第一話 閉ざされた扉

 埃まみれで仰向けに倒れている涼は、ゆっくりと目を開けた。視界に広がるのは、真っ暗な闇。その中で唯一目に入るのは、遥か上空にぽっかりと空いた天井の穴。そこから差し込む光が、四角い天窓のように浮かび上がっている。


 天井を見つめながら、涼は記憶を辿る。

『確か、診察室のような部屋にいたはずだ。部屋の真ん中にあった小さな机、その上に置かれていた珍しいレトロな脈拍計を、五人で囲んで見ていたんだ。そこに光が駆け寄ってきて……その瞬間、床が抜けた。多分、俺たち五人の体重でギリギリだった耐荷重に、光の九十キロが加わったせいだろう。心霊現象を期待している晋吾には悪いけど、これは霊現象ではなく、ただ経年劣化による自然現象だ。ということは、ここは地下なんだろう。昼間なのに暗いはずだ』


 体を起こそうとした瞬間、鋭い激痛が背中と腰を襲う。

『あの天井から落ちた事を考えれば、この程度の怪我で済むなんて、むしろラッキーなんだろうな。六メートルぐらいありそうだ』


涼は、顔を歪め、深く息を吐きながら、首だけを持ち上げた。闇に包まれた部屋を見回すと、ぼんやりと動く影が視界に入る。


「ヤッホー……みんな! 生きてるかー?」

 涼は平静を装い、いつもの呑気な声を出した。だが、その声は闇に吸い込まれるように静寂の地下で反響し、部屋の広さと地下の深さを感じさせるだけだった。


「涼、ふざけないでよ! 一体何が起きたの? 私たちに——」

 不機嫌そうな穂乃果の声が返ってきた。


「床が抜けて、落ちたんだと思うよ」


「うぁ。なんか怖いし。キモい。つまり……ここは王座病院の地下なの?」

 里のが恐る恐る声を絞り出す。


「ああ、そんなところだな。診察室みたいな場所の床が抜けて、ここに落ちた。だから、ここは王座病院の地下のはずだ」


 晋吾も仰向けの状態で冷静さを装い説明する。

「二〇一一年の東日本大震災で、この病院の一階と二階が完全に潰れたらしいからな。その影響で床が脆くなってても不思議じゃない。まあ、霊の仕業って線もまだ捨てきれないけど」


 光は片膝を立て、痛む足を押さえながら苦笑する。

「床が抜ける心霊体験なんて聞いたことないぞ……。俺の足、ヤバそうだけど、折れてはないみたいだ」


「おいおい、光まで、心霊現象を否定するなよ。せっかくきたんだから」


「み、みんな、どこにいるの? く、暗すぎて何も見えない!」

 郁恵が声を震わせながら周囲を探る。


「お尻、痛ーい……もう最悪!」

 穂乃果は座り込んだまま苛立ちを隠さずぼやく。


「とりあえず、死人はいなさそうだな……六メートルくらいは落ちたと思うけど、みんな無事で良かった」

 晋吾が顔をしかめながら呟く。「でも、暗すぎてヤバイな。これじゃ霊すら見えないよ。これがホラー映画だったら、誰か一人ずつ消えていく展開だよな……」


 その時、穂乃果がポケットからスマホを取り出し、画面を点けて辺りを照らした。パッと、ぼんやりした光が広がり、部屋全体が浮かび上がる。

 

 壁はところどころ崩れ、剥がれたコンクリートの内側には黒ずんだカビの筋が無数に走っている。天井からは錆びた鉄パイプが垂れ下がり、滴る水が音もなく床に染み込んでいた。地面には、動物の毛と思われるものや乾いた血痕が散乱し、その間を細かい昆虫たちが這い回っている。

部屋の隅では、腐った布切れのようなものが山積みになり、その下からは朽ち果てた動物の骨が覗いていた。かすかに漂う腐臭が鼻をつき、不安感をさらに掻き立てる。


光が辺りを見渡しながら低くつぶやいた。「なんだ、ここは!?ヤバそうだ……牢屋みたいな感じだなぁ」


 埃が舞い上がる中、暗闇の中で六人がゴソゴソと動き出す。郁恵が手を振りながら叫ぶ。「こっち、こっちも、照らして! 私もスマホ探すから……」


 煤汚れたパーカーに、泥が付着しているブルーのデニムのワイドパンツ姿。ショートの黒髪にはゴミのようなものが絡みついている普段あまり見ることがない間抜けな郁恵の姿が、穂乃果のスマホの光に照らされ浮かび上がる。


