてしまう。

人差し指の爪を噛んでいたけれど、短くて上手く噛めない。だから少しだけ伸びていた小指の爪を噛む。

その瞬間、夜風が再び頬を撫でて抜けていく。


ちりん、ちりん


手元から駆け上がる小さく可愛い音色は、どこまでも澄んでいて、どこまでも淡くて、切なくて、涙の零れそうな感情が私の中をぐるぐると駆け巡る。

ふと京くんのカオが浮かんだ。

すると、もっともっと切なくなって、苦しくなって、堪らなくなった。



「わかった! おじさん、わかったよ!」



風船がパンって弾けたような気持ち!

「外見と舌はお父さんとお母さん! そして、“ちりん”って鳴る音が“わたし”!」


二人の気持ちが交わり、私が生まれる。

思わず大きな声で叫んだ私におじさんは笑顔をくれた。


「お、正解ぃ~。よく分ったねぇ蓮華ちゃん。なかなか聡明な子だ。音まで言い当てた子は蓮華ちゃんが初めてだよ」


おじさんは満面の笑みを浮かべながら、頬杖をついていた姿勢を元に戻す。

背筋が伸びて、スラリとしている。

気品に満ちた佇まいで、高いレストランとかにいるウェイターさんみたい。

どうして私はさっき、おじさんのことを”猪”みたいなんて思ったんだろう?

変なの。



ドドン、ズバン、ズバン!



花火の大輪達が暗い川縁を、一面の美しい花畑に変えてゆく。

気付けば京くんは一人川縁に腰掛けていた。


「おじさん、私もう行くね」

「おぅ蓮華ちゃん、じゃあね」




私は京くんの元へ駆けてゆく。

下駄が地面を鳴らす音が響く。


カラコロ、と。

カラコロ、と。


京くんの傍にいたい。

そして隣に座って最後の花火を観たい。


そんな私の耳に、何処からともなくおじさんの声が届く。

私はその声がなぜかとても懐かしく思えて、ずっと聞いていた。


「蓮華……か」

おじさんは、私の名前をゆっくりと呟いた。


「主よ、岩戸に籠る我が主よ、御覧になっていますか? ようやく現れました。那由多の欠片、彼女が最後のあなたです」




ドドンっ、ズバンッ、ズバンっ!




十重二十重に重なり大輪の花が咲いている。

真夏の夜空を彩るパステルの花たちは、ただ一時すらもその姿を残すことなく、消えてはまた生み出され、そしてまた消えてゆく。

今日は年に一度の七夕の日。

そして、私が初めて京くんと花火を観た日。


ちりん、ちりん


風鈴が、風に揺られて可愛い音を鳴らす。



☆-----☆-----☆-----


「蓮華のステータス」

1,命の残り時間    :変化なし

2,主人公へ向けた想い :初恋レベル

3,希望        :★★★★★

4,絶望感       :☆☆☆☆☆


☆-----☆-----☆-----




3節、運動会の選抜リレー



さん、……げさん、……蓮華さん

5年2組、学級委員長の琴野蓮華さん?


ん……?


「はいっ?!」


パチン。

シャボン玉が弾け飛ぶ。


突然、夢の中から引き揚げられた感じがして、大きな声で返事する。

此処は教室。

5年2組のいつもの授業時間。


「どうしたの? ぼーっとして。あなたの号令がないと学級会が始まらないのだけど」

飯野先生(クラス担任)が困った顔で立っている。


先生はまだ若い女の人。

学校でも優しい先生として人気が高い。


「す、すみません。えと、起立、礼(おねがいしま~す)、着席」



9月22日 午後1時20分。

黒板の上に掛けられた壁時計を目にする。

すでに午後の授業の開始時刻になっていた。


全開にした窓の外から、涼し気な風がサラサラと流れてくる。

ジリジリとした真夏の太陽は、もうその勢いを失っている。

空気は澄んで、朝晩は長袖が必要なくらいに涼しい。

真夏の主役に代わり訪れたのは、涙が出そうなくらいに透き通った秋の青空だ。

私は雲ひとつない青空のてっぺんを見つめていた。

瞳の中の青の純度がどんどん高まって、心の中まで青で満たされてゆく。


私は、この空を言葉で伝えるためには“青”だけじゃ足りないって思った。

その言葉を探り当てようとして、始業ベルが鳴っているのに、ぼーっと教室の窓から空を眺めていた。

私は5年2組のクラス委員長を任されている。




私の号令の後に、飯野先生の爽やかな声が教室に響く。

「はぁーい、じゃぁ始めるわよー。みんな静かにね。今日は再来週に開催される秋の大運動会のクラス対抗リレー選抜メンバーを決めまーす」


カツカツ。

軽快な音で黒板に文字が板書されていく。


クラス対抗リレーは、運動会の中でも一番の見せ場種目。

なんたって全校生徒がグラウンドの中央トラックに集まり、白線に沿って駆けてゆく選抜メンバーに注目するからだ。

選抜された脚の速い男子はいつもより格好よく、女子は綺麗に見える。

飯野先生はまず立候補を募った。



「男女それぞれ3人ずつの計6人よ。いい? 基本的には立候補を優先します。もし立候補者が多くて6人以上になったら、脚の早い順に選別。少なければ皆からの推薦順で決めまーす」

