時渡りの魔女は、35年後の破滅を変えたい
消すラムネ
第1話 崩れゆく未来と「時境の輪」
遠くで火の手が上がっている。灰色の空には濃い黒煙が渦を巻き、都市の残骸を風が吹き抜けた。
人々の叫び声も、もう聞こえなくなって久しい。すべてが焦げつき、砂のように砕け散った世界。
そこに、ひとりの女性――いや、女性に見える“何か”が立ち尽くしていた。頬にはすすがつき、かすかに息をしている。その名を、エレナ。
この荒廃した未来で魔法研究に人生を捧げてきた天才研究者だ。
いま、彼女の目の前にあるのは、ようやく完成した巨大な魔法陣。その中心には、大小さまざまな水晶や金属が組み込まれた輪が浮かび上がっている。
――時境の輪(じきょうのわ)。
エレナが長年研究を重ねてきた、理論上“時空を超える”術式兼装置である。数多くの失敗と犠牲を経て、ようやくここまでこぎつけた。皮肉にも、世界がほぼ滅びてからの完成だった。
冷たい風が吹きすさぶ。エレナの白衣の裾がはためいた。
「もう、時間がない……」
自身にそう言い聞かせるように、エレナは短く呟く。
国と国とが欲望をむき出しにして殺し合う世界大戦。どこをどう見回しても、平和など取り戻せない崩壊の光景が広がっている。
もし過去へ行けるなら……。
ほんの少しでも、戦争の火種を消し止められるなら……。
彼女は過去を変えるために、時空を超えることを選んだ。
だが、ただ過去に行くだけでは問題がある。過去の世界では“生まれたばかりの自分”――赤ん坊のエレナがいる。実際にその顔を見知る者は少ないとしても、母に似ている部分を見とがめられれば、母を知る人々の間で「まるであの人の親戚のようだ」と噂になりかねない。ひいては、未来から来た彼女の存在を怪しまれ、取り返しのつかないほど歴史の歯車が狂う可能性があるのだ。
そこでエレナは、“外見”と“名前”を変えることを決断する。特に、若くて魅力的な姿へと完全に作り替えることで、母と血の繋がりを連想させるリスクを極力排除する。
さらにもう一つ、彼女にはやらなければならない術があった。「久遠の刻契(くおんのこくけい)」――35年間、年を取らない魔法である。
過去の世界で長い年月を過ごし、なおかつ“数十年後”に再び元の時代へと戻るためには、肉体の時間を止めなければならない。もっとも、これには相応の代償があると知りつつ、エレナは躊躇しなかった。
エレナは震える手で白衣を脱ぎ捨て、魔法陣の中心へと歩み寄る。その瞳には決意の炎が宿っていた。
「みんな……私、やってみせるから」
彼女の脳裏に浮かぶのは、かつての同僚たちや友人たちの笑顔。ある者は戦火で、ある者は疫病で、ある者は魔物の襲撃で……もうこの世界にはいない。
エレナは最後に残った希望を、この**「時境の輪」**に託そうとしている。
胸元のペンダントを握りしめ、深呼吸をする。魔法陣が淡い青白い光を放ち始めた。
「――時境の輪、起動(コード・エンゲージ)」
指先からほとばしる魔力が地面の紋様を駆け巡り、輪郭をもたない“扉”がゆっくりと開かれる。
同時に、エレナの躰を濃密な魔力が包み、その瞬間、痛烈な頭痛と吐き気が彼女を襲う。
視界はぐにゃりと歪み、色彩が闇に溶けていく。まるで意識が引きちぎられるような感覚。
エレナは唇を噛んで耐える。もしここで気絶すれば、次に意識を取り戻すとき自分の存在そのものが消え失せているかもしれない。
「……ッ、この程度……乗り越えないと……!」
闇の狭間の奥から僅かな光が見える。どれほど歩んだかもわからない中、エレナはその光に手を伸ばし――
---
――ドサッ。
地面に叩きつけられるような衝撃。頬には湿った泥土がついていた。
荒涼とした空気から一転し、どこか生温い風が吹いている。木々のざわめきと、鳥のさえずりがかすかに耳に届く。
「ここは……」
眠るように閉じかけたまぶたを何度か瞬かせ、エレナ――いや、これから“新しい自分”として生きる者はゆっくりと身体を起こした。
そこに広がっていたのは、ひとまず平和そうな森の光景。戦火の焔も、破壊の痕跡も、ここにはない。
35年前の世界――希望がまだ潰えきっていない、“やり直し”が可能な時代。
エレナは持参した荷物袋を確かめる。最低限の魔法道具や小型の触媒、研究メモなどが無事であることに胸を撫で下ろす。
そして、自分の身体を見やる。さきほどまでの地味な髪色や体型は、すっかり変わっていた。若く色気すら漂う姿に変容したのだ。これこそが、“母親の影”から自分を遠ざけるための策。
少しばかり戸惑いを覚えながらも、エレナは静かに息をつく。
「……誰にも、私がエレナだと気づかれないはず」
そして、ここから生きる“新しい名前”を思い出す。
アリーシャ・フェンブリック――これが、彼女の新たな仮名。
もしエレナを名乗れば、赤ん坊としての自分と母の縁者を知る誰かが「顔立ちが似ている」と勘づくかもしれない。この世界の歴史を守り、同時に変えるためには、些細な疑惑すら排除しておくことが賢明だった。
森の奥へ足を踏み出そうとした瞬間、鋭い頭痛が襲う。転移の影響か、それとも「久遠の刻契」の副作用か。
アリーシャは歯を食いしばり、どうにか倒れずに踏みとどまった。
「痛っ……でも、ここでじっとしていられないわ」
先ほどの大魔法の反動で魔力を大きく消耗している。あまり無茶はできない状態だ。
今後の方針として、まずは目立たない町へ向かい、“自分が生き延びる術”を整える必要がある。そこで地域の情勢や軍事の動向を探りつつ、いずれ訪れるであろう世界大戦の火種を何とか摘み取っていかなければならない。
そしてアリーシャには、もう一つ忘れてはならないことがある。
この35年を過ぎれば、また未来――自分がいた時代へ戻る。
「久遠の刻契」が解かれる時、彼女は再び元の世界へ帰らなくてはならない。たとえその間にどんな出会いがあっても、どんな恋をしても、ずっと一緒にいることはできない――。
だからこそ、今ここでの選択にどれだけの意味があるのかを、アリーシャは問い続けていた。
――それでも、未来を救うため、もう一度この世界を生き抜いてみせる。
森を抜けるまで、困難もあるだろう。魔物が出るかもしれないし、通貨や食糧もほとんど手元にない。
だが、諦める理由は見当たらない。ひとつひとつ乗り越えて、過去を変え、未来を救う――。
強い陽光を受け、アリーシャの瞳がきらりと輝いた。
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