「私も、デニム履いて来ればよかった。スカートだから傷だらけで最悪。メガネが無事だった事だけが救いだよ」穂乃果が、足をさすりながら嘆く。


 郁恵がカバンを見つけたようで、手探りで手を突っ込みながら言う。「ありがとう。カバンあった。今、私もスマホ出すね!」


 スマホの灯りが二つに増え、周囲がはっきりと見えるようになる。

部屋の隅まで照らされる。その光が床のシミに当たると、干からびたように見えるそれが、異様に赤黒く染み付いているのが分かった。


「キモ。ここヤバいね……すまない、俺のスマホ、ご臨終だ……」晋吾が呟く。


 光が涼のそばに近寄り、腰ろおろし表情を覗き込む。「涼、大丈夫かか?動けなくなってるみたいだけど……」


 横たわっている涼を取り囲むように、ごそごそと五人が集まってくる。


 里も涼の顔を覗き込む。「お兄ちゃん、動けないの?」


 涼は眉間にシワを寄せつつ、首を軽く横に振った。「大丈夫。いや、ちょっと、背中と腰を強く打っただけだ。体を起こすと激痛が走るけど、ただの打撲だと思う」


 郁恵がしゃがみ込んで、涼の前に顔を寄せる。「起き上がるの、手伝おうか?」


 その言葉に晋吾が苦笑しながら割って入る。「郁恵ちゃん、そういう仕事は俺ら男子の役目だよ。涼、結構重いからな」


 光が涼の右手を支え、晋吾が左側に回り込む。二人が涼の肩をそっと持ち上げる。


「い、いたっ!痛い」


 晋吾が申し訳なさそうに耳元で小さく呟く。「ごめん、ごめん。もうちょっとスローでやれば良かったな……」


「なんか臭い。動物の臭いがする。最悪……なんかキモい。虫いるし。湿っぽいし。無理、こんなとこ」里が観察するように周囲をスマホで照らし、顔をしかめて呟く。


「確かになんか獣臭いなぁ。ヤバいところに来ちゃったのかなぁ。とにかく、都市伝説の解明はまた別の日にして、今日はさっさと帰ろう」


 里が、引き攣った顔をしながら、少しパニック気味に声を張り上げる。「お兄ちゃん、早く立って! 早く帰りたい!」


 涼は里の声に反応して腰を押さえながら、急いで立ち上がる。


 光がドアに近寄り、こじ開けようと、ガチャガチャと揺さぶる。「ちぇ!、マジか。これ、開かない……ありえない。外から鍵がかかってる。患者を閉じ込めるための部屋だったのかも……」


 穂乃果が目を見開きながらヒステリックな声を出す。「えー!開かないの? マジ? 最悪。他にドア無いの?探してよー」


 晋吾が暗闇の中、周囲の壁を伝いながら部屋をぐるりと一周する。「他にはなさそうだなぁ。ドアは一つだけみたいだ」


「光!、壁、登れない? 得意だろボルダリング。こうなったら、落ちた穴から出るしかないだろう」晋吾が少し投げやり気味に言う。


 光は天井の穴を見上げながら、困ったように首を振る。「それは俺も考えた。でも、ボルダリングって指で掴まれる部分が必要なんだ。ツルツルの壁で、見事に凹凸が何もない。おまけに天井まで六メートル以上あるので無理だよ」


「無理って……あたし、ここにずっといるの無理だから」里が半泣きになりながら声を上げる。


 郁恵が近寄り、そっと里の肩に手を置いた。「大丈夫だよ……きっと。出る方法を冷静になって一緒に考えよう」


 里は涙目のまま、晋吾を睨みつけ、泣きじゃくりながら言い放つ。「そもそも、晋吾さんが都市伝説の解明とか、わけのわからないことを言うから、こんなことになったんでしょ」


 晋吾は肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。「里ちゃん、勘弁してよ。それは、違うだろうー。俺は誰も強制してないよ。みんな、自分の意思で来たんだよ。だから自己責任」


 涼が深い息をつき、声を落ち着かせながら言った。「ねえ。みんな、とにかく冷静になろうよ。今もめている場合じゃない。脱出方法を考えよう。ここは青木ヶ原の深い樹海の中なので、人はほとんど来ないはず。自力で抜け出すしかないと思う」


