第2話 はじまりの町で、名もなき魔女は歩き出す
森の小径には、朝露がまだ残る。靴の裏が少し湿るたび、アリーシャは慎重に足を進めた。
「……結構、歩いたわね」
陽はだいぶ高くなり、体にまとわりつく魔力の重さも、さっきよりは薄れた気がする。
とはいえ、転移と「久遠の刻契(くおんのこくけい)」の反動から完全に回復したわけではない。魔物に襲われてもまともに戦えないだろう――アリーシャはそんな不安を抱えつつ、ちらりと脇道の藪をうかがった。
魔道研究者として鍛えてきた知識を総動員し、雑草の中から薬草を探しては簡単なポーションを作りつつ進む。
「小癒の薬湯(しょうゆのやくとう)……こんなもので多少の怪我は癒せるはず」
呪文の名を軽く口にし、摘んだ草と携帯している特殊な溶液を混ぜる。すると、ほんのり水色に光る液体が小さな瓶の中で揺れた。
「うん、悪くない」
なにしろこの世界で生きていくには、お金も、寝床も、そして少々の治療手段も必要だ。アリーシャは研究室にこもりきりだった未来での自分とは違い、“実地で役立つ魔法や錬金術”を使って生活せねばならないのだ、と考えていた。
ふと、森の中に一羽の小鳥が鳴く。その声を合図にしたかのように、木々の向こうに街道が見えてくる。
「やっと……町に近づいたみたいね」
アリーシャが目を凝らすと、街道の先に城壁の一部が覗いた。高い塀と見張り台らしきもの――小規模だが、きちんと守りを固めた町らしい。
この時代では、魔物や盗賊の出没が珍しくない。過剰なほど厳重な関所を設ける都市や国もあるし、城壁を設ける町も少なくない。
「さて、どうやって入ろうかな」
まさか「未来から来ました」と言うわけにはいかないし、身分証など当然持っていない。ある程度は誤魔化して入るしかないだろう。
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城壁の門前に到着したアリーシャを待ち受けていたのは、いかにも厳格そうな守衛だった。
「通行証はお持ちか? 旅の者か?」
ごつい鎧をまとった中年の門番が鋭い目を向ける。周囲には、他の旅人らしき人々が数人並んでいる。
アリーシャは落ち着いた様子で微笑み、荷物袋を軽く叩いた。
「旅人です。ちょっと都会へ向かう途中に、こちらの町に立ち寄ってみようと思って」
できるだけ隙を見せずに言葉を選ぶ。今のアリーシャは、研究員風の地味な服装ではなく、どこか妖艶な雰囲気の漂う装いだ。やや大胆なスリットが入ったローブは移動中に邪魔ではないものの、男性の視線を集めやすい。
案の定、門番は目を丸くして彼女を一瞥した。しかし不審者というより、むしろ“どこの国の貴婦人か?”といった猜疑が透けて見える。
「……通行証がないなら、しばし話を聞かせてもらうが」
「は、はい。もちろん」
アリーシャが淡々と受け答えするうちに、門番の視線が微妙に下がり、ちらちらと胸元をうかがっているのがわかった。
――やりづらいな。
彼女は内心でため息をつきつつも、ここで反抗すれば余計な時間がかかりそうだ。
「一週間程度の滞在を予定しています。泊まる場所は探しているところで……」
「むむ……」
門番が何か言おうとしたそのとき、背後から軽い口調が割って入った。
「いいじゃないか、そんなに怪しい人には見えないし。ここで長々立ち止まられては道をふさぐ」
声の主は、若い兵士だ。門番よりもずっと若く、どこか人懐っこい笑顔を浮かべている。
「そうは言うがな、マルク。上からの命令で、怪しい者がいれば調べろと言われている」
「うーん……なら、俺が責任もって彼女を案内するよ。もしおかしなことがあれば、すぐに報告するってことで」
「ふん……好きにしろ」
門番が渋々うなずくと、若い兵士――マルクはアリーシャに向き直り、にこりと微笑んだ。
「ようこそ、ヴェルトナ町へ。オレはマルクっていいます。とりあえず中に入って、ギルドや宿の場所を案内しますよ」
思わぬ助っ人の出現に、アリーシャはほっと息をついた。
「ありがとう、助かるわ。……私は、アリーシャ・フェンブリックよ」
そう名乗った瞬間、マルクの表情が一瞬だけピクリと動く。“どこかで聞いたような”という仕草をしたが、それ以上は何も言わず、城壁の門をくぐるように促してくれた。
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城壁の内側は、思ったよりも穏やかな雰囲気だった。石畳が整備され、露店や商店が立ち並び、小さな子どもたちの姿も見える。
「いらっしゃい! 新鮮な野菜はいかがー!」
「はいはい、パンは焼きたてだよ!」
まるで戦争の影など微塵も感じさせない、平和な町の光景。アリーシャは懐かしさすら感じた。――かつて、未来の研究所へ引きこもる前の若い頃(まだ自分が少女だった頃)は、こんな町の市場を母と一緒に歩いた記憶がうっすらある。しかし、その記憶ももはや遠い昔だ。
「どうかしました?」
立ち止まったアリーシャを見て、マルクが不思議そうに首をかしげる。
「いえ、なんでもないわ。少し人の多さに驚いただけ」
「はは、それくらい平和ってことですよ。この辺りは異種族の襲撃も少ないし、交易も盛んで潤っているんです」
マルクは自慢気に言いながら、笑顔を向ける。門番と違い、彼は警戒心が薄いのか、人懐っこい性格のようだ。
アリーシャは改めて辺りを見回す。この町にしばらく滞在する価値はありそうだ。金銭が得られるような仕事を見つけ、同時に「未来の大戦の火種」を探る情報を集められれば、一石二鳥だろう。