先生はクラスの隅々までを見渡している。


「走る順番はこうね」

チョークの音がカツカツ響く。


 女子1

→男子1

→女子2

→男子2

→女子アンカー

→男子アンカー


選抜メンバーは男子3名、女子3名の混合チームだ。

先生の良く通る声が教室に響く。


「はぁい、じゃぁ出たい人は手を上げて~」

「……」


教室の中はしぃ~んと静まり返る。

「ありゃま、誰も手を上げないか、やっぱ」

先生は腕を組んだまま、仕方ないなぁという顔をする。

こういう場面で自分から手を挙げて立候補する人はいない。


「う~ん、どうしよう。ほんとに誰もいないの~?」

しぃ~ん。


「やっぱダメか。う~ん、じゃぁ推薦順に切り替えます。選抜リレーに出て欲しい人の名前を言ってください。誰でもいいわよ、出て欲しい人がいたら手を挙げて教えて頂戴」

「ハイハイっ! ハイっ!」

先生がそう口にした途端、クラスのあちこちで手が挙がる。


「え?」


みんなの勢いにびっくり。

先生も呆れた顔をしている。


「おいおい、アンタ達ほんとにもう……。はいじゃあ、梶原さん」

先生は教室の後方に座る女子児童を指さした。

するとおかっぱ頭の梶原さんが、すっと立ち上がる。


「女子のアンカーは琴野さんがいいと思いまーす」


浅黒く日焼けした梶原さんが、私を見ながらニヤリとした。

「ね? 蓮華いいでしょ?」

目配せしてくる。

げ、もう……。

まさか最初に名前が挙がるなんて……。


私の名前は琴野蓮華。

琴野さんとは私の事。


リレーのアンカーに選ばれるのはいつものこと。

まあいいけどさ。


「まぁ、琴野さんが出るのは当然よね、だって学年の女子で一番脚が速いんだから」

隣に座っている河野さんが私の太ももをツンツンしながら呟く。

そう、私は脚が速かった。

それも、かなり。



「はぁ~い、じゃあ女子のアンカーは琴野さんね。他に推薦はある?」

「ないでーす」

「ありませーん」

「女子のアンカーは琴野さんしかいませーん」

皆口々にそう言う。


「はい、琴野さんは出場でいい?」

飯野先生が念のために確認してくる。


「はい」


私はジタバタしない。

目立つことは好きじゃないけれど、脚が速いんだし断っちゃだめだと思った。


「じゃ他の人、推薦は? ほら男子、あんたたち選抜メンバーは放課後一緒に練習できるのよ? ”姫”と仲良くなれるチャンス。立候補でもいいから手をあげなさい」

指し棒で教壇をカンカン鳴らす。


姫……。

姫といえば、織姫星。

私は、夜空に輝く美しい星に自分の姿を重ねてみた。


「先生ぇ、そんなこと言ったら誰も手ぇあげないってー。なんかー手ぇあげたら告白と一緒じゃん、それってー」

教室の後ろから大きな声が飛ぶ。


「アハハハ、そうだよ手を挙げたら琴野さんへの告白と一緒一緒!」

その声に同調するように教室のあちこちから囃し立てる声がする。


「あぁら~竹野君、もしかして、あなた出たいの~?」

囃し立てていた背の高い男子児童の名を、先生は意地悪に告げる。

ニヤリ。

口元が意地悪く吊り上がっている。


「なっ! ちょっ、ちがうよ! 出たい訳じゃないって!」

顔を真っ赤にしながら竹野君は必死に弁解する。


「ひゅーっひゅーっ、竹野と琴野さんのアッチッチぃ、アッチッチぃ」

クラスのあちこちで囃し立てる声が飛ぶ。


私はなんとなく俯いてしまう。

竹野君には悪いけれど、アナタは彦星じゃない。




クラスの仲間達の興味を一身に集めている私はというと、さっきからぼーっとしていた。

午後の学級会が始まる前のぼんやりとした空想を今も引きずっているのだ。

私の気持ちを占めているのは、どこまでも高く澄んだ秋の青空と、最近あった出来事。


今朝は久しぶりに京くんと一緒に登校した。

私が京君のおうちの前を通りかかったら、偶然京くんのお父さんが出てきた。

「おう京一、蓮華ちゃんが今から登校みたいだから、お前も一緒に連れてってもらえ」


一緒に登校する理由が出来たみたいで、私は嬉しかった。

でも、しばらくして玄関から出てきた京くんは眠そうな目をして不機嫌顔。

……。

チラッと私を見た後、テクテク一人で歩いていく。


もう!

仕方がないので、私は京くんのちょっと後ろを同じ速度でついてゆくことにした。


秋の心地よい風がさらさらと吹き抜けてゆく。

空を仰ぐ。

まだらの雲がふわふわ浮いている。

京くんの髪もふわふわしている。

寝癖だろうか?

お風呂に入って髪を乾かさないまま寝たんだな、きっと。


「京一、髪の毛くらいちゃんと乾かして寝なさいよ」


お姉さんぽく、“心の中”で言ってやる。

きっと、声をかけても振り返らないだろう。

何をしたってダメ。

きっと、ぜったい。

……。

……。


とりあえず、ベロを出してみる。

それから心の中で叫ぶ。

「(こけろっ!)」

でも京君は変わらずテクテク歩く。


う~ん、足りないみたい。

無視、無視、シカト、きっと明日もシカトであさっても無視。

そうなんでしょ? 京君。


そんな彼に私の心が納得しない。

ベロを出したポーズをそのままに、右手中指で鼻頭を上に引っ張る。

ブタの鼻の真似。


ブヒ、ブヒ。


心で伝える「ちぃび! ハニワ顔!」


私のほうが手のひら一つくらい背が高い。

並んで歩けば姉弟みたいに見えて嫌だから、後ろを付いていくのがちょうどいい。

私はそう思っているんだぞ。


あぁあ~……。

寂しいなぁ。

一緒に手を繋いで歩きたいのになぁ……。

私は叶わぬ願いを頭の中で空想した。






「琴野さん? どうしたの?」

「え? あ、はい……」

今朝の出来事を思い返していたら、再びボーっとしていたようだ。

先生に名前を呼ばれて戻って来る。

気付けばリレーのメンバーはほとんど決まっていた。

黒板に書かれた選手の名前はこう。


女子1番手:梶原早苗

男子1番手:竹野真一

女子2番手:藤田紀子

男子2番手:飯山和利

女子3番手:琴野蓮華(←私)

男子アンカー:


残りは男子アンカーのみ。


最後を走る人、か……。

私は誰にバトンを手渡したいのだろう?

