第3話
その少し前に、この世界にある一匹の魔物が新たに生を受けた。
その顔は醜悪で、体付きは大きく、そして全身が分厚い筋肉と脂肪の鎧に覆われていた。
体色は緑色で、潰れた鼻とその下顎から生えた天を突くような牙が、その者の顔面の醜悪性と凶悪性をより際立たせていた。
魔物は"オーク"であった。
街や村に襲いかかり、その際に財物や作物を奪ったり、女や子供をさらって孕ませたり喰ったりもする凶悪な魔物。
魔物の中でもゴブリンと並んで特に蔑視され、嫌悪される卑しきケダモノであった。
だが、その新たに生まれた魔物の目には、獣らしからぬ理性と、深い知性の色が讃えられていたのである。
「ここは…………」
魔物は、周囲を見回しながらそうポツリと漏らした。
どうやら状況についていけていないようである。
辺りは深い森に包まれ、時折聞こえる鳥の声と、風でざわめく木々の葉の音色以外は何もない静寂に包まれていた。
ここは、付近の国々の冒険者たちには、"静かの森"と呼ばれ、忌避され恐れられている場所であった。
何故なら、この森は魔物の数こそはさほど多くはないが、時折この森で発生する魔物は例外なく強力で、一国の軍隊が出動しなければ収束出来な
いほどの大物が出てくる事がしばしばあるからだ。
魔物の絶対数が少ないため狩場としての魅力に乏しく、なおかつ出てくる魔物は冒険者風情では手に負えないものばかりなので、自然とこの森の
静寂性は保たれる事になったのだ。
そんな場所に一匹、発生したオークという場違いな下級の魔物。
だが、その体に溜め込む魔素は、かつてのここから生まれた強大な魔物たちと比べても何ら遜色がなかった。
「む、これは…………!」
魔物は、視界の端にちらりと光るものを見つけ、そこに向かってドスドスと足音を立てながら駆け寄った。
「鎧…………か?」
彼は、そう一人零したあと、目の前に転がる白銀色に輝く金属の物体をしげしげと眺めた。
見れば見るほど見事な甲冑であった。見たこともない銀色に輝く金属で形作られたそれは、少なくとも売ればこれだけでひと財産築けそうなほど
の逸品であった。
昔テレビの洋画で見かけた、"騎士"と言うものが、そういえばこんなものを身に着けていたな、などと思いながらなんとなくそれに手を伸ばす。
魔物は、見事な金細工を施されたそれを手に取り、鏡面仕上げになっているその甲冑の胴体部分に、見惚れるようにのぞき込んだ。すると――
「…………!? なんだこいつはッ!?」
彼は、唐突に目の前に現れた醜悪な化け物に驚き、思わずその鎧を取り落としてしまった。
かん、かん、と乾いた音を立てて見事な甲冑が土に汚れていく。
魔物は、それにも目をくれず慌てて戦闘態勢を取り、背後に向かって拳をつき出すが、その拳打は何にも触れることなく虚しく空を切った。
――誰もいない。
当たり前だ。男は、なんとなく覚った。今の醜い顔は自分のものに他ならないと。
男は、突き出した拳を開いて、しげしげと自分の手を見た。
緑色をしている。人間ではありえない体色をしたそれは、武の修練を欠かさなかったかつての自分以上にゴツゴツと筋張っていて、節々がこんも
りと盛り上がっていた。
手のひらもかつてのものより1.5倍ほど大きい。そういえば、目線もいつもより随分と高いように感じる。
魔物は、転がった甲冑を手に取り、再びその輝く胴体部分をのぞき込んだ。
そこにはやはり、この世のものとは思えない醜い顔が、自分の動きに合わせて、歯をむき出しにしたり、顎をさすったり忙しなく動き回ってい
た。
「なんという事だ…………」
魔物は、茫然自失としながら、その場にどさりと座り込んでそう呟いた。
ほんの少し前まで、自分は抗癌剤治療を辞し、自然に任せて自宅の布団でゆるりと死を待つばかりであったはずだ。
それが一体どういう因果か、見知らぬ森で唐突に目が覚めたかと思えば、自分の体は緑色の体色をした醜い化物として新たな生を受けていたの
