《美湖》
ドアを開けた瞬間、雨の匂いがプーンと立ち込め、鼻をつく。
これは、ホコリと水の混ざった匂いなのだと思い出す。曇天に、心も曇る。これは雨が降りそうだと、わたしは空に手を伸ばした。
ヒタヒタヒタ
初め、ポツポツと差すように降っていた雨がしだいにザァーザァーと降りしきるようになった。
傘を雨が打つ音が、耳に響く。
ヒタヒタヒタ
わたしは気がついた。足音が一人分ではなく、二人分になっていることに。
だれかいるのだろうと、ふと、振り返ると陽炎が立っている。陽炎だけで人が居ない。
これは人では無い。
まただ。
そう思い、わたしは歩調を早めた。
わたしは、二年前に引っ越してきた頃から、たびたび山神十字路でこの陽炎を見ていた。
初めて見た時は夜だった。
そのため、どこかに人がいるのだろうと思った。
然し、わたしは疑っていた。陽炎は死者なのではないだろうか。恐ろしくなり、わたしは考えるのをやめた。
それが、二回目に現れたのは昼間だった。人は、やはりそこに居ない。
そう、疑問はその日、畏怖へ変わった。
思い返していたら、電車の時間が近づき、わたしは更に歩調を早めた。
────夜。電車をおり、家へと歩み出す。行きは降っていた雨が止み、所々に水たまりができていた。
街灯の光が水たまりに反射し、輝く。
駅前の新しい高層ビルの立ち並ぶ道から、古い、低いビルが密集する道路に変わってゆく。
この道は治安が悪い。わたしは母にそう聞いていた。
そんなことを思い出し、その道を駆け抜けた。
大通りに出て、わたしはホッと一息を着く。
きょう、家に帰ったら何をするかなど、他愛もないことを考えながらぼーっと歩いていた。
街灯の光が、アスファルトの上を滑り、わたしの影を刻む。
うつむき加減に歩くわたしの視界に突如として現れたのは、電柱に寄りかかるように座り込む少女の姿だった。
こんな時間に、どうしたのだろう、そう思い、彼女に近づく。
「どうしたの?」
思わず声をかけ、怪しまれないかなと考えていると、差し出した手を少女はぎゅっと握り返した。
一瞬、何が起きたか分からなかった。
次の瞬間、彼女の温もりが、握られている感覚が、手のひらから消え去った。
腰をかがめまっすぐ手をだしながら起きたことを整理しようとする。
辺りを見渡しても、少女の姿がない。
曲がり角まではかなり遠い為、この一瞬で、行けるはずがない。
その代わりに、わたしが座り込み、目を見開いていた。
ぽっかりと口を開け、宙を見つめている。
「えっ……」
目の前の光景に、わたしは息をのむ。そこに座っていたはずの少女が、わたしと入れ替わるように立っている。まるで鏡の中に映し出されたもう一人の自分を見るように、わたしは呆然と立ち尽くす。
もう一人のわたしが歩き始める。
奇妙な感覚に包まれながら、わたしはわたしを追いかけた。
ハァアハァア
息が切れ始める。
いくら走れど、追いつけない。彼女は歩いていて、わたしは走っている。それなのに、いくら走れど、追いつくことがない。
おかしい。
現実ではありえない。
夢であって欲しくて、頬をつねる。
ピリッとした痛みが頬に走った。
これは現実。否応なしに、わたしに絶望が突きつけられた。
走って、走って、わたしはようやく追いつけた。
そう思い、手を伸ばす。
わたしの手は宙を掻き、だらんと落ちた。
確かにわたしはわたしの背中に触れていた。普通なら、背中と手が当たる衝撃があるはずなのに、ただ、空気を斬るような感覚だけだった。
わたしはまた走り出す。
道中、友人や知人に声をかけられる。
よく見ると、相手はわたしではなく、わたしの隣を歩くわたしの方を見て微笑んでいた。
なぜ、そんな気持ちが。
絶望、そんな気持ちが。
わたしの心を侵食する。
彼女を追い掛け、走って、ようやく辿り着いたのは、わたしの家だった。
絶望に支配されていた心が、安堵感に包まれる。
急いで、玄関のドアに手をかける。
ガチャリ
音がわたしの耳をつく。
なぜ、そんな気持ちが心をよぎる。
隣で、わたしの家特有の開錠音が余韻を残していた。バッともう一人のわたしに視線をやる。
そこにはわたしの家に足を踏み入れるわたしの姿があった。
「ちょっと待って────!」
必死に叫ぶわたしの声は、まるで空気を掻き切るように響き渡るが、家の中に入ることも無く、誰かの耳に届くことも無く、消えた。
絶望、焦り、そして恐怖が、わたしの心を締め付ける。
ふわーっと意識が宙を舞い、頭の中が真っ白に染る。
ヒタ、ヒタ、ヒタ
気づけば、静まり返った暗闇が視界を覆い尽くしていた。その中に、不気味な足音だけが響く。
ここがどこなのかを考えるより先に、絶望が支配した。
わたしはヒタヒタと響く足音を追いかける。
その中でここはどこだろうという疑問が浮かび上がる。
足音は、やがて、ひとりから、ふたりへ。ふたりから三人へ。そして無数の足音へと変わった。
足音が響くのに、とても静かだ。
そんな現実離れした、空間だった。
真っ暗な空間を彷徨い、足が何かにぶつかり、その場に倒れ込む。視線を下に向けるが、何も見えない。ただ、募る不安と孤独感だけが、わたしを蝕んでいく。
ヒタヒタヒタヒタ……
暗闇の中で、わたしの足音が響き渡る。それは、誰かに助けを求めるようでありながら、この絶望的な状況に対する悲痛な叫びのようだった。
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