第2章 ユダヤ系大移民と映画との遭遇
第1節
アシュケナジムの大移動
第1章で挙げた映画のメジャーの創業者たちのユダヤ人比率が高いのは、単なる偶然ではない。上に挙げたような数人のユダヤ人だけが映画産業に貢献したのではなく、ユダヤという大きな集団規模で映画と関わりを持ったのである。流亡の民と呼ばれた彼らが、迫害などを経てパレスチナ地方から世界中に散らばった後、どのようにしてハリウッドに辿りつき、映画産業と結びついたのか。その答えを得るには、ユダヤ人のヨーロッパ諸国からアメリカ合衆国への移住というキーワードが切っても離せないのだが、その移住の流れはいくつかある。
最終的にアメリカに辿り着くユダヤ人は大きく2つに分けて、セファルディム(南欧系)とアシュケナジム(独・東欧系)に分かれ、最初の移住はセファルディムである。セファルディムの移住は、1492年にスペインでユダヤ人追放令が出されたことにはじまり、後にオランダ西インド会社の支援を得てニュー・アムステルダムにブラジルから23人のセファルディムが移住したことに始まる。しかし当初の移住は小規模で、独立宣言が出された1776年のユダヤ人人口はたったの約2500人だった。この章では、これ以降に移住することとなる、アシュケナジムのユダヤ系移民について触れていくが、そもそも、なぜユダヤ人はアメリカを目指したのか。経済人類学者の湯浅赳男は、その著書で以下のように述べている。
やはりヨーロッパはユダヤ民族を受け入れてくれる所ではなかったのである。(中略)ユダヤ民族にとって安住の地はあるのだろうか、それに対する第一の答えが、アメリカ大陸、とりわけアメリカ合衆国への移住であった。
北アメリカでは西ヨーロッパ社会を移植する動きがあったものの、開拓時代のアメリカでは、ピューリタンはユダヤ人に比較的寛容であったし、クェーカー教徒もカトリック教徒も同じ開拓者という仲間意識があり、ユダヤ人はヨーロッパほどの差別を受けることはほとんどなかった。1776年の独立宣言でもユダヤ人の平等の権利は保障されていた。このように自由のきくアメリカという選択肢を、ヨーロッパで受け入れられず、新しい居住地を求めたユダヤ人がとるのは自然である。このアシュケナジムのアメリカ移住を、ドイツ由来と東欧由来の2つの視点から見てゆく。
アシュケナジムの移住は1720年代から始まる。1700年頃のユダヤ人人口がおよそ200から300人だったのに対し、1880年には28万人に増加する。これはドイツ系アシュケナジムの移住によるところが大きい。1803年から1815年のナポレオン戦争を機にドイツ系アシュケナジムの流入が加速する。他の要因としては1848年のウィーン、ベルリンでの3月革命、カリフォルニアでのゴールド・ラッシュ等が挙げられる。彼らの中には今でも著名なユダヤ人も多く含まれていた。例えば、ゴールドマン・サックスの創業者のマーカス・ゴールドマンや、後のハリウッドへの重要な出資者であるクーン・レーブ商会を設立したエイブラハム・クーンやソロモン・レーブなどがそうである。アメリカ合衆国に渡ったユダヤ系ドイツ人たちは、祖国では手工業や商店を生業にすることが多かったが、彼らの中には渡米後、小さな行商人から大商人へと経済的に上昇する者も現れた。
東欧のユダヤ系の人々の渡米は、帝政ロシア下でのユダヤ人に対する集団的迫害、ポグロムに拠るところが大きい。この迫害から逃れるため、多くのユダヤ系東欧人が自由を求めてアメリカ合衆国に向かったと言っても過言ではない。ロシアでは15世紀頃から既に反ユダヤ主義が強まっており、18世紀までに、度々ユダヤ人追放令が出された。18世紀後半、エカチェリーナ2世の頃、当時ユダヤ人人口の多かったポーランドの分割によってロシアは約100万のユダヤ人を抱えることとなった。その後はユダヤ人の多さのあまり追放令が機能しなくなり、ゲットーに縛り付ける政策に切り替えられる。そして1881年、これら大量のユダヤ人が、アレクサンドル2世の暗殺事件で犯行グループにユダヤ人革命家がいたことを理由に、ポグロムで大迫害を受けるのである。
