命、くれない?

まとめなな

第1話

## **パート1**


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### **第1章:奇妙なメッセージ**


 小林嶺二(こばやし・れいじ)は、ごく平凡な大学生だった。関西の某県にある私立大学に通い、経済学部で退屈な講義に耐えながら、空き時間に友人とコンビニに立ち寄っては軽い雑談をする毎日。家は実家暮らしだが、特に不自由もなく、アルバイトで得た給料を小遣いにして、時間を潰すように日々を過ごしている。


 そんな嶺二にとって、人生の大半は予定調和だ。遊び、学び、たまに恋をしては失敗し、ごく平凡な大学生活を満喫している。退屈ではあるが、平和な日常といえる。


 ところが、そんな彼の日常が崩れる「きっかけ」は、ある日の深夜に突然訪れた。


 眠れない夜。ベッドの上で横になりながら、スマートフォンの画面をなんとなくスクロールしていた。SNSのタイムラインはくだらないジョークや友人の愚痴で埋まっている。飽きはじめたころ、急に見慣れない通知が表示された。


 —『命、くれない?』—


 発信元が分からない。ユーザー名もIDもない。ただただ、「命、くれない?」というメッセージだけが淡々と表示されている。いたずらかと思ったが、スマホの画面を閉じても、再び勝手に表示される。


「なんだこれ……」


 アンインストールできない怪しげなアプリにでも感染したのか、と最初は思った。ウイルスかもしれない。だが、怪しいサイトにはアクセスしていないはずだし、ふだんはセキュリティソフトも入れている。


 寝不足の頭で半信半疑になりながら、恐る恐る画面をタップしてみる。しかしタップしても何も起こらない。アプリが立ち上がるわけでもない。不気味さだけが残る。


 スマホをいったん再起動してみる。すると今度は何も表示されない。安心してベッドに潜り込んだが、心のどこかにざわつきが残った。結局その晩はほとんど眠れなかった。


 次の日の朝。大学へ向かうため慌ただしく家を出た嶺二。あの奇妙なメッセージのことは頭の片隅に残っていたが、授業に遅れそうだったので大急ぎで駅へと向かった。バスに乗ってスマホを見ても、特に不審な通知はない。どうやら昨夜のあれは気のせいだったのか。彼はそれをただの深夜の見間違いだったと思い直そうとした。


 しかし、その日の夜。アルバイトを終えて帰宅し、風呂から出て、パジャマに着替えてからスマホをチェックしたとき、再びあのメッセージが表示されたのだった。


 —『命、くれない?』—


 昨夜と全く同じ文面。同じフォント。同じ不気味さ。まるで底知れぬ何かが蠢いているように感じられる、奇妙なメッセージ。


「……どういうことだ?」


 消しても、勝手に再表示される。強制終了しても、またスリープ状態から復帰させると表示される。SNSやチャットアプリの画面を開いてみても、そんな通知や受信は見当たらない。アプリ一覧にも不審なものはない。スマホを再起動しても、時間を置くとまた出てくる。


 正体が分からない。薄気味悪さがじわじわと襲ってきて、嫌な汗が背中を伝う。気晴らしにSNSを見ても、さして気が紛れるわけではない。怖い映画を見た後のようなモヤモヤした感覚だけが胸を締め付ける。


 ふと、スマホ画面を見続けているうちに閃いた。メッセージを何とかキャプチャーして、ネットで「命、くれない?」の文字列を検索してみよう。それくらいしか手がかりがない。


 検索をしてみると、まったく関連しないページばかりがヒットした。一部、2ちゃんねるまとめサイトの怪談スレのようなところで似た言葉が書かれているが、関連性は薄い。明確な回答にはたどりつけなかった。


 「これって、もしかして俺だけに届いてる……?」


 根拠はないが、そんな気がした。他人に相談してもまともに取り合ってもらえなさそうだし、警察に行ったところで笑われるだけだろう。ウイルスならウイルス対策の専門業者に見せればいいが、特にシステムを侵している形跡も無い。


 仕方なく、とりあえず放置してみるしかない。しかも、これがまだほんの序章だとは、この時点では思ってもみなかった。


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### **第2章:不気味な男との遭遇**


 翌日。大学の講義が終わった夕方、嶺二はいつものようにコンビニでバイトをしていた。ちょうど学生の客が途切れたタイミングで、店内には緩やかな音楽が流れているだけ。日勤から夜勤へ交代する合間の中途半端な時間帯だ。


 店長は事務室で業務のチェックをしており、表には嶺二ひとり。すると、ガラスの自動ドアが開き、ひとりの男が入ってきた。その男は背が高く、痩せぎすで、まるで死神のように色が浅黒い。背筋こそ伸びているが、両目がまるで焦点を失っているように見える。年代は20代から30代前半ぐらいか。黒いロングコートを着ていて、どこか暗い雰囲気をまとっていた。


 男は店内に入っても、商品に目もくれず、じっとレジの方向……つまり嶺二のほうを見ている。まるで鷹のように獲物を定める視線が絡みつく。


(なんだ……? 客じゃないのか?)


 不審者かと一瞬思ったが、特に刃物や凶器を持っている様子はない。しかし、怖いくらいに見つめてくる。「万引きかも」とも思ったが、商品棚のほうへはまるで興味を示さない。


 気味が悪いので店の防犯カメラのレンズをちらりと確認する。トラブルが起きたら店長を呼ぼうか。いや、注意するにしても理由がない。男はただ立っているだけなのだ。


 こういうときは、自分から声をかけるのが接客の基本。しかし、その男を相手に話しかけるとなると、何かとてつもない「見えない壁」を感じて躊躇してしまう。けれど黙っているほうが余計に気味が悪い。


 意を決して嶺二は声をかけた。


「いらっしゃいませ……何か、お探しですか?」


 すると、男はゆっくりと口の端を歪めるように笑った。その表情は「笑っている」のだろうが、人間が自然に笑う動きとは思えないほど不自然。頬がぴくりぴくりと痙攣しながら、つくり笑いをしているような…。


 やがて男は低い声で一言だけ呟く。


「……命、くれない?」


 瞬間、嶺二の背筋は総毛立った。まさしく昨日からスマホに表示されているあのメッセージ。そのままの文言だ。まるで意味を知っているかのように、男は淡々とした調子で口にする。


 自分のスマホの内容は誰にも話していない。にもかかわらず、なぜこの男は同じ言葉を知っているのか。動悸が激しくなり、身体が固まる。店の天井照明がやたらと眩しく感じられ、周囲の空気がぐらりと歪む感覚に襲われた。


「……ふざけるなよ。何なんだ……?」


 震える声で問いかける嶺二。すると男は答えず、再び口の端を歪めてにやりと笑う。そして、店の外へ出ていくのではなく、店の奥のほうへと足を向ける。いや、正確には「奥に行く」ように見えながら、棚と棚の隙間に消えていったのだ。


「あ……!」


 慌てて追おうとしたが、その男の姿は棚の裏側にも、トイレの方にも見当たらない。狭いコンビニのどこを探してもいない。まるで消えてしまったかのようだ。


 こんなことがあり得るのか? 店内には防犯カメラもあるはずだ。しかし、仮に録画映像を確認しようにも、客が突然消える映像なんて現実に起こるはずがない。起こるはずがないが――


