鬼村という作家
篠崎マーティ
一話「滅三川」
アタシは昔、滅三川ってペンネームを使ってたんだけどね。
あんた意味分かる? ……わからんか、知識不足だな担当のくせに。滅三川ってのは死者が名乗る苗字だよ。まあ都市伝説なんだけどさ。ホラー作家にゃぴったりだと思って気に入ってたんだ。で、デビュー作がその名前で出た時、書店でサイン会する事になってさ。
サイン会始まって、客と話しながらサイン書いてて、お名前はー? って愛想よく聞いたのよ。そしたらさ、来た客全員、滅三川って名乗りやがったの。
それで一作目で
そう言って鬼村はほとんど空になったミックスジュースのコップを傾けた。氷がカロカロと涼やかな音を立てて彼女の唇に落ちていく様は、巨大な化け物の口の中に人間が悲鳴を上げながら落ちていく場面を想起させる。醜悪だと素直に思った。しかし目が離せない。何故ならその醜悪さを感知しているのは、視覚ではなくもっと第六感めいた器官なのだ。
鬼村は醜女である。この醜女という言葉に、醜い女と、あの世の鬼女という二つの意味が含まれているのは、誰かが彼女のために誂えたとしか考えられない奇跡的な偶然だ。長い黒髪で化粧もしない顔を縁取る四十歳の鬼村は、ただの不細工を超え、超自然的な人を寄せ付けないオーラを放っている。
私は彼女がいやらしくミックスジュースの最後の一滴を飲み干そうとするのを見つめながら、自然と眉間に皺を刻んでいた。
「なんで急にそんな話をするんですか? 打ち合わせと全然関係ないですよね」
若いウエイトレスが我々のテーブルに静かに近づき、一言断ってからコップに水を注いで去っていった。
鬼村は質問した私を馬鹿にするような笑みをいやに小さなその唇にのせるかと思ったが、驚いた事に彼女の顔は能面を張り付けたような生気のない無表情をしていた。
そして、声を低くして早口に言った。
「この喫茶店、従業員の名札が全員滅三川なんだよ」
弾かれたように振り返る。何の変哲もない喫茶店。従業員が笑っている。厨房から全員がこちらを見ている。他に客が居ない。醜悪。不安。悍ましさ。吐き気。でも目が離せない。先ほど鬼村を見た時と同じ感覚。叫び声をあげる腹の奥の第六感。
氷を首筋に押しつけられたような寒気が走りぶわっと汗が噴き出す。それと同時にぱっと立ち上がった鬼村が私の手を汗ばんだ手で握りしめ、咆哮をあげながらドアに突進した。
派手に外へ転がり出ると、昼に入店しろくに話もしていないのに辺りは真っ暗になっていた。二人して肩で息をし、恐る恐る振り返る。
そこには閉店の札を下げた暗い喫茶店が建っていた。勿論誰も居ない。……いや、違う。暗闇に沈む店内の中に、確かに何かが居る。それが分かる、じっと目を凝らせば今にも……。
「見るな」鬼村が乱暴に私を立たせた。「あいつら喜んじゃうよ」
今まさに夢から覚めたような気持ちで、私は歩き出した鬼村の後を追った。今自分の身に何が起こったのか、考えようとしてすぐにやめる。こう言った類を分析しようとしても、無駄骨に終わるだけなのだ。とにかく今、私も鬼村も無事で、人気のない道を家に向かって歩けている。それで十分だ。
時刻は午前二時直前だった。
「……打ち合わせしたかったのに」
鬼村はあくびを噛み殺しながら言った。「まあこんな日もあるよ」
「あってたまりますか!」
「ホラー作家の担当なんだから」
「貴女だけですよ、一緒にいてこんな怪現象にしょっちゅう見舞われるの!」
鬼村は醜い顔をさらに醜くして、こんな夜更けに晴々と笑った。
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