少しだけ想像してみる。

でも、そんなの初めから決まっていた。

私だけの主人公。

駆けっこにはあまり向かない低身長の君だよ。



私は京くんの姿を思い浮かべる。

彼は背も低いし、駆けっこも速くない。

たまに一緒に登校することがあるけれど、いつも不機嫌そうにしている。

近所のおばさんに挨拶されても、返事すらしない。

そんな時、「挨拶くらいしようよ」とお姉さんっぽく言ってやる。


「ちっ、うっせぇよ」

返す言葉はいつもこう。


「あいさつすら出来ないなんて、“子供みたい”」

だから言ってやる。


ピタリ。

京君の足が止まる。

フフン。

私は京くんが一番気にしていることを知っている。

それは、自分の背丈が低いことを“気にしている”って他人に気付かれてしまうこと。

カチンときたので、そこをチクリと突いてやる。


「……」


京くんはしばらく黙って私を睨んだ後、ちょっぴり泣きそうな顔をした。

でもその理由が私には分らなかった。

ただ京くんの深いところに触れてしまった気がして、なんだか心がモヤモヤした。


私は自分の容姿にコンプレックスなど何一つなかった。


☆-----☆-----☆-----


「蓮華のステータス」

1,命の残り時間  :5年間と9か月

2,主人公へ向けた想い :初恋レベル

3,希望        :★★★★★

4,得意分野      :かけっこ

5,不得意分野     :人の気持ち


☆-----☆-----☆-----




4節、劣等感(ヒーロー)と優越感(ヒロイン)



カツカツ、カツカツ。


先生の板書の音がカツカツ響く。

黒板を見ると、まだ男子アンカーは決まっておらず、皆、ざわざわとしていた。


「はい、先生」

すると後方に座っている男子が手を挙げた。

「お、飯山君、誰か推薦するの?」

彼はすっと立ち上がると、冷たい表情でこう告げる。


「いえ、違います。えっと、さっきから、天川君が机の下でずっと漫画読んでいます」


しーん。


一瞬にして教室が静まりかえる。

天川京一。

天川とは、京くんの苗字のこと。


「チッ……」


京君は迷惑そうな顔で彼を睨みつけた。

私の背中にきゅっと力が入る。


「はい。天川君、漫画読んでるって本当?」

張りのある先生の声が教室に響く。

「べつに」

「はぁ、あのね天川君。今みんなでリレーのメンバーを決めているの。君達のことよ、どうしてそんな態度をとるの?」

けっして威圧的でない。

でも沈黙のまま終わらせない強さが滲む。


「べつに、僕は興味ありません。リレーも運動会も、クラスの皆にも」

「天川君!」

心臓がドキンってするほどの大きな声。


「どうしてあなたはいつもそうなの? みんなで決めてるのよ、みんなのことよ、そんなにクラスのことに興味がないなら一人で廊下に立ってなさい!」


厳しく告げられると、京くんはガタンと椅子を引いて教室を出ていった。

ガラガラ、パタン。

扉を閉める音が静かな教室に響く。

皆の話し声はピタリと止んだ。


どうしよう……。

私は、京くんのために何か言いたいと思った。

ふと言葉が浮かぶ。


「……先生、あの、天川君はその、お母さんいないから、たぶん運動会……嫌いだから」


最後は消え入りそうな声になる。

先生は私の言葉にハッとした。


「そうだったわね。だからあんなに不機嫌な態度をしていたのね」

それからハッキリとした言葉で告げる。


「でもね、ここは学校なの。いろんな境遇の人たちが集まって、みんなで学ぶところ。私は先生として、天川君に厳しく言わなければいけない。大丈夫よ、彼には後で先生からしっかり話しておくから。今は残りの選抜メンバーを決めましょう」

厳しい表情を崩して元の落ち着いた顔に戻る。


「はい、じゃぁ残りのメンバーを決めましょう。誰かいない?」

「……」


私は今嘘をついた。

確かに京くんのおうちにお母さんはいない。

でもそれが、あんな態度を取った本当の理由じゃない。


お母さんは、もうずっと昔、4年くらい前に亡くなっている。

京くんはそのことをとっくに心の中で消化している。

京くんがあんな態度をとったのはもっと別の理由。



そう。

小学生の脚の速さなんて、特別に走り方のレッスンを受けていない限り、背の高さや脚の長さで決まるんだ。

京君の背丈は男子の前から2番目。

京くんはとっても脚が遅かった。


嫌なんだ、きっと。

自分が選抜メンバーに選ばれないって現実を、みんなの前で突きつけられてしまうことが。

物凄く負けず嫌い。

リレーなんて一瞬で終わってしまうし、そんなコト気にしなければいいのに。




しばらくした後、窓際に座っている男子が手を挙げる。

「はい、先生、男子のアンカーは天川君がいいと思います」


「え……?」


私は耳を疑った。

どうして今の流れで京くんの名前が挙がるのだろう?

京くんは脚が遅いし、運動神経だってあんまり良くない。

選抜メンバーと一緒に走れば、次々に追い越されて順位を落し、きっと最下位になってしまう。


「あ……の……」

私は何かを言おうとして、言葉が出ずに口をぱくぱくさせた。


「いいんじゃない。あいつに走らせようぜ。自業自得ってことで」

あちこちから、みんなの囃し立てる声がする。

京くんを馬鹿にするのは男子達だ。


「え~っ、天川くん? それじゃ勝てないじゃん。アイツ脚遅いよねぇ?」

女子の声はほとんどが彼を嫌がる声。

でも最後には男子も女子も合わさって面白おかしく囃し立てる。


「いいじゃん、恥かかせちゃえ。琴野まででトップ取っておいて、アンカーのアイツでビリッケツにさせようぜ!」

「あ、それ面白そう! 賛成! 賛成!」


教室のあちこちで、ここにいない京くんを馬鹿にし始める。

廊下に出されているとはいえ扉は薄い。

きっとみんなの声が聞こえているはずだ。

京くんを追い詰める会話が、彼のいない教室でどんどん広がっていく。

誰も止めようとしない。



チリッ!



私の中で火花が散った。

なんで?

ねぇなんで?

火花が目の前でチカチカする。

先ほどまで、京君との空想に耽っていたからだと思う。私はクラスの皆の反応が理解できない。


蓮華「ねえっ!」


ばんっ!

私は机を叩いて突然立ち上がった。


なによ!

どうしてよ!

みんなどうしてそんなこと言うの?!


私の心が勝手に先に進んでしまって、頭の中にある気持ちを上手く言葉にできない。

立ち上がってはみたものの、相変わらず口がパクパクするだけだ。

それなのに次々と気持ちが溢れ出して息苦しくなる。


ポロリ。

涙が零れた。


あれ……?

なんで?

今度は、自分自身に疑問をぶつける。


私、泣いてる?


別に泣きたくないのに、涙が出てしまったことが不思議だった。

頭の中にある圧迫感が、涙を無理やり押し出してしまったのだろうか?