「気のせい? 夢か?」


 嶺二は頭を抱える。あまりにも不可解すぎる。仕事中にもかかわらず、動揺を隠しきれないままレジに戻ると、ちょうど店長が事務室から出てきた。


「小林、どうした? 顔色悪いぞ」


「……い、いえ、ちょっと、変なお客さんが来て……」


 しかし店長は誰も来ていないという。もちろん男の姿など見ていない。そもそも嶺二が声をかけた時点で、事務室にいた店長はすぐに気付くはずだ。それでも「そんな客、来てないよ」と言われるのがオチだった。表情からして、店長は本当に何も見ていないらしい。嶺二は「見間違いかもしれません」と誤魔化すしかなかった。


 だが、それが「ただの見間違い」であるとは到底思えないリアルさだった。レジでのやり取り、あの耳元で響く低い声。――「命、くれない?」――。そのフレーズが頭の中で何度も反芻され、嶺二の心を蝕んでいく。


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### **第3章:得体の知れないもの**


 バイト終わりに帰宅した嶺二は、まっすぐ自室に戻るとスマホの電源を入れる。怖いもの見たさというべきか、あのメッセージが再び来ているのではないかと気になって仕方なかった。


 案の定、画面にはお馴染みの文言。


 —『命、くれない?』—


 さっきの男の声が耳にこびりついている。「命」という言葉がやたらと生々しく感じられる。いつもの自分の部屋が、妙に暗く冷たい空間に思えてくる。


 スマホを手に取ったまま、布団の上に崩れ落ちる。なぜこんなことになったのか。そもそも自分はどうしたらいいのか。分からないことだらけだ。


 脳裏に過ぎるのは、あの薄気味悪い男の姿。ふっと消えた不可解さ。あれは幽霊か。妖怪か。現実にはあり得ない存在。しかし昨日までは確かに“日常”だったはずだ。たった一日で自分の周囲に「異界」が入り込んだのではないか――そんな感覚に苛まれる。


 なんとか心を落ち着かせようと、嶺二は深呼吸をする。こういうときは友達や家族に話して気を紛らわすのが一番だ。しかし、この状況を説明しても笑われるだけかもしれない。「命、くれない?」なんて妄想だろうと言われるのがオチだ。


 どうしようもなくなったとき、人は怖いものから目を背けようとする。嶺二はただスマホを放り投げ、寝転ぶ。翌日は休みだったので、外出せず部屋に籠もって気力の回復を図ろうと思った。


 ――だが、その程度で解決するほど、事態は甘くはなかった。


 真夜中。時計の針は午前2時を回った。周囲が静寂に包まれ、寝付けないままベッドにうずくまっていると、不意に携帯の着信音が響いた。


 びくりと身体が跳ねる。ディスプレイを見ても、発信元は表示されていない。まるで「非通知」のコール。ふだんは滅多に非通知の電話など来ない。嫌な予感しかしない。


「……はい、もしもし?」


 恐る恐る出てみると、しばらく沈黙が続いた後、聞こえてきたのはノイズ混じりの声だった。


『…………せ。……イ……クレ……』


 言葉にならない雑音が混在しているが、その断片的な語感は確かに同じ言葉を発しているように聞こえる。とぎれとぎれに聞こえる「命……くれない……?」というフレーズ。思わず心臓が鷲掴みにされたように苦しくなる。


「やめてくれ! 何なんだよ!」


 怒鳴り返すと、今度はプツリと切れた。その後は何度リダイヤルしても不通。何だったのか、相手の意図が全く分からない。ストーカーなのか、どこかの怪しい宗教団体の仕業か。それとも真に得体の知れない何か、なのか。


 ――これをきっかけに、嶺二は本格的な「恐怖の渦」に巻き込まれていく。


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### **第4章:訪問者**


 数日が経過した。あの男の姿は見かけないし、コンビニにも現れない。ただ、スマホには相変わらずメッセージが表示される。決まって深夜になると表示され、あるいは非通知の着信が来る。その度に嶺二の精神は磨り減っていった。


 大学の友人や店長に「最近寝不足でさ」と漏らしても、原因までは言えない。日常のルーティンに溶け込んではいるが、もはや平凡な日々ではなくなっていた。


 そんなある日、自宅のチャイムが鳴ったのは夜の21時ごろ。珍しく家族全員が外出していて、嶺二は一人だった。友人でも訪ねてきたのかと思いインターホンをのぞくと、そこに映っていたのは全く見覚えのない女性。


 黒髪のロングヘアで、白いシャツにジーンズという地味な服装。顔立ちは整っているが、疲労なのか目の下には隈がある。インターホン越しに話しかけても無言だ。物陰から誰かが一緒に潜んでいる気配もない。


 警戒しながらも対応すると、玄関先に立ったその女性は低い声で切り出した。


「……あの、すみません。わたし、沢渡(さわたり)といいます」


「はぁ……?」


「実は……あなたを探していました」


 いきなりの言葉に目を丸くする。初対面のはずだし、こちらの名前すら知らないはず。しかし彼女はどこか切迫した表情を浮かべ、懸命に何かを訴えかけようとしている。


「――あなたのスマホに“命、くれない?”というメッセージが届いていませんか?」


 その一言に、全身の血が凍るような感覚に襲われた。自分以外にもこの奇妙な現象を経験している人がいるのか? まさかの展開に戸惑い、だが同時に救いの光が見えたようにも思えた。少なくとも、この人は同じ恐怖を共有しているのではないか――


 わずかな安堵を感じながら、嶺二は彼女を家に招き入れる。初対面の怪しい人物であるにもかかわらず、まるで溺れる者が藁をも掴むように、彼女の話を聞きたいと思った。


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### **第5章:共有される恐怖**


 居間に通し、簡単に飲み物を出してから、テーブルを挟んで対面に座った。蛍光灯の明かりが無機質な影を生む。落ち着かない空気の中、先に口を開いたのは沢渡だった。


「突然押しかけて、すみません。どう説明すればいいか、うまく言葉がまとまらなくて……でも、あなたに会わないといけない気がしたんです」


「いや……俺も状況がまったく分からないんで、教えてほしい。どうして俺の名前を知ってるの?」


 すると彼女は、鞄から1冊のノートを取り出した。多くの走り書きやメモの貼り付けがなされている。それはまるで調査記録か何かのように見えた。ページをめくると、人物の名前や写真らしきものが所狭しと貼られている。中には「命、くれない?」と手書きで大きく書かれたページもあった。


「実は、わたしの恋人が最近行方不明になったんです。ちょうど1週間ほど前に急に連絡が取れなくなって。警察に相談してもまともに取り合ってくれなくて……。でも、恋人からは以前、スマホに“命、くれない?”という謎の通知が頻繁に来ていたって相談されていました」