「それで、宿についてだけど……」
そう言いかけた瞬間、どこからともなく大きな叫び声が響いた。
「いやあぁぁっ! 助けてえ!」
見ると、反対側の路地で、女性が叫びながら転倒している。どうやら鞄をひったくられたらしい。
よく見ると、目つきの悪い男が鞄を奪い、急いで逃げようとしているところだ。
「ちっ……スリか強盗か……!」
マルクは顔をしかめながら、腰の剣を引き抜こうとしたが、男は建物の影に隠れ、道をジグザグに走って逃げようとしている。
アリーシャはとっさに足を踏み出すと、手のひらで小さく魔法陣を描いた。
「……捕縛の糸環(ほばくのしかん)!」
青白い糸のような光が路地を駆け抜け、男の足元へ絡みつく。
「うわっ、なんだっ――」
男はバランスを崩し、そのまま顔面から地面にダイブした。鞄が宙を舞い、転がるように路地へ散らばる。
「うまく捕まえられる?」
「す、すげえ……」
マルクは驚愕の様子を浮かべながら駆け寄り、そのまま男を押さえ込んだ。他にも通行人や近所の人が集まり、「捕まえたぞ!」「またスリか!」と口々に騒ぎ始める。
アリーシャは呪文を解き、光の糸を消す。やがて青白い粒子となって空気に溶けた。
「大丈夫ですか?」
彼女は被害に遭った女性に歩み寄り、鞄を手渡す。
「は、はい……ありがとうございます……」
怯えた表情を浮かべる女性の手をそっと取り、その傷を確かめる。擦り傷や打撲はあるようだが、深刻ではなさそうだ。
「よかった……」
ほっと息をついたところで、マルクの声が飛んでくる。
「まさか……魔法を使えるんですか? それも、あんな咄嗟に……」
人々も同じく驚いたようにアリーシャを見つめている。しかも、その驚きには少し熱のこもった視線が混じっていた。――先ほどの“妖艶な美女の姿”が、さらに「魔法まで自在に操る得体の知れない存在」となれば、なおさら好奇と畏怖が入り混じるのも無理はない。
「こんなに上手に魔法を使えるなんて……貴族か、宮廷魔術師か何かかな?」
「でも、この町では見かけない顔……」
ひそひそと人々の噂話が耳に入ってくる。アリーシャは微かな困惑を覚えた。下手をすれば、ここで派手に目立ってしまったことが裏目に出るかもしれない。だが、それを恐れて見過ごすことはできなかった。
すると、マルクは興奮を隠せない様子でアリーシャの手を取った。
「す、すごい! こんな人が旅の途中で来てくれるなんて! ……あ、いや、変な意味じゃなくて……」
顔を赤くして慌てる様子に、アリーシャはつい苦笑する。
「大したことないわ。ちょっとした魔法の練習……くらいのものよ」
軽く流したつもりだったが、それでも周囲の視線は熱っぽいままだ。今後の身の振り方を考えなければ、余計な注目を浴びそうだ。
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その後、現場は騒ぎになるも、ひとまず“スリ”はマルクたち兵士が引き渡しの手続きを進めることで落ち着いた。被害女性にも大きな怪我はなく、一件落着といえば一件落着だろう。
夕方近くになり、騒動で疲れたアリーシャは、マルクの案内で「グリーンリーフ亭」という宿に落ち着いた。
カウンターの愛想の良い女主人が、部屋の鍵を差し出す。
「今日はご迷惑おかけしたねえ。さ、お部屋はこちらよ。1泊2食付きで……」
通貨単位はやや違うが、錬金術の知識を駆使して手に入れた金属片(正確には未来で量産した試作品の貴金属)を換金すれば、滞在費は当面大丈夫そうだ。
狭いながらも清潔そうな部屋に入ったアリーシャは、まずは荷物を置いて一息つく。
「ふう……思ったより目立ってしまったわね」
これからどうするか――。そんな思案を巡らせていると、トントン、と扉をノックする音。
「アリーシャさん、部屋にいますか?」
声の主はマルクだった。
「……どうぞ」
少しだけ警戒しながらも返事をすると、マルクは扉を開けてひょこっと顔を覗かせる。
「ああ、よかった。あの、今日はありがとう。助かったよ」
「別に礼を言われるようなことじゃないわ。あなたが捕まえたようなものだし」
「いや、アリーシャさんの魔法があったからこそ、あっさり捕まえられたんだ。……もしよければ、今晩、一緒に食事でもどうです?」
いきなりの誘いに、アリーシャは思わず目を瞬かせた。彼女が答えるより早く、マルクは慌てて弁解する。
「変な意味じゃないんだ! あなた、旅人なんでしょ? ここの名物料理とか、いろいろ教えてあげたくて……」
「ふふ。わかったわ、一緒に食べましょう。どうせ、私もまだ土地勘がないし」
「ほんと!? じゃあ、後で声かけるから、それまでゆっくり休んでて」
マルクが嬉しそうに部屋を出ていくと、アリーシャは微苦笑する。
「……こういうのも、息抜きにはいいかもね」
“35年後に戻る運命”を背負う自分にとって、今ここでの繋がりはすべて一時的なもの。けれど、まったく誰とも関わらずに生きるのは、あまりに味気ないだろう。
食事を共にしたくらいで、運命の歯車が大きく狂うことはないはず。
アリーシャは自分にそう言い聞かせ、硬くなっていた肩の力を抜いた。
――こうして、アリーシャは“35年前”の世界で初めての宿を手に入れ、静かに夜を迎えようとしている。
だが、この国――そして世界を巡る運命の歯車は、彼女の一挙手一投足によって微妙にずれ始めているのだ。
そのことを、まだ誰も知る由はない。
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