先程までの夢想と相まって、私の感情が高ぶっている。

ここは泣くところではないし、怒るところでもない。

頭の中で分っているのに、感情が抑えこめない。


「みんなっひどいよっ、天川君が走るの苦手なの知ってて、そんなに嫌いなの? みんなそんなに天川君が嫌いなの? 天川君推薦した人誰よ! だい嫌いっ!」


涙が出た理由も分からないまま、心の中にある気持ちに従い叫ぶ。

そうすることで、ますます感情がコントロールできなくなってゆく。

私の突然の泣き声に女子達は驚いた。

男子達は困惑した。

知るもんか。

彼を馬鹿にしたみんなを許さない。


突然大声をあげて、そして涙を零した私にクラス中が注目した。

教室の中は、誰も私語をすることなく、しぃんと静まり返っていた。


この日、終礼は委員長である私の挨拶が無いままに終わった。

帰り道のことをよくは覚えていない。

ただ、何人かの女子が私のところに来てくれて、泣きながらゴメンって言ってくれた。

すごく辛そうな顔をした男子が何人もいた。


結局、リレーのアンカーはクラスで一番脚の速い須藤君に決まった。

明日から放課後の練習が始まる。京君のいないメンバーで。



後に私は知ることとなる。

クラスの大半の男子が私のコトを好いていてくれたこと、大半の女子が心に秘めたそれぞれの想いを私に踏み潰されていたことを。

それなのに私が一度も女子からのイジメに遭わなかったのは、罪深いほどに優れた容姿があったからだ。


私は泣きながら、本当は、気持ちよかった。

泣いて叫ぶことで、気持ちがどんどん高ぶっていった。

なぜなら、私だけが京くんの味方をしていたからだ。

クラスの皆が京くんを嘲笑して、私だけがそれを否定する。

あの瞬間、その構図が確かにあった。


私は京くんを独り占めした気持ちになれた。

私の心の中に気づく人は誰もいなかった。

そして、廊下に一人立たされた京くんの気持ちにも気づかなかった。

後に私は強制的に思い知らされることになる。


私が触れてしまったモノは、京くんの心の奥深くに眠る大きな大きな劣等感だった。


☆-----☆-----☆-----

「蓮華のステータス」


1,残り時間    :5年間と9か月

2,主人公へ向けた想い :初恋レベル

3,希望        :★★★★★

4,得意分野  :かけっこ、ぶりっこ

5,不得意分野 :主人公と皆の気持ち

☆-----☆-----☆-----




5節、バレンタインデー



その年の冬、日曜日の夕刻のことだ。


「ねぇ蓮華、あなたは誰かに渡すの? チョコレート」

しんしんと雪が降り積もる日曜日の夕刻。

「え……チョコレート?」

「そ。そろそろバレンタインでしょ?」

「あ……そっか」


そういえば最近チョコレートのCMが多い気がする。

お母さんと一緒に買い物に行くと、スーパーマーケットでもデパートでも、チョコレートの賑やかなコーナーが目に留まる。

もうすぐバレンタインデーか……。


私だってその日が特別な日だってことくらい知っている。

女の子が好きな男の子にチョコレートを渡す日。


「蓮華がチョコレートを渡す相手はもちろん僕だよね? 蓮華」

お父さんはテレビから視線を外すと、膝を抱えて体育座りする私を見つめる。

お笑い芸人が司会する音楽番組では、綺麗なお姉さんがリズムに合わせて腰をクネクネさせていた。


「はぁ? 何言ってんの? アンタに渡すとすれば義・理。血のかた~い絆で結ばれた義理のチョコレート。それとは別に渡す人いるもんね~蓮華。好きな人いるんでしょ?」


キュッキュッ、ことり。

丁度洗い終えた食器を食器棚に並べられている。


「うん……」

好きな人。

います。

頬がかぁーっと熱くなる。


「あのね、お母さん、売り物のチョコレートじゃなくて、手作りのチョコレート作ってみたいの。作り方教えて」

私は体育座りを崩すと、ソファの背もたれにお腹を乗せて身を乗り出す。


「そうねぇ、原材料から作るのは大変だから、市販の板チョコを溶かして、好きな型に固めてみるのがいいかも。それなら簡単よ」


「うん……」

型に流し込むだけ。

ちょっぴり手抜きな感じもするけれど。


「あとで成城石井にでも行ってみる?」

「うん」

「気持ちが通じるといいわね」

「う……」


気持ち。

通じる?

通じない?

どっち?


「お風呂に入って来る」

じっとしていられなくなった私は、逃げるようにお風呂へ向かった。



☆------☆------☆------☆------☆------



かぽん、こん

湯船の中に、かろうじて鼻から息が出来る程度まで深くつかると、ふぅ~とため息を漏らす。


「バレンタインデーかぁ……」


チョコレートを作ることにはしたものの、私、本当に渡せるんだろうか?

この日に、チョコレートを渡すのは相手に「好き」と告白することに等しい。

いつ、どういうタイミングで、何と話しかけて渡せばいいんだろう……。

その一部始終を想像すればするほど、身体がギュッと固くなる。


そもそも、最初はなんと声かければ良いのかも分からない。

頭の中で想像しながら、その時のやり取りを練習してみる。

湯船につかったまま、放課後の場面を思い描く。

彼が教室に一人残っていて、ランドセルに教科書を詰め込んでいるところだ。

そこで、背中越しに話しかけてみる。


「あ、あの京くん、今ひま?」


う~ん。

なんか「ひま?」って聞き方はすごく失礼な気がする。

ひまって聞く時って、相手が“暇だ”と答えてくれることを当たり前に思ってしまっている。

ウザイって思われるかも……。


こんな話かけ方じゃダメだ。

恥ずかしさをちゃんと我慢して伝えなきゃ。

湯船の中で両手をぎゅっとする。

失敗は許されない。


「あの、京くん、……ちょっと、いいかな?」


駄目。

いいかなって私何様?


「あ、あの、京くん、……お話したいコトがあるんだけれど、今、ちょっといいかな?」


う~ん、まだ駄目。


「あ、あの、京くん……お話したいことがあるんだけれど、もしよかったら、一緒に、帰ってもらえないかな?」


う~ん60点。


こぽり。

顔を半分まで湯船につける。

ほっぺが赤い。身体が火照って熱い。

湯あたりだろうか?