 沢渡はそう言いながら、ノートのページを指し示す。そこには彼女の恋人とおぼしき男性の写真と、その男性が書き残したメモが貼ってある。


 メモには「“命、くれない?”がまた来た」「夜中に変な電話が来る」「黒いコートの男が見える」などといった、不気味な記述が散見される。


 嶺二は驚愕した。自分と全く同じ体験をしている人間が、すでにこの世から姿を消しているという事実。その事実に強い恐怖を覚える一方、自分が今まさに巻き込まれているものの「深さ」を目の当たりにした気がする。


「まさか……それで、行方不明に?」


「ええ。その直前に“俺、変なのに取り憑かれたかも”って言っていたんです。でもわたしにもよく分からなくて。ごめんなさい、わたしも混乱していて……」


 沢渡は言葉を詰まらせながら、必死に訴えるような眼差しを向ける。失踪した恋人を追う過程で、似た被害を受けている人間を探し回り、ネットの書き込みから偶然「小林嶺二」という名前を見つけた。彼のSNSアカウントの断片情報からここに辿り着いたのだという。


「あなたも“命、くれない?”の通知を受けているなら、どうか協力してほしいんです。わたし、もうどうしていいか分からなくて……」


 そう言いながら、沢渡はテーブルの上に深く頭を下げた。その背中は心細さと絶望に苛まれているようだった。


 嶺二はその姿を見つめ、複雑な感情に囚われる。自分自身も訳が分からない恐怖に追い詰められている立場だ。しかし、同じ境遇を共有する人に出会えた事実は、ひとときの救いにもなるのではないか――。


 とにかく状況を共有し、これからどう対応するかを考えよう。現実離れしているが、放置していいはずがない。


「……分かった。協力しよう。俺も、訳が分からないままこのままじゃ嫌だから」


 そう返事をすると、沢渡は微かに安堵の表情を浮かべ、「ありがとう……」と呟いた。しかし、同時に嶺二の脳裏には「行方不明になった彼の後を追うように、自分も消えてしまうのでは……?」という一抹の不安がよぎっていた。


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### **第6章:黒いコートの正体**


 あれから二人で情報を交換し合い、考えられる可能性を洗い出してみた。ストーカー、詐欺集団、怪しい新興宗教……。しかしどれも説明がつかない部分が多すぎる。最も不可解なのは、あの「黒いコートの男」が現実離れした消え方をする点と、メッセージの出所が分からない点だ。


 考えを巡らせるうちに、二人はひとつの仮説に行き着いた。それは、あの黒いコートの男は「この世のものではない」という可能性だ。


「そんなオカルト、あり得ない……と普通は思うよな」


「でも、わたしの彼は“あれは人間じゃない”って、何度も言ってたんです……」


 現実離れしている。だが、コンビニであの男が消えた様子を思い返すと、人間の仕業とは思えない。そう納得するしかないほど、奇妙であり得ない出来事だった。


 さらに、沢渡は「命、くれない?」という文言が古い怪談や都市伝説と関連があるかもしれないと推測していた。書店や図書館でオカルト関係の資料を漁ったところ、中世ヨーロッパの“死神伝承”や、日本の“死霊憑き”の一部に、命を取る存在が人間の前に現れるという話があるという。ただし、まったく同じ文言が示唆されているわけではない。


 突拍子もない話だが、いわゆる「死神」の類が、現代人のテクノロジー――スマホ――を媒介にして命を奪っていくとすれば、まったく説明不可能というわけでもない。しかし、それが本当に「死神」と呼べるものなのかは不明だ。


「問題は、あれに‘狙われたら’どうなるのか、ということだよな。彼氏さんは行方不明になった。その前に、“命、くれない?”のメッセージを受け取っていた――これは事実だ」


「はい……。それ以外にも、ネット上で似た報告をいくつか見つけました。でも大体は途中で途絶えていて……」


 途中で途絶える――つまり、本人が何らかの形で“この世から消えた”可能性が高いということを暗示していた。


 冷たい空気が漂う。窓の外はもう深夜。風の音が不気味に聞こえる。少なくとも、逃げ出すか、戦うか、そのどちらかの策を考えるしかない。だが、どうやって戦う? オカルト相手にどうやって抗えばいい? 


 二人は答えの見えない迷路に迷い込みつつも、次第に眠気と疲労が押し寄せてきた。嶺二は沢渡にソファで休むよう勧め、自分は自室に戻って眠ろうとする。もっとも、そう簡単に眠れるはずもない。暗闇の中、「命、くれない?」というフレーズが耳元で囁いているように感じられ、何度も目が覚めた。


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### **第7章:悪夢の始まり**


 翌朝。沢渡は簡単な朝食をとってから、いったん帰宅することになった。やはり自分の家のこともあるし、二人でずっと一緒にいるわけにもいかない。


「また連絡しますね。あなたも気を付けてください」


 そう言い残して沢渡は家を出る。嶺二は一人きりになったリビングで、深く息を吐いた。前の日までは「たったひとりでこの恐怖に立ち向かっている」と思っていたが、少なくとも一緒に対策を探ろうとしてくれる人が現れた。それだけでもいくらか心強い。


 しかし、その安堵はすぐに打ち砕かれることになる。


 昼過ぎ。家でうとうとしていると、突然スマホが着信音を響かせた。見れば、沢渡からの電話だ。嫌な予感を覚えつつ応答すると、その声は震えている。


『さっき……黒いコートの男が、わたしの家に来たの……!』


 息を切らせながら訴える沢渡。玄関のチャイムが鳴り、ドアスコープから外を覗いたら、あの黒いコートの男がじっとドアを見つめていたのだという。彼女は慌ててチェーンをかけ、ドアを開けずにやり過ごそうとした。が、しばらくして覗き穴を見ても男の姿は消えていて、代わりにドアにべったりと赤黒い手形が残されていたというのだ。


『どうしたらいい……? 怖い……!』


「落ち着いて! 取りあえず家に鍵をかけて、警察を呼んだほうがいいんじゃない?」


『警察に言っても、きっと相手にしてもらえない。そもそも人間じゃないかもしれないのに……』


 確かに、普通の警察には対処できないだろう。だが、彼女をこのまま放っておくわけにもいかない。


「分かった。今からそっち行くよ。家どこ?」


 場所を聞き、電車を乗り継いで彼女のアパートへ向かう。幸い大きな駅からは遠くない場所にある。早足で移動する途中、見慣れない通りを抜けるたびに周囲を気にする。もしかしたらあの男がここにもいるかもしれない――そう思うと、得体の知れない恐怖が背後から追いかけてくるようだった。


 なんとか彼女のアパートに辿り着き、部屋をノックすると、内側からそっとドアが開かれた。チェーン越しに覗く沢渡の目はひどく怯えている。嶺二が顔を見せると、ほっとした表情を浮かべ、ドアを開けてくれた。


 室内は空気が張り詰めていた。リビングの壁には確かに赤黒い手形があり、薄くこびりついている。血のようにも見えるが、その色は妙に褪せていて、ガラス細工のような光沢を帯びている。手形の形自体は人間の大きさだが、指が伸びきっているように見えて不気味だ。