だ。
状況は全くの理解の外であったが、それでも男には少しだけ心当たりが無いでもなかった。
『もし輪廻と言うものがあるのなら、次は病に負けぬような頑丈な体に』
そう、最期に自分は願っていたはずだ。
その後の記憶がないが、恐らく意識が暗転した以上は、もはやあの時の自分は生きてはいまい。
なればこそ、この身体こそが自分の願いを聞き入れた新たな輪廻の先であるという事も考えられるだろう。
……だが、それなら何故かつて自分であった記憶を残したままに新たな生を受けてしまったのか。
男には、分からない事だらけであった。
だがそれと同時に、今の状況にこみ上げてくる嬉しさを抑え切れないでいたのだ。
醜いオークに転生したと言う事も、男にとってはさしたる問題ではなかった。
男にとっては、美醜などものの価値ではなかった。
彼にとって真に美しい物は、人の見た目ではなくその者の生き方、魂の気高さであり、彼自身最低限の身嗜み以外は自分の造形にさしたる価値を
見出していなかったのだ。
そして、男は何よりももう一度生が与えられたという事が嬉しくてたまらなかった。
かつては、何事にも動じぬ、大事なものを助けることが出来るような"真の強さ"を得るために、ひたすらに心身の鍛錬に打ち込んでいた。
現代人として、その常軌を逸した生き方を選んだのは、かつて自らの力のなさで手が届かずに見殺しにしてしまった自分の妹の為。もう二度と、
あの後悔を繰り返さない為であった。
そして、ようやく長きに渡る修練の道を経て、自分なりの答えが掴めそうであったその矢先、重病にかかりその命を落としてしまったのだ。
その時は、これもまた良しと達観したようなことを言っていたが、やはり本音では悔しかったのだろう。今の男は全身から湧き上がる喜色に、思
わず醜い顔の頬が緩むのが抑え切れないでいたのであった。
「うん……まずはこれ、着てみるか」
男はそう言って、目の前に転がる傷一つない甲冑を胸元に押し当てた。
いかに男が見た目に拘らない質といっても、いつまでも半裸のままというのはいかにも体裁が悪い。腰蓑一枚では怪物としか言いようのない自分
では、人間と出逢えば即座に殺し合いに発展してしまうかも知れない。
前世で培った武技に加えて、新たなこの化け物の体から湧き出る無尽蔵の力を持ってすれば、負けることはまず無いと思えるが、その場合むしろ
相手が気の毒なので見た目を繕うことはむしろ周囲に対する気遣いであるのだ。
甲冑は、まるでそれ自体が自分の為に誂えたかのようにサイズがピッタリであり、そして自分自身も初めて着けるはずのこのややこしい構造の鎧
を、最初から知っていたかの様にすんなりと自分の頭の知識で付けることができたのだ。
男は、不思議に思いながらも特に不都合もないので問題はないと思い直し、最後に背中に自らの身長ほどもある大きな鉄板のような大剣と、腰元
に片手で振ることが出来る程度の細剣を差し込み、全ての装備を終わらせた。
腰元に手を当てながらうん、と満足げに頷いた。
その見た目は、まさしく壮麗な上級騎士そのものであり、どこかの国の将軍か、はたまた玉座を守る近衛隊長と言っても何ら遜色のない出来栄え
であった。
惜しむらくは、男には客観的に自分を見る術がない事と、元々見た目に頓着しないために着飾っても余り意味のない所であろうか。
男は、頭部を守る兜の裏側に、何やら文字が掘られている事に気が付いた。
そこには、見たことのない文字で『祝福を受けしソロン 道を切り開く者』と短く書かれていたのである。
何故か読める異世界の言葉と、聞き覚えのない名前に男は更に思考の坩堝へと追いやられる事になった。
自分は、ソロンなどという名前ではない。当然だ。
純粋な日本人で、そのような名前を持つ者は一人も居はしないだろう。
だが、それと同時に自分の前世の名前が、どうやっても思い出せないという事に気が付いてしまったのである。