「京くん……好き」


かぁっっ!!

ただでも火照った身体とほっぺたが一気に茹で上がる。


「やっぱだめぇっ~~! 好きなんか言えないっ! 絶対に言えないっ!」


湯船の中で茹でダコになった私は、ザバァと音をさせて立ち上がる。

お湯の蒸気が満ちているお風呂場は、お湯から出ても暑いままだ。

私は、タイルの上に座ると、膝を抱えてため息をついた。

「はぁ~」

お湯から出たばかりの身体から湯気が立ち昇る。

白い小さな粒たちは、私の不安が漏れ出したかのように、ユラユラと室内を揺蕩う(たゆたう)。


世の中に恋人たちはきっとたくさんいる。

元恋人だったお父さんやお母さんみたいな人たちもいっぱいいる。仲良くなった後だったら、みんな平気で“好き”とか“愛している”とか言うのだろう。

でも……。


そんな気軽に言い合える前はどうなんだろう?

まだ他人同士だった時から恋人の関係になる瞬間って、きっと“好き”という言葉がお互いの口で交わされたはずだよね。

それは、どんなに慣れ親しんだ恋人同士でも必ず通った、ちょっぴり恥ずかしい儀式のはずだ。

私は再び湯船につかると、顔を半分までお湯に沈めた。


「びんば、ぶぼいばぁ……(みんなすごいなぁ)」


こぽこぽ。

湯船につかったままの口元から気泡を漏らす。

初めての告白のイメージは、私にとってとても敷居が高く、恥ずかしく、でもとっても尊く、気品に満ちていた。

「チョコレート、ちゃんと受け取ってもらえるかなぁ」


はぁ~。

湯船越しに漏らしたため息は、水気をたらふく纏って、湯船の外の冷たいタイルに吸い込まれて消える。


☆-----☆-----☆-----

「蓮華のステータス」


1,残り時間    :5年間と5か月

2,主人公へ向けた想い :初恋レベル

3,希望        :★★★★☆

4,得意分野      :変化なし

5,不得意分野     :変化なし

☆-----☆-----☆-----




6節、緊張、焦燥、そして真っ白



2月14日晴れ、気温1度。


その日は朝から教室がなんとなく落ち着かない。

女子たちはいくつかのグループに別れて、ひそひそ話をしている。

男子たちは落ち着いた振りをしながらも、どこかソワソワしている様子だ。



「はぁ~い、あんた達、さっさと席につきなさ~い。朝礼の時間よ~、う~っ、しばれるなぁ」

飯野先生が、両手をほっぺたに擦りつけながら教室に入ってきた。


「起立、礼、着席」

毎朝の決まりの挨拶の号令を済ませ、私は真っ直ぐに背筋を伸ばす。

昨日はぜんっぜん眠れなかった。

遅くまでお母さんと一緒にチョコレートの型取りをしていたからってこともある。

でも、単純に緊張して眠れなかったのだ。

身体は重いし、頭もボーっとしている。

でも、そんなの関係ない。

私は今日、伝える。

京くんに“好きです”と伝えます。

これまでの私の中でもっとも気に入っている顔と態度と言葉でね。


だから、神さま、少しだけ勇気をください。

この震え続ける身体を一瞬でいいから、私の意のままに使わせてください。

背筋を糺した姿勢で、まっすぐに黒板を見据え、両の耳で先生の言葉を一言一句聞き取りながら、私の頭の中は真っ白だった。



「ねぇ、蓮華、あんた誰かにチョコ渡すの?」

昼休み、給食を食べ終え食器を片付けていた私に梶原さんが話しかけてきた。

おかっぱ頭の可愛らしい人だ。

「え?」

食器籠へ器を戻そうとしていたところで指先がツルンと滑る。


カラン。


器を床に落ちて、乾いた音が教室に鳴り響いた。


し~~ん。


辺りが静まり返っている。

あ、あれ?

何となく教室の皆が私に注目しているのは気のせいだろうか?

今、声を出せば教室の隅々にまで響き渡る気がする。


カタン。

教室の後ろの掃除用具入れの中で、ほうきが倒れ、柄が横壁にぶつかる音がした。

普段は聞き取ることが出来ないくらいに小さな音なのに、今は聞こえる。

スゥ、ハァ、スゥ、ハァ。

私は呼吸の音すら、皆に聞かれているのではないかと感じた。

居心地の悪い空気に押されるままに、私は梶原さんの質問に答える。


「え、まぁ。え~と、そりゃあ……ね?」

何が「ね?」なのだろう。

自分で言っておきながら、変だと思った。

でもこんな返事になってしまったのは、その話題を私に振って欲しくないからだ。

私は誰にも知られることなく、そっとコトを済ませたい。


しぃ~ん。

辺りは静まり返ったまま。


「アッハ、蓮華やっぱあんたも渡すんだ~」

梶原さんに背中をバンバンと叩かれる。

「えぇっとじゃあ、蓮華が誰に渡すか当ててあげよっか?」

ニヤりと意地悪な笑みを浮かべている。

「……う」

私は言葉を詰まらせる。

まさか、梶原さんに好きな人を知られているとは思えない。

でももしもバレていたらどうしよう?

突然の不安に息苦しくなる。

このまま皆の前でバレたらまずい。


「じゃ~ん! 琴野蓮華さんがぁ~、チョコをぉ~、渡すのわぁ~」

わざとらしい、ゆっくりとした喋り方。

私は焦った。


「え、え?」

いや、ちょっと待って!