 警察を呼ぶべきか迷うが、常識的に考えて「得体の知れない黒い男が消えて、その痕跡がこれです」などと説明したところで信じてもらえるかは疑問。勝手に自分たちだけで触って証拠を台無しにするのもまずい。二人はただ呆然と手形を見つめるしかなかった。


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### **第8章:追い詰められる日常**


 この出来事を境に、彼らの周囲にはさらに異常な現象が頻発し始めた。スマホに届くメッセージだけでなく、現実世界でも突拍子もない不可解な出来事が連発する。


 例えば、バイト先のコンビニでの勤務中。レジの会計をしていると、唐突にフロアの照明が明滅し始める。同僚がブレーカーを確認しても異常なし。電球の故障かと思えば、翌日にはケロリと直っている。こうした怪現象の最中に、ふと視界の端にあの黒いコート男が立っているのが見えることもある。視線を向けると消えてしまう。


 沢渡も同様で、街中を歩いているときに突然視界が歪んだように感じ、あの男が遠くで手招きをしているのがちらりと見えたと言う。しかし近寄ろうとすると忽然と消える。


 不安と恐怖が蓄積する。眠りも浅くなり、大学の授業に出ても頭に入らない。アルバイト中も時折挙動不審になり、店長に心配されるほどだ。沢渡も仕事を休みがちになり、退職寸前の状態だという。


 ――そんなある日、嶺二のスマホに異常なほど長文のメッセージが届いた。


 —『命、くれない? どうせ無価値でしょう? 生きていても苦しいだけでしょう? だったらくれればいいのに。そしたら楽になれる。君の身近な人も、きっとそれを望んでいる。さあ、命をくれない?』—


 まるで人間の弱みを突くような執拗な文面。その文字がスマホの画面に延々とスクロールされている。嶺二は震える手で画面を閉じようとするが、指が思うように動かない。頭の中に直接響いてくるような、呪縛めいた声。


 まるで「死」へと誘う誘惑。こんな得体の知れない存在に、どうやって立ち向かえばいいのか。出口のない洞窟に迷い込んだ気分だった。


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### **第9章:神社と呪術】


 あるとき、沢渡がネットでオカルトに詳しいという人物を探し当てた。ハンドルネームは“夏目”という。過去に似た怪異の相談を受けたことがあるらしい。あくまでネット上の情報なので信用できるか分からないが、わずかな望みにすがりたい二人は連絡を取ってみた。


 すると夏目は「詳しい話を聞かせてほしい」と言い、都内の某所の神社に来てくれという。場所は有名な観光地から少し外れた、小さな神社だった。


 週末、二人は新幹線と電車を乗り継いでその神社へ向かった。都会の一角とは思えないほど鬱蒼とした木々に囲まれ、小さな社殿がひっそりと建っている。鳥居をくぐって境内を歩くと、若い男性が目に留まる。二十代半ばぐらいだろうか、黒縁眼鏡に地味なシャツという姿。彼が夏目だった。


「遠路はるばるご苦労さま。俺が夏目です」


 丁寧な口調とは裏腹に、その声には奇妙な熱気がこもっている。神社の境内を掃き掃除していた宮司さんに断ってから、境内奥の祠近くで話を聞いてくれた。


 二人がこれまでの経緯をざっと説明すると、夏目は興味深げに頷く。メモを取るというよりは、頭の中で整理するように目を閉じている。やがて口を開いた。


「おそらく、それは“あやかし”の一種だと思いますよ。人間の精神に寄生して、最終的に命を奪う類のもの。霊的な存在である可能性が高い」


「“あやかし”……?」


「妖怪とか死神というのとも微妙に違うんだけど、現代ではそれをそう呼ぶ人もいる。ネットやテクノロジーを媒介に姿を現すケースが、最近増えてきたと耳にしますね。いわば現代の怪異ってわけです」


 さらりとオカルトチックな話をする夏目。だが、この言葉を聞いて二人はかえって安堵した。少なくとも「今までに前例がないわけではない」と思わせるような口ぶりだからだ。夏目に何か打開策があるならすがりつきたい。


「その“あやかし”を追い払ったり、倒したりする方法はあるんでしょうか?」


 藁にもすがる思いで質問すると、夏目は少し悩んでから答えた。


「倒す、というのは難しい。明確な肉体があるわけじゃないから。だけど、“契約”を破棄させることはできるかもしれない。やつらはターゲットと無意識の契約を結んで、じわじわ命を奪おうとしているんです。多分、“命、くれない?”って言葉に答えてしまうと、その契約が固まってしまうのかもしれない」


 契約。人間の「同意」を得ることで、その霊的存在は力を得るのだろう。相手の誘いに応じて「はい」と答えてしまうと、自ら命を差し出す形になるのだろうか。


「じゃあ、答えなければいい?」


「それだけでは不十分。だって既に“狙われてる”んですから。静かに拒絶しているだけじゃ、いずれ限界が来るかもしれない。実際、周囲で怪現象が起きているわけだし」


 夏目はそう言うと、懐から小さな護符のような紙切れを取り出した。そこには複雑な文様が書かれている。


「これは、ある程度の“結界”の役割を果たす。君たちが寝る前に枕元に置いておくと多少は防げるかもしれない。でも、根本的解決には“あやかし”自体を呼び出して、強制的に契約破棄させる必要がある」


「呼び出すって……そんな危険なこと、どうやるんです?」


 沢渡が青ざめた表情で尋ねる。確かに、わざわざ“あやかし”を呼び出すなど正気の沙汰ではない。しかし逃げ回っていても、相手は際限なく追いかけてくる可能性が高い。待っていても事態は好転しないだろう。


「この神社の奥に、古来から伝わる“召喚”の儀式に使える場所があるらしい。宮司さんに許可が取れれば、そこで試してみる価値はあるかもしれない。ただ、成功する保証はありません。失敗すれば、さらなる危険が及ぶかもしれない」


 背筋が寒くなる。だが、これも一つの賭け。少なくともやることがなければ、自分たちはいずれ命を奪われるか、どこかに消えてしまう――その絶望よりは、まだ希望があるかもしれない。


「お願いします……やります」


 嶺二は固い決意でそう告げた。その横で沢渡も、祈るような目で頷く。


「分かりました。宮司さんに話してみましょう。準備には少し時間がかかるから、日を改めてまた来てください」


 こうして二人は、薄暗い神社の境内で“退治”への一歩を踏み出すことになった。


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### **第10章:不穏な予兆**


 しかし、東京から戻ってすぐ、さらなる恐怖が二人を襲う。深夜、嶺二のスマホに着信。相手は沢渡からだ。慌てた声で訴えてくる。


『わたし……さっき、夢を見たの。あの黒いコートの男が、わたしの彼氏を連れて……何か儀式みたいなことをしてるところだった。でも、あれはただの夢じゃない。リアルに感じたの。彼がわたしに向かって“助けてくれ”って叫んでいた……』


 沢渡は泣きそうな声だった。オカルト的現象か、それとも精神的ストレスが生み出した悪夢かは分からない。しかし、どちらにせよ恐ろしい。失踪した恋人が“あやかし”に囚われているとすれば、取り返しのつかない事態になる前に、何とかしなければならない。