 里が涼を見上げ、不安そうに訊ねる。「抜け出せなかったら……私たち、ここでどうなっちゃうの?」


 光が壁にもたれかかりながら言う。「あ、スマホで助けを呼べばいいだけじゃない?」


 涼はため息をついて短く首を横に振る。「スマホを見てみろよ。ここは樹海のど真ん中で、おまけに地下だよ。衛星電話ぐらいしか繋がらないよ」


「……そりゃそうだなぁ」光が大きくため息をつきながら肩を落とす。


 晋吾が穂乃果の顔を見て訊く。「今、何時だかわかる?」


 穂乃果がスマホの画面を確認して答える。「午後三時だよ」


 光が壁を見上げ、ぽつりと呟いた。「昼間なのに、こんなに真っ暗……夜になったらどうなるんだ?」


 涼が気がついたように言う。「スマホの電池を無駄にしない方がいい。必要な時以外は電源を切るか、または、飛行機モードにした方がいい」


 郁恵はしばらく考え込み、口を開く。「とりあえずみんな一ヶ所に集まって考えようよう。 その方が安心できると思う」


 「そうしよう」


 六人は集まって床に座り込む。暗闇の中で互いの存在を感じながら、しばしの静寂が訪れる。


 やがて、里がぽつりと呟いた。「なんか、怖い……」


 光が壁を見つめたまま、独り言のように呟く。「妖怪、悪霊、幽霊、怪物……なんでも出てきそうな雰囲気だな」


 晋吾が思い出したように口を開く。「そういえば、この病院のエレベーターが異世界への入口になっているって、どこかの書き込みで見たな」


 郁恵が少し怒りを込めた声で言う。「もう、やめてよ。そんな話。それより、どうやってここを抜け出すか考えてよ」


 光が呟く。「あー、喉乾いたな……」


 涼がカバンからペットボトルを取り出す。「飲みかけだけど、エビアンがあるよ」

「ありがてぇ。りょうさまは、神だ」光が涼からエビアンを受け取る。


 しばらくの沈黙の後、晋吾がぼそりと呟く。「きっと、俺たちが帰らなかったら、おかしいと思って、親が捜索願い出すよ。だから待っていれば大丈夫だよ」


 涼が少し考え込んでから頷く。「穂乃果のお父さん、たしか門限厳しかったよね。何時だっけ?」


「六時」


「マジか?、そんなに早いんだ。それじゃ、誰とも遊べないじゃん。穂乃果、ガチで箱入りお嬢だな」光が訊く。


「穂乃果さんかわいそ過ぎる。六時なんて私は絶対無理」里が涼の顔色を伺いながら言う。


「オマエはまだ高校生なんだから、六時とは言わないけど、十時前には帰って来た方がいいと思うよ」涼が釘を指す。


「でも、こうなると、厳しい穂乃果のお父さんが救世主かも。穂乃果の門限が六時でありがたい。後三時間でお父さんは探し始めてくれるかも」晋吾が期待を込めた声で呟く。


「お父さんには、今日、ここに来ること伝えてあるの?」光が続けて訊く。


「言ってない。反対されるから。今日は郁恵の家に行くことになっている」


「マジか......郁恵は?」光が郁恵の顔を見る。


「私、晋吾や光と同じで、実家じゃないよ。一人暮らしだよ。わざわざ親に電話しないよ」


「涼は実家だよね」郁恵が言う。


「うちの親は、信用してくれているみたいで、干渉しないんだよね。俺にも、里にも。だから何も言ってない」


「そっかー。じゃあ、やっぱり、厳しい穂乃果のお父さんを期待するしかないのかも」晋吾が穂乃果の顔を見ながら呟く。


 穂乃果が淡々と話し始める。「お父さん……私のこと見つけられないと思う。 郁恵の部屋には何度も通うと思うから、郁恵の親には郁恵が帰らないことは伝わると思うけど。郁恵の親が郁恵が樹海に来ていることを知らないのは致命的かも。おまけに、たとえ、樹海に来たとして、樹海は磁鉄鉱を多く含む箇所があるので、方位すらわからなくなるから、この廃墟を探すのも一苦労のはず……しかも地下だよ。たぶん見つけられない」


 その言葉に、里が顔を曇らせる。「えー。じゃあ、もしかして、私たち……樹海で死んだことになっちゃうのかなぁ」


「穂乃果、冷静だねー。帰れない可能性があるのに全然パニクってないし。いい意味でちょっと驚いている」光が穂乃果を見つめながら言う。


「私に、惚れた?」穂乃果がからかうように言う。


「うん。ますます。彼女飛び越えて、嫁さんになって欲しい」光が真剣な顔で答えると、穂乃果の横に行き、シャツを脱ぎ、足にかけた。


「お!、優しいじゃん。紳士だね。光、ありがとう」穂乃果が少し笑顔を見せる。


「こんなとこで、こんな状況でプロポーズとか、光、おかしんじゃない?穂乃果もなんか、楽しそうじゃない。おかしいよ二人とも」郁恵が言う。


「俺は光に一票入れるよ。こんな状況になるなんて、昨日は想像してなかったからね。霊に取り憑かれるかもしれないし。人生、一寸先はどうなるかわからない。プロポーズでもなんでも、後悔しないようにやれることはやっておいた方がいいよ」晋吾が言い放つ。


 涼が立ち上がり、冷静な口調で言う。「焦らず、脱出方法を考えよう。ここに閉じ込められたままだと、本当にやばい」

六人は、晋吾が言うとおり、光の穂乃果に対するプロポーズが最初で最後になるというは、この時は知る余地もなかった。


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