慌てる私をよそに、梶原さんは教室中に声を響かせた。


「須藤君でぇ~すっ!」


ズルっ……。

私は思わず後ろ向きにズッコケそうになる。

いや、ちがうちがう。

呆れた顔で手の平をパタパタと振る。


「へ?!」

すると、教室の端っこにいた須藤君がびっくり仰天している。

「梶原さん、もう!」

私は困った顔で彼女を睨む。

でもその瞬間、私は固まった。

……。

先程落とした給食の器は、まだ教室の床でひっくり返ったまま。

私は器を拾い上げることもできずに、その場に立ち尽くした。


梶原さんは、言葉で伝えることが難しいほどに複雑な表情をしていた。

楽しそうな顔なのに、それを壊さないよう、悟られないよう、密かに泣いている。

うまくは言えないけれど、そんな表情なのだ。

……。


しまった。

私は気づく。

私は梶原さんの好きな人を知っている。

そっか……。

彼女は敢えて“私の好きな人が須藤君”だと告げたのだ。

その後の須藤君の反応を見ることで、須藤君の好きな人が“私以外であること”を確認したかったんだ。


梶原さんは須藤君のことが好き。

彼女も私と同じように一人で想い悩み、悩んだ末に今日を迎えていたんだ。

緊張していたはずだ。

授業など耳にすら入らなかったはずだ。

それなのに、その想いが今、この場所で踏み躙られたんだ。


須藤君はずっと私のことを見つめている。

その表情を見れば、彼が誰を好きでいるのかなんて皆気づく。


“想いは届かない”


残酷に横たわるその結論が、梶原さんの心の中できっと吹き荒れている。

彼女は苦しい気持ちを必死に笑顔で隠している。

背中をポンと叩けば、その場にガラガラと崩れ落ちてしまうだろう。


チョコを誰に渡すのか?

そう聞かれた時、私は「誰にも渡さない」と答えるべきだった。

そうすれば、梶原さんの次の言葉を封じ込めたかもしれない。

須藤君があんな反応を返すこともなかった。

彼女も辛い思いをせずに済んだ。

でも……。

……。


辛い思いをせずに済む?

本当だろうか?

……。

違う。

違うよ。


須藤君が梶原さんからの告白を断ってしまえば、いずれは辛い痛みが訪れた。

だって須藤君はいつも私のことばかりを見つめている。

私は彼の気持ちに気づいている。

梶原さんが須藤君のことを気にしていることだって知っている。

でも、私は二人の気持ちに気づかない振りをした。

だって梶原さんにも須藤君にも私は興味が無かったから。

……。


私は途端に不安になった。

自分の心の中の、とても醜い部分を覗き込んだ気がした。


「頑張ってね、蓮華……」

梶原さんは笑いながら呟くと、寂しそうに自分の席に戻っていった。

床に落とした食器を拾い上げると、残りの食器を片付けてから、誰とも会話することなく自席につく。

普段は喧騒の溢れる教室が、今日ばかりはシンと静かだった。


京君はどこに行ったのだろう、教室に姿はなかった。



昼休みが終わり

五時限目の算数の授業が始まって、終わる。

六時限目の社会科の授業が始まって、終わる。

そして終礼を迎えた。



時計の秒針が回転するごとに、私の不安と緊張は高まっていく。

気持ちを上手に心の中で処理できないまま、ここまで来てしまった。

でも、ちゃんと伝えなければ。

例え梶原さんを傷つけたように、他の誰かを傷つけることになったとしても、私は決めたのだ。


今日、告白する。

それを揺るがしてしまっては全てが駄目になってしまう。

「ふぅっ……」

ひとつ大きな息を吐いて凛と背筋を伸ばす。


「起立、礼、着席」


終礼の合図を済ませ、先生からの伝達事項を待つ。


「えーと、来週から六年生を送る会の練習が始まります。贈る言葉を記したプリントを配るから、各自家で一度くらいは見ておくように」

先生は淡々とホームルームを進めていく。

私は上の空だった。

ただ何となく周りの雰囲気と、先生が終わりを告げるために私を見たことで終礼を察知した。


「起立、礼、さようなら」

そう告げて終わる。

とうとうその時は、来た。



皆、帰り支度でワサワサとしている。

チョコレートを渡す相手がいる人は、それとなく、その人の机に行って、「ねぇ、○○君、ちょっといいかな?」などと恥ずかしそうに声をかけている。

私はというと、教室で京君に声をかける勇気がなかった。

だから、そそくさと教室を出てしまっていた。


京くんの帰宅ルートは当然知っているし、校門を出る時間帯も知っている。

下駄箱の外で待っていよう。

そうすれば誰にも見られない。

京君の周りに誰もいなければ、そこで声をかければいい。


冬も終わりに近い夕暮れ。

太陽は校舎の影に隠れ、冬の雲をすり抜けた光は、赤を強め、あたり一面を弱々しく照らす。

校庭のあちこちに残った雪は、泥で茶色く汚れ、カチカチに固まっている。

それが実際の温度以上に寒さを強調していた。


「えみちゃん、ばいば~い」

「さよなら~」

みな思い思いの言葉を告げて、校舎を後にしていく。

「ばいび~」

「さいなら~」

一人、また一人、校舎を後にしていく。


ドクン、ドクン、

胸が強く鳴っている。


「さとちゃん、ばいばぁい」

「うん、ばいばぁい」

一人、また一人。

ドクンっ、ドクンっ

胸の音が徐々に大きくなっていく。


「お~し、けん坊、部活行こうぜっ」

「おお~」

ドクンっ、ドクンっ

私の心臓が別の生き物のように大きく跳ねている。

内側から胸を突き破りそう……。


特に部活動をやっていない京君が帰宅するのはそろそろのはず。

ちらっと下駄箱のほうを覗いてみる。

人気はなかった。

行ける。

今ならきっと声をかけられる。


お願い!

京くん、出てきて!

神さま!

願いを叶えて!


ひゅーひゅーと、冬の冷たい風が吹き抜ける。

僅かに汗ばんでいた背中が冷やされ、身震いする。

ただでも緊張して硬くなった身体。

寒風に吹かれてカタカタと震えが止まらない。

寒さで足のつま先に感覚は無く、スカートからはみ出しているふくらはぎ、太股からお尻、腰の辺りまでもがカチコチになる。


頭の中は、先週からずっと練習してきた、声かけ方でいっぱいいっぱい。

指先も冷たい。

チョコレートを包んだ紙袋を上手く取り出せるかすら怪しいほどにかじかんでいる。

それでも構わない。

一刻も早く、私は、この、どうしようもないほどの焦燥から解放されたい。



ドキンっっっ!



圧迫された私の心臓が、とびきり大きな音で跳ね上がる。

来た。

誰もいない下駄箱に、京くんが一人で来てくれた。


ドキンっドキンっドキンっドキンっドキンっドキンっドキンっ!