1870年ごろには、アメリカのユダヤ人コミュニティーでは世界に散らばるユダヤ人をアメリカに誘致する計画が進められていた。もちろん、ポグロムに苦しむ同胞も議論の対象となった。こうしてアメリカへのユダヤ系移民の中心はドイツから東欧に変化していく。迫害が激化し、東欧諸国からの脱出を試みたユダヤ系東欧人はまず、ウィーンを目指した。その理由としては、1848年の3月革命後はユダヤ人のウィーンへの流入禁止令が解かれた上、普墺戦争後の1867年には自由主義が認められユダヤ人も同等の権利が与えられたことなどが考えられる。その後、ウィーンでユダヤ人が地位を高め様々な分野で活躍し始めた頃、ウィーンでは経済恐慌が起こり、その原因をあたかもユダヤ人に擦り付ける形で反ユダヤ主義が強まったため、彼らは次の避難先として、隣のドイツを目指した。ドイツでは、大西洋横断に殺到するユダヤ人のおかげで、海運会社が大儲けできた。海運立国という建前上、ドイツはユダヤ人の渡航を歓迎した。その際、ドイツ帝国の海運王であり、同化ユダヤ人のアルベルト・バリーンがユダヤ人の渡航に協力した。これらの要素が移民を後押しすることとなった。ロシアでポグロムによって大量の難民が発生した結果、1880年から1925年までに、238万人ものユダヤ人がアメリカへ渡った。
以上のような流れを主として、ポグロムは大量のユダヤ系の東欧人をアメリカ合衆国へ移動させたのだが、映画が誕生しハリウッド映画が形成される19世紀末から1910年半ばにかけてはアメリカに移民が最も多く到来した時期だった。1890年から1915年にかけて1400万以上のイタリア系、ユダヤ系の東欧人を主体とする移民がニューヨークのエリス島を通って合衆国に入国した。1900年頃にはニューヨーク市の人口構成は、移民とその子の世代が8割を占めるほどだった。ユダヤ人のアメリカへの移民は様々な移民の中でも特に優勢で、アメリカの都市部にユダヤ人コミュニティーができていき、1900年には17.4%、1910年には26.3%、1920年には、ニューヨークはユダヤ人割合が過去最大の29.2%のユダヤ人都市だった。東欧系のユダヤ人が入植し始めた1870年には、米国のユダヤ人人口は全体の0.4%にあたるたった17万人で、それが1900年には米国移民の20%以上をユダヤ人が占めるようになり、1920年代半ばには、米国のユダヤ人人口は全人口の3.5%にあたる400万以上となった。彼らの他の移民との違いは、アメリカへの定着率であった。自身が東欧系ユダヤ人であるジャーナリストのC・E・シルバーマンはその著書で以下のように述べている。
ユダヤ移民にとって、アメリカ合衆国は彼らが母国と呼びうる唯一の場所であった。彼らが後にしてきた緊密な絆で結ばれた地域社会の生活をどれほど懐かしがったにせよ、ポグロムの恐怖と、ロシア、ポーランドの国策としての反ユダヤ主義を逃れて、彼らは有頂天であった。
20世紀初頭の非ユダヤ人移民は4割が祖国に帰り、イタリア移民は特に高い割合で7割以上が帰っている。それに対し、1903年にロシアのキシニョフで45万のユダヤ人が虐殺されたポグロム以降、ユダヤ人で祖国に帰った者はたった7%以下である。この少なさの原因はおそらく、ユダヤ人の多くが生まれた国ではのけ者にされ母国を持っていないも同然であったために、アメリカに来ることは地位の向上はあってもそれ以上落ちぶれることはなかったからであろう。
彼らは東欧からアメリカ合衆国に渡る過程でもますます数を増やしていった。ユダヤ人の世界人口は「1880年から1914年の人口増加率は2%で、750万人から1300万人に増加したと言われる。まず、正教会教徒の年間死亡率が1000人あたり31.8人であったのに対し、欧州ロシアのユダヤ人は1000人あたり14.2人であった。また、1855年のフランクフルトでの調査では、非ユダヤ人の平均寿命が36歳11ヶ月であったのに対し、ユダヤ人は48歳9ヶ月」であった。これはユダヤ人特有の相互扶助の精神によるものだろう。一足早くアメリカに渡って安定を得たドイツのユダヤ人が東欧の同胞を慮ったように、ユダヤ人が生活の上で周囲のユダヤ人と協力し合う姿が想起される。さらに、当時ユダヤ人は結婚年齢が非常に低く、「15から18歳の少年が14から16歳の少女と結婚することが普通であった」ため、出産までのサイクルが比較的短かったと考えられる。主として寿命の長さと多産から、ユダヤ人は増えていったと見られる。
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