第2話 幸福の計算式

「残業時間、マイナス30%...生産性、プラス20%...幸福度、測定不能...」


田中誠はシャツの袖で額の汗を拭いながら、複雑な数式の書かれたノートを握りしめていた。オフィスビルの窓から見える夜景は、まるで表計算ソフトのグラフのように規則正しく光っている。腕時計は深夜2時を指し、スマートウォッチの健康管理アプリからは警告が点滅していた。明日も早朝から「働き方改革セミナー」の講演がある。皮肉なことに、その資料作りで今夜も残業していた。


「幸福なんて...どうやって数値化すればいいんだ...」


意識が遠のく中、彼は古びた看板に引き寄せられるように、深夜定食バー「運命の交差点」の扉を開けた。スーツはしわだらけ、ネクタイは歪んでいる。働き方改革コンサルタントとして、彼は日々企業の労働環境改善に奔走していた。少なくとも、表向きは。


店内には、懐かしい出汁の香りが漂っている。まるで、亡き母の味を思い出すような。カウンターに並ぶ古い調味料の瓶が、夜の光を柔らかく反射していた。壁には『仕事と心の相談承ります』という手書きの張り紙。その横には、先日話題になったSNSカウンセラー・木村澪のブログ記事が貼られている。『デジタル時代の幸福論』—コメント欄には賛否両論が渦巻いていた。


「いらっしゃい。今夜の運勢を...」


店主の渋井は言葉を途中で切った。その目が、誠の疲れ果てた表情をじっと捉えている。


「まさか...田中コンサルティングの田中社長...ですか?」


「っ!」


誠は反射的に背筋を伸ばした。テレビでも引っ張りだこの働き方改革の旗手。「残業ゼロで利益を上げる」という革新的な経営理論で、今や経済界の寵児だ。先週の経済誌では『平成生まれの経営の鬼』と絶賛された。その彼が、深夜に一人でフラフラしているところを見られるわけには...


「ご安心ください。当店の『深夜営業許可証』は、厚生労働省にもない特別なものでして」


渋井はにやりと笑う。カウンター奥の壁には、不思議な文字で書かれた古ぼけた営業許可証が飾られていた。よく見ると、発行者欄に『人生の裏側管理局』という謎めいた文字。


「少し...休ませてください」


「お客様の運勢を占わせていただきます。手のひらを...」


渋井は誠の手のひらを覗き込み、急に表情を曇らせた。


「今日のあなたの運勢は『労働基準監督署』。過去との対面が訪れるでしょう。そして...」


「はあ?何を...」


その時、店の扉が勢いよく開いた。


「お疲れ様でーす!今日も終電逃しちゃいました!」

「部長、資料の確認が...あれ?」


スーツ姿の若い男女が2人。紛れもなく、誠の会社の社員だ。彼は咄嗟にカウンターの下に身を隠した。が、高級革靴の先だけが、かろうじて見えている。


「あ、今夜は賑やかですね。木村さん、田中さんもいらっしゃい」


先日のSNSカウンセラー・木村澪と彼女のクライアントも続いて入ってきた。大きな溜息が漏れる。誠はさらに身を縮めた。


「社長、この靴...どこかで見たような...」


若手社員の一人が、カウンターの下を覗き込もうとする。


「あ、今夜の運勢占いの結果が出ました!」


渋井が慌てて割り込む。「みなさん全員、『突然の社内イベント』の暗示が...」


「えっ!また休日出勤ですか!?」


社員たちの注目が逸れた隙に、渋井は誠に目配せし、厨房への小さな扉を指差した。誠は猫のように身を屈め、そっと厨房に逃げ込んだ。


「今夜の『働き方改革特別定食』、お作りしますね」


渋井の声が厨房に届く。程なくして、誠の前に驚くべき定食が置かれ始めた。


「こ、これは...」


一品、また一品と料理が運ばれてくる。白飯は富士山のように盛られ、おかずは3品どころか10品以上。味噌汁は特大サイズで、デザートまで3種類。最後に、栄養ドリンクの空き瓶で作ったフラワーベースまで添えられた。


「残業時間に比例した『幸福の計算式定食』です。御社の平均残業時間から計算させていただきました。あ、このボリュームは『建前』ではなく『本音』の数字からですよ。社員の方々のスマートフォンの位置情報を分析させていただきました」


渋井の言葉に、誠は絶句した。その時、店内の柱時計が深夜3時33分を指し、不思議な音色を響かせた。


「あ、伝説の『幸せの特別メニュー』の時間です」


木村澪が小さく呟く。すると、店内の明かりが温かみを帯び、どこからともなく懐かしい風が吹き抜けた。まるで、誰かの記憶が蘇るように。


「社長...ですよね?」


静かな声が、誠の背後から聞こえた。振り向くと、厨房の隅に佇む女性と目が合う。山下香織。2年前まで、彼の会社で働いていた優秀なプログラマーだった。


「山下...さん」


「私、今は自分の会社を経営しています。労働時間は1日6時間。売上は前職の2倍です。でも、そんな数字より大切なものに気づきました」


香織はエプロンを着けている。どうやら、この店の深夜限定スタッフらしい。


「実は...」


渋井は一枚の古い新聞記事を取り出した。『若手起業家、過労死 - 革新的な経営理論を提唱』という見出し。10年前、誠の親友だった起業家・中村の訃報だった。その横には、誠と中村が笑顔で写る写真。『幸福度200%を目指す若き経営者たち』というキャプションが、今となっては痛々しい。


「私たちは、数字だけじゃない『幸福の計算式』を知っているんですよ」


渋井の静かな言葉が、誠の胸に突き刺さる。


「中村は...私のせいで...」


誠の声が震えた。10年前、彼は中村と二人で会社を立ち上げた。理想に燃え、「働く人が幸せになる会社」を目指した。しかし、現実は厳しかった。利益を追求するうちに、いつしか理想は後回しになっていった。


「でも、まだ間に合います」


香織が差し出したのは、一枚のレシート。そこには不思議な計算式が書かれていた。


残業時間×0 + 笑顔×∞ = 本当の幸せ


「これが、私たちの『幸福の計算式』です。中村さんとの約束を果たすため、この店で働きながら会社を経営しています」


香織が差し出した新しい名刺には「株式会社ハピネスファクター」の文字。かつての疲れた表情は消え、代わりに穏やかな輝きが宿っていた。


「一緒に、本当の『幸福の計算式』を探しませんか?」


山盛りの定食が、静かに冷めていく。しかし誠の心には、久しぶりに温かいものが広がっていた。


「ところで社長、明日の早朝セミナー、どうされます?」


「あ...」


誠は慌てて腕時計を見た。残り時間4時間。しかし不思議なことに、もう疲れは感じなかった。


「みなさん、明日は全社休暇にしましょう。そして...新しい計算式を、一緒に考えませんか?」


「え!?社長!?」

カウンターの向こうから、隠れていた社員たちの驚きの声が漏れる。


渋井は、にっこりと笑った。カウンターの奥の新聞切り抜きの中に、若き日の中村の笑顔が、かすかに輝いているように見えた。


「そうそう」渋井が付け加えた。「この定食、実は『お持ち帰り』できるんです。社員の皆さんで分けてはいかがですか?」


誠は初めて、心から笑った。窓の外では、夜明けを告げる光が、表計算ソフトのグラフのような夜景を、優しくぼかし始めていた。



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