私の心臓が耳に聞こえるほどの音を鳴らして周期的に跳ねている。

目の前がクラクラしてくる。

視線の覚束ないまま、私は下駄箱の方へカツカツと進む。

みょうにぎこちない歩き方になる。


1メートル先に京くんがいる。

このまま何も話しかけなければ、きっと私は変な人と思われる。


カチリ。

小さな音を立てて、私の心の中でトリガーが落ちた。


「あっあのっ! 京くん、今、ひまっ?」


唐突に切り出してしまう。


☆-----☆-----☆-----

「蓮華のステータス」


1,命の残り時間    :変化なし

2,主人公へ向けた想い :初恋レベル

3,希望        :★★★★☆

4,不安        :★★★★☆

5,得意分野      :自意識

6,不得意分野     :告白

☆-----☆-----☆-----




7節、最高の容姿を持った最低のヒロイン



しまった……。


「ひま?」といきなり告げることをあれ程避けようと思っていたのに……。

私の口から漏れ出た言葉は、練習の甲斐もなく、最悪のものだった。

事前練習なんてまったく意味がない。

事に臨んで、初めて気づく。

それくらいに私は緊張していた。

それでも私は期待した。

この先の展開に。


靴を履き終えた京くんが私を見上げる。

くる!

私は次にかける言葉を頭の中で探した。


「チッ、なんだよお前。まだ帰ってなかったのかよ」

「……え?」


……。

一瞬、時間が止まった気がした。

あからさまに不機嫌な顔をされたからだ。

予想すらしていなかった投げやりな返事に私は戸惑う。

想定外の展開。

頭の中が真っ白になる。

カチコチになった足が棒のようになって立ちつくす。

斜陽の弱々しい光を受けながら、私の影は校舎の玄関口にまで達している。

その長く伸びた影は、文字通り“棒”に見えた。


私は、今、何をしているのだろう?

緊張とかじかむ寒さのために、上手く思考が繋がらない。

そんな余裕のない私に向かって、京くんは鬱陶しい者でも見るかのように陰気な顔をした。


「どけよ、邪魔」

「!」

カチンっ!


ぶっきらぼうと言うには余りに酷い京くんの態度に、寒空の下、針の落ちる音にすら敏感になっていた私の神経が火花を散らした。


「そ、そんな言い方しなくてもいいじゃない! 私、京くんに用事があったから残ってたのに!」

思わず声を荒げてしまう。

どんな理由があるにせよ、不機嫌な相手に向かって声を荒げてしまうのは間違い。

霜焼けで真っ赤の手のひらを、氷水の中に突っ込むようなもの。


「はぁ? 僕はお前に用事なんかないよ」

感情の読み取れない京くんの冷たい声が、私を疎んじている。

それが信じられなかった。


どうして?

ねぇどうしてそんな嫌そうな顔をするの?

今の私には、京君の冷たい態度を冷静に受け返せるほどの余裕なんてない。

それなのに何でそんなに冷たいの?


心の中を色々な思いが駆け巡る。でも、私の口からは何一つ適切な言葉が出てこない。

こういう場面でどう切り返せば良いのか、正解が私の引き出しの中に無かった。


「なんでそんな言い方するかなぁ……」

苛立った。

おかしい。

何かおかしいよ。

こんな展開になるはずじゃない。

それなのに。


「なんでって何だよ? そっちが勝手に待ってただけだろっ」

チリッ!

京くんの冷たい言葉に苛立ちの火花がチリチリと混じり始める。

それが信じられない。


「勝手にって、勝手に待ってたら悪いのっ? 用事があって待ってたら悪いのっ? 私が京くんに話しかけたら何か悪いコトでもあるのっ?」


ちがうっ!

そうじゃない!

私はそんなこと言いたいんじゃない!

なんで言えないの?!

なんで聞いてくれないの!?


「悪い悪いって何だよっオマエっ」

ひと際大きな声で怒鳴られてしまう。

「そ、そんなっ……」


ちがうちがうちがうちがうっ!!


私はこんなこと言うために待っていたんじゃないっ!

こんなこと言いたいんじゃないっ!

どうしてちゃんと言えないのっ?

どうしてちゃんと聞いてくれないのっ?


「なによっ! もっと普通に『何?』って聞いてくれてもいいでしょっ?」


そこまで告げて、私の口元が、ニィ、と厭らしく歪む。



マズイ……。



太ももの裏側を蚯蚓のような生き物がウゾリと這い廻る。

私は止まらない。止められない。

苛立つ心をコントロールできない。


「それともぉ、京くん、なぁにぃ~? もしかしてアレなのぉ~」


私の声にとても厭らしい色が混じり込む。

いやだ……、止まって。

お願い、止まって。

分かっていながら自制が効かない。


「バレンタインなのにぃ、誰からもぉ、チョコ貰えなかったのぉ?」

気持ちに反して、かじかむ口元が勝手に嫌味な言葉を吐き出し続ける。

それも本当に厭らしい言い方で。


「それでぇ~なんかぁ~ふて腐れて怒ってんのぉ?」

止まらない。

「京くん、格好わる~い。なんかぁ子供みたぁい、アハハハ」

止まらない。

どうして?

自分のことが理解できない。

私は、今、この場で、最も言ってはいけない言葉を吐き出そうとしている。

だめ、本当にダメ。それだけは言っちゃだめ!

それなのにどうして!

私は私の言葉を止めてくれないの!

なんで?

ねぇ、どうしてよっ?


「アレだよねぇ? そんなんだからぁ、君はリレーの選手にも選ばれないしぃ、先生にも怒られるしぃ、友達だってあんまりいないんでしょぉ?」


止まらない……。

私はどうして京君にこんな嫌味を言っているのだろう?

告白するつもりだったのに!

好きですって言うつもりだったのに!

あれほどお家で練習してきたのに!

どうして?!

ねぇ!

ただ心の奥の奥が疼いて苛立ち止まらないし、止められない。

ただ、“好きです”と伝えたいだけなのに、心の中に充満した苛立ちがそうさせてくれない。


「ほぉ~んと、格好悪い自分を棚にあげて人を責めるなんてっサイっテー」


私は、京くんを徹底的に追い詰める言葉を浴びせながら泣きそうになっていた。


「知ってるぅ京くん。クラスの女子がぁ、バレンタインでチョコ渡したく“ない”男子の一番が君なんだよ? みんな、言ってるよぉ。天川京一って、チビで、ハニワみたいな顔してるって! アハハハっ! ハニワだって! ダッサぁ! アハハハ」


チガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウっっ!