「とりあえず近々、あの神社で儀式をするって話、決まったから。それまで耐えよう」


 嶺二は自分にも言い聞かせるようにそう言葉をかける。沢渡はか細い声で「うん……」と答えるしかなかった。


 しかし翌日、今度は嶺二自身が奇妙な夢を見た。荒涼とした暗い原野を、黒いコートの男が歩いている。その後をゾロゾロと人影が続く。人影は皆、顔が判別できないほどぼんやりしているが、何人もの男女が混じっているようだ。そして彼らは、黒いコート男と共にやがて闇の奥へと消えていく。


 目が覚めたときには大量の汗でシャツがびっしょり。目覚まし時計は深夜2時過ぎを指している。心臓の鼓動がとてつもなく早い。部屋の空気が淀んでいるようで息苦しい。慌てて窓を開け、冷たい外気を吸い込んだ。


 薄暗い街灯が照らす夜の街。遠くに猫の鳴き声が響いたかと思えば、風がざわざわと草木を揺らす。そこに人影はない。ほっと胸を撫で下ろし、ふとスマホを手に取ると、画面には当然のようにメッセージが浮かんでいた。


 —『命、くれない?』—


 もう勘弁してくれ、と嶺二は喘ぐようにベッドに倒れ込んだ。「あと少し、あと少しでこの悪夢を断ち切れるはずだ」と言い聞かせるしかない。


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### **第11章:儀式の準備**


 再び週末が訪れ、二人は東京のあの神社へ向かった。今回も夏目が待っている。奥にある社務所の一室で、宮司さんと打ち合わせが行われる。どうやらこの神社には、悪霊・魑魅魍魎を封じるための古い祭壇が隠されているらしい。江戸時代のころ、疫病や天災を「怨霊」の仕業とし、そこに封じ込めようとした伝承が残っているのだとか。


 夏目が言うには、この儀式には以下の条件がある。


1. ターゲットとなっている当事者が、自ら“あやかし”をここへ呼び込もうと意志を示すこと。

2. 神社の結界の中心に当事者が立ち、特殊な呪文(祝詞のようなもの)を唱えること。

3. “あやかし”が現れたとき、結界を維持しつつ契約破棄を宣言すること。


 簡単に言えば、「自分から呼び込み、そこで一気に縛り上げ、契約を無効化する」らしい。だが、呼び出しに応じて“あやかし”がやってくるという保証があるのかどうかも分からない。さらに、万が一失敗すれば、相手の力が暴走してしまう危険性もある。


 嶺二と沢渡はそれでもやるしかない、と決意した。彼女は恋人を救うため、嶺二は自分と彼女自身の命を守るため。別の道を探している時間はもうない。


 宮司さんは穏やかな表情だったが、内心で不安を抱えているのが表情から透ける。こんな荒唐無稽な儀式が本当にうまくいくのか。誰も確証はもっていない。


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### **第12章:結界の夜**


 儀式は夜を待って行われることになった。日暮れとともに境内の参拝客も少なくなる。社殿の灯篭に明かりが灯され、しんとした空気が漂う。都会の雑踏から離れたこの空間だけが、時代から取り残されたような静けさを保っていた。


 夏目が準備した道具は、幾つもの護符、塩、そして古い和綴じの書物。それには唱えるべき呪文や作法が記されているらしい。普段なら胡散臭いと思ってしまうところだが、今の二人にはすがるものがこれしかない。


 境内の奥、森に面した場所には石の柱が円形に並んでいる。これが古来の結界の跡だという。中心に平たい石畳があり、そこが儀式の舞台になる。


「じゃあ、小林さんがここに立ってください。沢渡さんはその隣に。俺は外側でサポートします」


 夏目の指示のまま、二人は円形の中心に立った。夜気が肌に染みるほど冷たい。葉擦れの音が不気味な囁きに聞こえる。月明かりの下、石畳がほのかに照らされている。


「それじゃ、始めます」


 夏目は書物を開き、呪文らしきフレーズを唱え始める。すると、境内の空気がじわりと変わった。外からの音が遠のき、まるでこの場所だけが別次元に引き込まれたような感覚が生まれる。


 嶺二と沢渡は、恐怖に耐えながら指示されたとおり言葉を口にする。


「我、求む。姿を現し、されど契約を断つ――……」


 不完全な発音ながらも、夏目が書き記した祝詞を必死で唱える。声が震えてうまく出ない。すると、辺りの風が不自然に渦を巻き始め、木々がざわざわと騒ぎ出した。


 ――そして、その時だった。


 結界の円の外側の森の闇から、スッと滲み出るようにして、あの黒いコートの男が姿を現したのだ。月光に照らし出されたその姿は、以前よりもいっそう禍々しく、漆黒の影のようにうごめいている。顔はあるのかないのか分からないが、確かにこちらを睨んでいる気配が伝わってくる。


「出てきた……!」


 沢渡が息を呑む。同時に夏目が声を張り上げ、護符を掲げる。


「今ここに、神聖なる結界あり! 闇の存在よ、ここへ入り、契約の破棄を受け入れよ!」


 すると、黒いコートの男はゆっくりと円の中へ足を進める。その動きは、重力さえ無視しているかのように滑らか。嫌な風圧が嶺二と沢渡を襲い、息苦しさを感じさせる。


 ――このまま本当に上手くいくのか……?


 不安が頭をよぎる。そのとき、男の影から無数の手のようなものが伸びてきた。その手は闇でできているのか、ぐにゃぐにゃと形を変えながら、円の内側にいる嶺二たちに迫る。


「やばい! しっかり踏ん張って、契約を断るんだ!」


 夏目が必死に叫ぶ。嶺二と沢渡も、その場から逃げ出したい衝動を必死にこらえ、「断ち切る! 俺はお前に命など渡さない!」と声を上げた。震えながらも続ける。


「……わたしも、渡さない! 彼を返して!」


 しかし、黒いコートの男は嗤うように首を傾げ、伸ばした手を鋭く振り下ろしてきた。まるで刃物のように鋭いその一撃が、バチンと結界の床を叩く。地響きのような衝撃が円形の石畳を揺るがし、嶺二は危うく倒れかけた。


「くっ……!」


 倒れそうになる身体を支えながら、護符を掲げる。夏目が猛然と動き、塩を撒き散らして護符を男に向かって投げた。すると、男の身体から勢いよく紫色の火花が散ったように見え、怒りのうめき声のようなものがこだまする。


「今だ……! 契約を破棄するって、はっきり宣言して!」


 夏目の声を受け、嶺二は乾いた喉で必死に叫ぶ。


「俺はお前に命を渡さない! お前との契約は無効だ! 消え失せろ!!」


 沢渡も同時に、


「わたしの大切な人を返して! 命も渡さない! あんたはここから出て行って!!」


 強い意志のこもった言葉が夜の結界を震わせる。すると、黒いコートの男は首を異様な角度でひねりながら、絶望にも似た嗤い声を上げる。そして、その姿が形を失うかのように、ぼろぼろと崩れ落ち始めた。闇の破片が塵のように散り、男の形が消えていく。


