「深夜定食バー 運命の交差点」

ソコニ

第1話  真夜中のカウンセラー

「また来てしまった」


木村澪は、両手でスマートフォンを握りしめながら、深夜定食バー「運命の交差点」の扉を押した。青白い画面の光が彼女の疲れた顔を照らしている。「心の専門家・木村澪の心理カウンセリング」という華やかなアカウントには、すでに14万人のフォロワーがついていた。新着通知が次々と鳴り響く。


「今日も1000いいね突破...でも、なんだかむなしい」


店内に漂う出汁の香りが、デジタルな世界に浸かっていた彼女の感覚を現実へと引き戻す。薄暗い照明の下、古びたカウンターには所々手垢のついた跡が光っている。壁には昭和から平成、そして令和へと続く様々な時代の新聞切り抜きが、まるで時代の証人のように貼られていた。


「いらっしゃい。今夜は『SNS依存度診断』がサービスですよ。占いと一緒にどうです?」


店主の渋井がカウンターから顔を上げる。寡黙な50代の男性は、元社会部記者という噂があった。右目の下にある小さな傷跡が、何か物語るようだ。白髪交じりの髪は不揃いに切られており、どこか人生の荒波を感じさせる。意地の悪い冗談を言うときだけ、右目尻が少し下がる。今がまさにそうだった。


「冗談はよしていただけます?私、仕事で疲れているんです」


澪は溜息まじりに言った。スマートフォンの画面では、新しいDMが次々と届いている。「先生、私、もう限界です」「カウンセリング、予約できますか」「いつも投稿、励みになってます」


「当店のルールです。占わせていただかないと、注文はお受けできません」


渋井の声は穏やかだが、どこか揺るぎない意志が感じられた。右手には、古びた真鍮の占い盤が握られている。


「...分かりました」


渋井は澪の手のひらを覗き込み、深いため息をついた。その目には、どこか哀しみのような感情が浮かんでいる。


「今日のあなたの運勢は『電波障害』。スマートフォンとの別れが訪れるでしょう。そして...」


その瞬間、澪のスマートフォンの画面が突然暗転した。


「あれ?え?ちょっと待って...」


焦って電源ボタンを押すが反応がない。画面には自分の困惑した表情が鏡のように映り込んでいた。


「あ、そうそう。この店内はWi-Fi圏外なんです。電波も入りにくい。まあ、運命ってやつですかね」


渋井は意味ありげな笑みを浮かべながら、少し背中を丸めて厨房へと消えていった。古い蛍光灯が、その背中をぼんやりと照らしている。


「ちょっと待ってください!私、これから大事なカウンセリングの予約が...」


「カウンセリング?」


カウンターの端から、少し酔いの回った声が聞こえた。濃紺のスーツ姿の女性が、グラスを片手に座っている。髪は少し乱れ、目元には疲れが見えた。


「私、先生のフォロワーです。『心の専門家・木村澪』さんですよね?毎日の投稿、楽しみにしています。特に『スマートフォンは適度な距離を保ちましょう』っていう先生の言葉、心に響きました」


その皮肉めいた口調に、見覚えのある顔。澪のクライアントの一人、田中優子だった。彼女は失恋をきっかけにSNS依存になり、澪のカウンセリングを受けていた。今や、優子自身もメンタルヘルスの専門家として活動している。


「田中さん...こんな所で。お元気...でしたか?」


「ええ、SNSの『いいね』以外では」


優子の笑みには、何か痛みを伴うものがあった。


「お待たせしました。本日の運命の定食です」


渋井が持ってきたのは、見慣れない定食だった。白いご飯、味噌汁、香の物、そして主菜は...空っぽの皿。


「あの、主菜が...」


「SNS断ちコース特別メニューです。7日間続けると、本当に必要なものが見えてくる。そう聞いています」


渋井は相変わらず無表情を保っている。が、その声には不思議な温かみがあった。


「7日間...ですか?」


「はい。ちなみに、このコースはお会計が特別です。最後の日に、あなたの人生が変わっていたら無料。変わっていなければ、通常料金の10倍いただきます」


澪は思わず椅子から立ち上がりかけた。しかし、その時、店内の古びた柱時計が深夜3時33分を指し、不思議な音色を奏でた。


「あ、伝説の『幸せの特別メニュー』の時間だ」


優子が呟いた。その瞬間、店内の明かりが温かみを帯び、どこからともなく懐かしい風が吹き抜けた。まるで、誰かの優しい記憶のように。


「不思議ですね。なんだか、心が落ち着いてきます」


優子は、意外そうな表情でスマートフォンをカバンにしまった。澪も、気づけば両手が空になっていた。


「私も...少し、休憩が必要だったのかもしれません」


澪がそう呟いた時、渋井は珍しく柔らかい表情を見せた。厨房から一枚の古い新聞を持ってきて、カウンターに広げる。


「実は、これを見ていただこうと思って」


見出しには『SNS依存 現代人の新たな病』という文字。その記事の署名欄には「渋井隆志」の名前があった。日付は10年前。記事の端には、赤ペンで「取材の相手の心の声を聴けなかった」という走り書きが残されている。


「私も昔、同じような経験をしましてね。取材に追われる毎日で、人との本当のつながりを見失っていた。数字を追いかけるうちに、大切なものが見えなくなって...そんな時、この店の前店主に出会ったんです」


渋井の声には、懺悔するような響きがあった。記事の横には、笑顔の若い記者の写真。その右目の下には、まだ傷跡がない。


澪と優子は、スマートフォンのことも忘れ、渋井の話に聞き入った。外では、夜明けを告げる鳥のさえずりが、デジタルとは無縁の世界の始まりを告げていた。


7日間のSNS断ちの物語は、こうして始まった。




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