どれだけ彼を小馬鹿にすれば気が済むのだろう?

どれだけ彼を辱めれば気が済むのだろう?

どうすれば素直な気持ちを取り戻せるのだろう?

私は、その答えを知っている。

“本能”に反して、彼を馬鹿にし、辱めているこの私を鎮め慰めてくれる瞬間を。


それは京くん、君が「僕も君のことが好き」そう言ってくれる瞬間なんだ。

そして私にはその勝算があった。

なぜならば、私は私の容姿を正しく認識している。


「モテナイね? 君(だから私が告白してあげる)」

芯の腐った私の舌の根が、その最後の言葉を吐き出そうとした。

私はその言葉を無事に言い終えることはできなかった。



ズガンっっっ!!!!!!!!!!!!!



突然、目の前で火花が散った。

最初は何が起こったのか分からなかった。

ただ寒さで凍えていた頬と唇と鼻頭に鋭い痛みが走り、身体は後ろに倒れて尻もちをつき、手提げ袋の中からは、渡すはずだったチョコレートの包みが乱雑に飛び出していた。


え? え? え?


頭の中にクエスチョンマークがいくつも浮かんでは消えてゆく。


「え?」


私の口から小さく音が漏れる。

氷のナイフで切り裂かれたような感覚が残る。

唇がじんじんと痛む。

殴られた……の?

わたし?


そう理解し終えた直後、私は、これまでのスベテが破壊されてしまう、とても辛く苦しく悲しい言葉を浴びせられた。

他でもない、私が世界で最も好きな京くんの口から。


「しねっ! ブスッ! オマエが寄ると“おしっこ”クセェんだよっ! いつも威張ってるけど知ってんだぞっ! オマエ寝る時まだオムツいるんだってなっ? おばちゃんが買ってるの見たモンね!汚ったねぇー、パンツぬげよっ、黄色い染みがついてんだろ、ブスっ!」

「なっ?!」


その瞬間、私の脳裏に雷鳴が走る。

それは、たった今京くんに殴られたという事実すらも消し飛ばすほどの衝撃だった。


「……なに、それ」

「お前、知らねーのかっ? 普通は寝るときも学校行くときも同じパンツ履くンだぞっ!」


何……それ?

オムツって何?

京くん、何を言ってるの?

みんな寝るときには分厚いパンツを履くんじゃないの?


頭の中が真っ白になる。何も考えることができない。

何も分らない。

でも私には、絶対に他人に知られてはいけない恥ずかしいことがあって、それを京くんに知られていて、今そのことで罵られている。

それだけは分った。


瞬間的に、お父さんとお母さんの顔が浮かんだ。

「蓮華、ちゃんと“かぼちゃパンツ”履いた?」

私が毎晩お布団に入る前、お母さんは必ずそう聞いていた。

かぼちゃパンツ。

その名の通り、見た目がかぼちゃみたいに丸くて大きなパンツだ。

その中でオシッコを漏らしても、けしてお布団を汚すことがない。


私位の年齢の子は皆、夜、寝るときにこれを履く。

ずっとそれを当たり前のことと思っていた。

だから誰にも言ってないし、誰も知らない。

夜、寝ている間にオシッコをしてしまうのは、とても恥ずかしいことだけれど小学生の歳なら当たり前のことなんだろう、そう思っていた。


「お前知ってるか? クラスの女子が時々お前のそばに行くとオシッコ臭いって言ってんの」

「え……?」

何それ……。

そんなコト、知らない……知らないよ……。

殴られたとき以上の激しい衝撃に襲われる。


「やっぱ学校にもオムツ履いてきたほうがいいんじゃねーのクラス委員長さんはさあ」


この頃には、もう京くんが何を言っているのか解らなかった。

解りたくなかった。

私だけ知らない事実があって、それは女の子としてとても恥ずかしいことで、けれども絶対に知られたくない人がそれを知っていて、今、そのことで罵られている。


私の顔は真っ青だった。

背中の汗は完全に乾き、代わりに体中を嫌な脂汗が伝う。

口の中はカラカラに乾いて、目の奥は重くて痛くて、鼻から伝わる下駄箱の匂いが全部私のオシッコの臭いに思えて、ショックで、悲しくて、辛くて、恥ずかしくて。


「だいたい女のクセに背がデケェんだよっ! オマエほんとは男なんだろっ? 汚ねぇパンツぬげよっ! しょんべん男女! 気持ち悪ぃんだよっ」


ダンっっっ!!!


私は目を力いっぱい閉じたままに駆け出した。

転んだってかまわない、ぶつかったってかまわない

光を見たくない、もう、こんなに醜い私を映し出す光の中にいたくない!

下駄箱に背を向けて必死に駆け出した私の背後から止めを指すように言葉が発せられた。



「二度と話しかけんなっ! ブスッ!!」


何も覚えていない。


空の色も空気の温度もすれ違った人もすれ違った車もバイクも自転車も、帰り道をどのようにして走ってきたのかさえ覚えていない。

ただ、殴られて重く痛みの残った唇と、切れそうな程に冷え切った頬と耳たぶと身体が、自宅の玄関を開けて「お帰りなさい、蓮華」そういつものように優しく迎え入れてくれた母に対して爆発した。


泣き散らした。泣き喚いた。泣き叫んだ。

わんわんと泣き叫びながら、母を罵った。

私に事実を教えてくれなかった母を罵った。

胸をドンドン叩いて泣き叫んだ。


どうしてっ!

どうしてっ!

叫びながら泣き叫んだ。

許せなかった。

この事実を隠していた母を、父を、そしてなにより恥ずかしい私自身を。


これまで育て上げてきた私のプライドと呼ばれるものは、この日、砕け散った。

母は、そんな私の頭を抱きかかえるようにして、ただ、ただ、優しく、どこまでも優しく、この髪を梳いてくれていた。


私は、最高の容姿をもった、最低の女の子だった。



☆-----☆-----☆-----

「蓮華のステータス」


1,命の残り時間  :5年間と5か月

2,主人公へ向けた想い :初恋レベル

3,希望        :☆☆☆☆☆

4,不安        :★★★★★

5,絶望感       :★★★★☆

5,得意分野

  :自意識、嫌味、逆

6,不得意分野     :素直な告白

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