「消える……のか……?」


 その瞬間、男の胸元あたりから何か白い光がふわりと浮かび上がった。それは人の姿を模した光の粒子のようにも見える。沢渡はそれを見て、思わず「あ……!」と声を漏らした。


 光の中に、彼女の恋人らしき面影が一瞬だけ重なって見えたのだ。彼は何かを口にしようとしているように見えるが、声は聞こえない。やがて光はゆっくりと宙を舞い、夜空へと溶けていく。涙を流す沢渡。その横で、嶺二もわけのわからない感情がこみ上げてきた。


「今……彼だったよね……?」


「……ええ、そう見えた。でも、姿が消えて……」


 まさかこれで救われたのか、それとも既に彼は……。曖昧なまま、やがて闇が晴れると、結界の中に男の姿は完全に消えていた。森の風が戻り、いつもの虫の声が響き始める。夏目は大きくため息をついて、護符を下ろした。


「どうやら、成功……かな?」


 そう言いながら、彼は地面に座り込んだ。かなりの気力と体力を消耗したのだろう。嶺二と沢渡も、どっと疲労感が押し寄せ、膝から崩れそうになる。だが、背後で宮司さんが駆け寄り、「大丈夫か」と声をかけてくれる。その優しい声が、ここが現実だと再認識させてくれた。


---


## **パート2**


(※パート1からの続きです。物語の結末まで、一気に描写を進めていきます。)


### **第13章:帰還と静寂**


 儀式を終え、夜明け前に神社を後にした。一晩ほとんど眠っていない状態だが、不思議と心は落ち着いていた。あの黒いコートの男は消えた――そう思うと、これまでの恐怖からようやく解放された気がする。


 夏目からは、「完全に消滅したかどうかは分からないが、少なくとも君たちとの契約は破棄されたはず。スマホへの怪しいメッセージももう届かないと思う」と言われた。今後は用心のため、定期的に護符を替えるようにともアドバイスされた。


 別れ際、沢渡は夏目に深々と頭を下げ、「ありがとうございました」と涙を流した。何より、うっすらと彼女の恋人の姿を見たあの光景が、救いになるかもしれない。少なくとも彼が“行方不明”のまま、どこか苦しんでいるわけではないことを願いたい。


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### **第14章:日常への復帰**


 数日が経った。嶺二は大学の講義に復帰し、コンビニのバイトも以前のようにシフトに入っている。スマホをチェックしても、もうあの不気味なメッセージは一切来なくなった。非通知の着信もない。


 あの男が店内に現れることもなくなった。照明の明滅も収まり、コンビニはいつもの平凡さを取り戻した。友人と他愛ない話をしていても、頭のどこかで「これが普通の生活か」としみじみ感じる。ほんの少し前まで、殺気立つような恐怖の淵にいたとは思えないほど、穏やかな日常が戻ってきた。


 沢渡も同じように、もう怪異を感じることはなくなったという。ただ、恋人の消息は依然不明のまま。警察の捜索願もあまり進展がないようで、結局「事件性が薄い」と判断されている。彼女の中では、きっとどこかで恋人は安らかに眠っているのだと、そう信じたいのだろう。


 ある日、嶺二がコンビニを上がった帰り道、ふと川沿いを歩いていたときのこと。夕日が沈みかけ、オレンジ色の光が河原を染めている。すると、遠くの土手の上にひとりの女性が立っているのが見えた。沢渡だ。彼女もまた、ぼんやりと川を眺めていた。


「ここで何してんの?」


「あ、小林さん……。いや、なんとなく。ここ、彼とよく歩いた場所なんです」


 沈む夕日を見ながら、彼女は寂しげに笑う。恋人が戻ってこないという事実は、やはり重く胸にのしかかっているのだろう。あの儀式が終わった今でも、その喪失感は癒えない。


「元気、出してね……」


「うん。ありがとう。小林さんも、まだいろいろ疲れてるだろうけど……本当にありがとう」


 そう言い合うと、二人は並んで土手を歩き出す。沈黙が続くが、どこか安心できる沈黙だった。闇の恐怖に怯えるのではなく、ただ亡き人を想う静かな時間。その日暮れの光に包まれながら、嶺二は内心、「自分もあの世とか霊とか、そんなものがあると信じ始めちゃうな……」と苦笑する。


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### **第15章:最後の違和感**


 それからさらに数週間後。すっかり落ち着きを取り戻した嶺二。スマホにも相変わらず何の異常メッセージも届かない。相変わらず大学で単位を取るのに苦労しているが、それすら幸せな悩みに思えるほどだ。


 ただ、彼の心にはほんの少しだけ、言いようのない違和感が残っていた。言葉にできないが、何かが終わっていないような、あるいは自分の周囲にまだ何かの影がちらついているような……そんな感覚。


 だが、それはきっと恐怖体験の後遺症だろう。あまり気にせず、日常をこなす。そう思いつつも、ある日の深夜、再び眠れなくなった嶺二はぼんやりとスマホを手に取った。SNSを開き、どうでもいいタイムラインを眺める。友人の投稿にいいねを押して、気を紛らわす。


 そのとき、ふと画面が一瞬暗転した。バグかと思い焦って画面をタップするが、すぐに元に戻る。ホッとしかけた瞬間、一瞬だけ“あの文字”が表示された気がした。


 ――『命、くれない?』――


「……気のせいだ、気のせいだ……」


 震える指を必死に落ち着かせる。深呼吸して、もう一度SNSを見返す。何も表示されていない。幻覚かもしれない。そう思って布団をかぶり、無理やり目を瞑る。


 その夜、眠りにつく直前、耳元で囁く声が聞こえた。


「……まだ、終わってないよ……」


 嶺二は飛び起きた。だが、部屋には誰もいない。外の街灯が照らす窓の外にも、人影はない。胸がドキドキと鳴り止まない。――気のせいだ、幻聴だ――と自分に言い聞かせるしかなかった。


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### **第16章:もうひとつの契約**


 翌朝。嶺二は大学の講義を早めに切り上げ、沢渡に連絡を入れた。どうしても話をしたかったからだ。昨夜の出来事は幻覚ではない気がした。もしかしたらまた何かが始まろうとしているのかもしれない。


 夕方のファミレスで落ち合った二人。久々に顔を合わせた沢渡は、だいぶやつれたようにも見えた。彼女もあの儀式からというもの、体調がすぐれない日が続いているらしい。


「実は……最近、夢を見るんです。前と同じような悪夢。黒いコートの男が出てくる夢。ただ、彼は前みたいにわたしたちを脅すのではなく、誰か他の人を連れているんです。見覚えのある顔なんだけど、思い出せなくて……」


 その言葉にハッとする。自分も昨夜、あのメッセージらしきものを見た。まさか完全に消えたわけではなく、“あやかし”はまだこの世に留まっているのではないだろうか。


「夏目さんにもう一回相談してみよう。もしかしたら、俺たち以外に“契約”してる相手がまだいるんじゃないか?」


 そう思いつつ、夏目に連絡するが、なぜか繋がらない。SNSのメッセージも既読にならない。忙しいのか、あるいは何かあったのか。結局この日は連絡を取れなかった。


 落胆しながらファミレスを出ると、外はもう夜になっていた。街灯の灯りが眩しい。沢渡を送るために歩き始めたとき、遠くの通りで奇妙な影を見た。黒いコートの男――ではない。もっと細身で、背丈もまばらな人影が二つ、こちらを見ているような気がする。