死別した妹の名前は思い出せる。初美だ。両親の名前も、顔も生きてきた過程も全て思い出せる。
ただ、自分の名前だけが、何か靄が掛かったかのごとく何をしても全く思い出せないのだ。
男は、頭を抑えてウンウン、と唸るが、いくら記憶をひっくり返しても出てこずに、やがてそれも無駄かと諦めその場に腰を下ろした。
ひょっとすればこれは、自分をこの場に呼び出した神仏か、あるいはそれと同等の超常的な存在の意思なのかもしれない。
他の全てが思い出せるのに、一番覚えているはずの自分の名前だけが思い出せないという不自然極まりないこの状況は、自分が病気でないのなら
何らかの作為を疑った方が早いと気づいたからだ。
そもそも、記憶を持って怪物に生まれ変わったというこの特殊な状況下において、今なら神がいると言われてもなんの疑いもなく信じることが出
来るだろう。
であるなら、その意思に反してまで無理に逆らう必要はないと判断しての事だ。
別に長いものに巻かれろという事ではない。
ただ、与えられた困難な状況において、何らかの意味を見出すことが出来たのなら、それはまた更に自身を強く成長させてくれると言う確信が
あっての事だ。
故に、彼はしばらくは現状に思考を張り巡らす事をやめた。
今はただ、周りの環境を受け入れよう。それもまた一つの強さなのだから。
その心境の変化に呼応するかのように、男の側にまた新たな未知の存在が、パカパカと足音を立てて近づいてきた。
馬だ。
それも、見事な栗毛を靡かせながら、彼の身につけた甲冑に色を合わせるかのように、上等な白銀の馬鎧を身に着けて。
「これは…………なんと見事な…………」
男は、呆然とそう呟きながら艷やかな毛並みの馬の頬を撫でると、それは気持ち良さそうに目を細めながら、ぶるん、と一声鼻を鳴らした。
馬は、その後一歩離れると、まるで男の足元に口づけをするかのように頭を垂れながら、膝を折ってその場に体を伏せた。
「…………乗れというのか? この私に?」
男がそう聞くと馬は、「ヒヒン!」と一声いななきながら、コクリと頷いて肯定の意を示した。
「なんと…………お前、名前は……? いや、馬鹿な質問をした。私に主人になれ、と言うのなら私が着けてやらねばならんな」
状況を受け入れる心が出来ていただけに、男は早くその場に順応すると、そのまま伏せていた馬の背を撫でながらその上に跨がった。
「お前の名前は、"タッカ"にしよう。私が生まれ変わってから初めての友達だ。よろしくな、タッカ」
男がそう言って馬の栗毛をサラリと撫でると、彼女は立ち上がりながら嬉しそうにぶるん、と鼻を鳴らし、前足を大きく上げながら、また高らか
にひひん、と大きくいなないた。下腹部を確認するに、タッカは牝馬であった。
ちなみに、タッカという名前は、タッカタッカと軽やかに走るからタッカという、如何ともしがたい由来から着けられた名前であった。残念なが
ら人との関わりを絶った男には、ネーミングセンスというものを培う機会が一切なかったのだ。
だが、馬である彼女にとっては主人から貰った唯一無二の名前に違いない。
彼女は上機嫌でふんすと鼻を鳴らしながら、タッカタッカと名前のとおりに軽やかに足を動かすのだ。
「さあ、行こうタッカ。新しいまだ見ぬ世界への道行きだ。私の行く先を導いてくれ」
そう言って、男が両足で馬の胴体を挟むと、タッカはヒヒン、とひときわ大きくいななきながら、その発達した両足を激しく躍動させた。
彼の者の速度は音を置き去りにし、後にはもうもうと沸き立つ砂埃と、地面に深く刻まれた巨大な馬蹄の跡が残るばかりであった。
かくしてこの世に類を見ない『オークの騎士』と言うものが誕生した。
この者は、いずれ万世に名を残す偉大な武芸者となるであろう。
その威風が、出会った者達全てにその未来を容易く予感させた。
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