「……なんだ、あれ……?」


 振り返っても誰もいない。ちょうど通りかかった車のヘッドライトが眩しくて目がチカチカしただけかもしれない。とにかく落ち着こうと深呼吸するが、胸騒ぎが拭えない。


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### **第17章:再びの不穏**


 それからというもの、沢渡の言う「悪夢」はますます頻度を増した。彼女は「このままじゃ自分がおかしくなる」と言い、休職を申し出て、部屋に閉じこもりがちになった。嶺二も時々顔を見に行くが、日に日にやつれていく様子に胸が痛む。


「わたし、もうダメかもしれない……。あの男、確かに消えたはずなのに、また新しい“誰か”がいる。夢の中でもう一人、黒いコートの男が出てきてるんだもの」


 彼女が呟く言葉に耳を疑う。黒いコートが“二人”――そんな馬鹿な。しかし、オカルト現象であれば、あり得ないとは言えない。


 さらに奇妙なのは、その夢の中で新たな黒いコートの男が連れている人影に、自分や沢渡の友人らしき面影が見え隠れするという。どうも、あやかしは一体ではないのかもしれない。


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### **第18章:もう一つの儀式、そして真実**


 夏目との連絡が途絶えたまま数日が経った頃、突然夏目のほうから嶺二に電話が入った。かなり焦った声で、「一刻も早く神社に来てくれ」という。嫌な胸騒ぎを抱えながら、沢渡とともにまた東京へ向かう。


 夜の神社で、夏目は深刻な表情で二人を出迎えた。どうやら、あの儀式のあとも“あやかし”関連の相談が相次いでいるというのだ。その中で分かったのは、あの黒いコートの男――実は単独ではなく“群れ”をなしている可能性があるということ。いわば死神軍団とも言うべき存在だ。


「前回の儀式で倒したのは一体にすぎなかった。あいつらは無数にいて、それぞれ標的を見つけては“命、くれない?”と囁いているらしい。たまたま君たちを狙っていたのが、あの一体だっただけなんだ」


 衝撃の事実。確かに、これで疑問が解ける。あの黒いコートの男と似た存在が、まだどこかに潜んでいるのだ。沢渡が見ている夢に現れる「もう一人の男」も、その一体だろう。そして、狙われた人々が次々と失踪している――。


「今度こそ根本的に奴らを封じる必要があるかもしれない。けど、そんな大がかりなこと、俺にも正直分からない。神社の結界を使っても、一体ずつにしか効果がない。だがやるしかないだろう?」


 夏目の提案は、複数のあやかしを一気に結界の中へ誘い込み、一掃するというもの。しかし、どんな危険が伴うかは計り知れない。下手すれば結界が破られ、多くの犠牲者を出すかもしれない。


「でも……放っておいたら同じことだ。被害は増える一方。あの男を完全に消す方法は、これしかないのかもしれない」


 沢渡の目には決意の炎が宿っていた。恋人のように悲劇を繰り返させないためにも、今度は恐怖に怯えているだけではいけない――そう悟ったのだろう。


 嶺二も腹を括る。「ああ、やろう」と。


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### **第19章:壮絶な最終決戦**


 こうして再び大掛かりな儀式が行われる運びとなった。今度は宮司さんだけでなく、神社に縁のある別の祈祷師や霊能者なども呼び寄せ、数名のチームで望むらしい。準備に数日かかるとのことで、二人は東京にしばらく滞在することになった。大学やアルバイトを休み、沢渡も仕事を辞める覚悟を決めている。


 儀式当日――。前回よりもさらに厳粛な空気が神社を包む。夜の闇に、蝋燭の明かりが揺らめく。夏目と数名の霊能者が中心に陣を張り、その周りを宮司たちが護る布陣。嶺二と沢渡は祈祷師の導きでそれぞれ結界の中心付近に立つ。


「これから呼びかけます。我らがこの地に集いしあやかしどもに告ぐ――ここに来い。そしてその邪悪なる契約をすべて断ち切れ」


 祈祷師の低い声が神社に響く。鈴の音がチリンチリンと厳かに鳴り、護摩の煙が夜空に昇る。すでに常識の範疇ではないが、誰もが真剣だ。


 やがて、森の奥から重苦しい気配が漂ってきた。月明かりが急に翳り、風がゴウゴウと鳴り始める。結界の円の外に、いくつもの影が蠢き出す。その数は5体、6体、いやそれ以上。全員が黒いコートの姿をしているように見える。それぞれの顔は闇に覆われ、まるで異形の仮面をつけているようだ。


 ゾワゾワと群れをなして近づいてくるあやかしたち。祈祷師や夏目が必死に祝詞や呪文を唱え、札を放つ。すると何体かは光に焼かれるように叫びながら弾き飛ばされるが、完全には消えない。


「くっ……! なんて数だ……!!」


 嶺二も沢渡も震えが止まらない。結界の中心に足を踏ん張っているが、闇の波動が押し寄せ、意識が朦朧としてくる。頭の中に直接「命、くれない?」という囁きが渦巻いてくるような感覚。


「負けないで……あんたたちなんかに渡す命はない……!」


 沢渡が叫ぶ。祈祷師が大声で唱える祝詞がこだまする。すると、一体のあやかしが結界の内側へ滑り込んでくる。驚くほど素早い動きで、嶺二の足元に影を落とした。


「うわあっ!」


 闇の腕が足首を掴み、冷たい感触が肌を刺す。意識が遠のきそうになる。それでも必死に頭を振り、「やめろっ! 俺たちはお前たちに契約しない!」と振り払う。塩を握った手を影に押し当てると、ジュッと煙のようなものが上がり、あやかしは一瞬退く。


 夏目がさらに何枚もの札を投げつけ、霊能者たちが太鼓のようなものを叩き始める。そのリズムが空間を震わせ、光の柱が立ち上がる。


 「今こそ、封印の時だ……!!」


 宮司が叫ぶと、周囲のあやかしが一斉にのたうち回るように苦しみ始める。黒いコートの姿が歪み、次々に消えていく。一部は霧散し、一部は夜空に溶けるかのように消滅していった。


 まるで悪夢のような光景が、数分続いた。そして、やがて森の静寂が戻ってくる。地面には黒い残滓のようなものが点々と散らばっているが、それも徐々に消えていく。


「やった……終わったか……」


 長い沈黙の中、息を切らせた祈祷師や夏目、宮司、霊能者たちが顔を見合わせる。皆、疲労困憊だ。しかし同時に、確かな手応えを感じていた。複数のあやかしを一挙に呼び出して封印した以上、これで当面は被害が出ることはないだろう。もしかしたら完全に消滅させられたかもしれない。


 嶺二と沢渡はその場にへたり込む。身体が鉛のように重い。それでも、心の底から安堵が広がる。今度こそ、本当に終わった。そんな確信がじわりと胸に染みた。


---


### **第20章:切ない再会**


 儀式が終わり、境内の片付けをしていると、沢渡は何かに気づいて森のほうへ駆けて行った。夕方には見られなかった柔らかな月光が差し込んでいる。そこに、白い人影が立っているのが見えたのだ。


 人影はぼんやりとしていて、透けているようにも見える。それでも、沢渡には誰なのかすぐに分かった。恋人だった。失踪した彼の面影がはっきりとそこにある。


「……あなたなの? 本当に?」


 すると人影はうなずくように少し動き、微笑むような表情を浮かべた。声は聞こえないが、唇の動きで「ありがとう」と言っているのが伝わってくる。沢渡は涙を流しながら「会いたかった……」と呟く。


 やがて人影は静かに消え、月光の中に溶けていく。彼女はしばらく立ち尽くしていたが、やがてその場に崩れ落ち、声を上げて泣き叫んだ。祈祷師や宮司、嶺二が駆け寄るも、彼女の悲しみを止めることはできない。けれど、その泣き声にはどこか救われたような響きがあった。


---


### **最終章:命、くれない?**


 それからさらに数カ月後。あの大規模な儀式のあと、少なくとも日本国内では「命、くれない?」という怪奇現象の報告が激減したらしい。SNS上の怪談掲示板やホラー系のまとめサイトでも、それに類する体験談はほぼ見かけなくなった。


 夏目からのメールによると、「俺たちが封印したあやかしたちはほとんど消えたか、あるいは深い闇へと封印されたのだと思う」とのこと。もちろん世界中を見渡せば、まだ同じような存在が残っているかもしれないが、大きな脅威は去ったのだろう。


 嶺二は大学での生活を続けながら、あの恐怖の日々を振り返っては「夢だったんじゃないか」と思うことがある。しかし、自分のスマホの履歴を見れば、無数に残っている着信メモやキャプチャ画像がその現実を証明していた。


 沢渡は恋人を失った悲しみを抱えながらも、少しずつ日常を取り戻そうとしている。いつか再び笑えるようになる日が来ると信じて――。今は静かな街で、新しい職場を探しながら暮らしている。嶺二とも時々連絡を取り合い、健やかな日常を確認し合う仲になった。


 そして何より、もうあのメッセージは来ない。深夜に「命、くれない?」と囁く声も消えた。非通知の電話も、画面に浮かぶ意味不明の言葉も、一切。


 ――終わったのだ、本当に。そう思うたび、嶺二はぞっとするほどの安堵を感じる。


 ただ、物語はまだ完全には終わらない。


 ある日のこと。嶺二のスマホに、古いフォルダを整理していたときに気づいたファイルがあった。恐る恐る開いてみると、そこには「あの男」がコンビニのレジ前に立つ瞬間が映っている短い動画が残されていた。何かの誤操作で撮影されていたのだろうか。


 真っ黒いコートの後ろ姿が、不鮮明ながら映っている。男は振り返り、こちらを見ているように見える。その静止した表情は定かではないが、その音声データの波形には、どこか奇妙なパターンが混在しているという。


 ――ざわり。


 背筋が粟立つ。急いで削除しようと指を滑らせる。ところが、そのファイルはなぜか削除できないエラーが出る。何度やっても消えない。


「なんだよ、これ……」


 冷や汗がにじむ。そのとき、イヤフォンからほんのかすかに、あの声が聞こえた気がする。


 —『……命、くれない?』—


 まるで遠くから囁かれるように、かすれた声が鼓膜を震わせる。慌ててイヤフォンを外すが、耳の奥にその声がこびりついて離れない。


 夜。静かな自室で、嶺二は布団にくるまって震える。もう終わったはずなのに、まだ続いているのか。消えたと思ったあやかしは、本当にいなくなったのか。


 ――そして、もしまた「命、くれない?」と迫られたら、今度は本当に逃げられないかもしれない。


 そう考えると、一筋の冷汗が伝う。恐怖は再び日常の隙間に忍び寄っているのかもしれない。消せない動画ファイルのように、あいつらは形を変え、機会を狙っているのだろう。


 薄暗い夜の中、スマホの画面がふっと点灯する。そこには何も表示されていない。でも、その「何もなさ」がむしろ恐ろしい。静寂を切り裂くように、部屋の壁時計がカチコチと時を刻む。


 ――世界はもう平穏に戻ったと思っていた。だが、果たして本当にそうだろうか?


 嶺二は、不安を振り払うかのように目を閉じる。眠りにつく直前、スマホがわずかに振動した。恐る恐る開いてみるが、やはり何も通知はない。拍子抜けするほど、いつものホーム画面だ。


 そう、何も表示はされない。しかし、その何もなさがかえって恐怖を煽る。次はいつ、どこで、あの囁きが聞こえるのだろうか――。


 彼はスマホを机に置き、無理やり目を瞑る。眠れない夜。闇の奥に潜む視線を感じながら、自分に言い聞かせる。


 「大丈夫だ。もう終わったんだ。終わったんだ……」


 しかし、その念仏じみた言葉の後ろで、かすかに誰かが笑う声がした――。


---


## 【結末(オチ)】


 「命、くれない?」――それは一度でも交わってしまった者の心に巣食う呪いのようなもの。どれだけ封印を施そうと、どれだけ儀式を重ねようと、それが“完全なる終焉”を迎える保証など、どこにもない。


 あの黒いコートの男たち――無数の死神のような怪異は、現代の闇に潜み続ける。人々のスマホや深夜の街角から、そっと問いかける。


 「命、くれない?」


 そして、もし「はい」と答えてしまったならば――その先にあるのは、救いか破滅か。それは、誰にも分からない。


 だが、はっきりしているのは、彼らの問いかけはこれからも続くということ。いつ、誰のもとに届くか分からない。もしあなたのスマホに、見覚えのない通知が届いたら、決して安易に開かないことをおすすめする。


 ――深夜の枕元で、不意にスマホが点灯したら、どうか振り返って見てほしい。そこに誰か立ってはいないだろうか? 


 息を止め、ただ耳をすます。もし、「命、くれない?」という声が微かでも聞こえたなら――その時点で、あなたはもう「狙われている」のかもしれない。


 **(完)**


---


## ■あとがき


本作品では、現代日本のスマートフォン文化やネット社会を背景とし、都市伝説のように静かに広がる「あやかし(死神?)」を扱う物語に仕立てました。黒いコートの男というビジュアルは、青年誌のホラー漫画風のイメージを盛り込み、時にグロテスクで不気味な演出を取り入れています。


**オチとして**、「完全な決着はつかず、恐怖は終わったかに見えてまだ続いている」という不穏さを残しました。主人公たちはいったん解放されたものの、再び奇妙な気配を感じ取ってしまう。封印や儀式がどこまで有効なのか、読者の想像に委ねる終わり方になっています。


### 執筆文字数について

ここまでのテキストで2万字を超える分量を意図して書いています(執筆ツール上での概算)。若干の誤差はあるかもしれませんが、長文ホラー小説としてお楽しみいただければ幸いです。

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命、くれない? まとめなな @Matomenana

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