第19話 お兄様
阿蘇山。
それは根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳からなる世界でも有数の大型カルデラと雄大な外輪山を持つ火山である。
阿蘇山を構成する五つの岳は阿蘇五岳とも呼ばれる。
その阿蘇五岳の最高峰を誇る高岳の山頂付近、天狗の舞台と呼ばれる高岳東峰の南側斜面、ミヤマキリシマの群落の一画に音夢の根城は存在していた。
穴を掘ってそこに小屋をぶち込んだような質素なものであるが、彼女の城である。
「はっ、ぅぁ、っっ――」
這う這うの体でなんとかアジトまで戻ったはいいが、頭の中はぐちゃぐちゃになっていたし、敏感になり過ぎて身体の方は風を受けるだけでびくんとする始末。
しかし、どうにかこうにか正気の一端を取り戻すことには成功した。あのままでは吸いつくされて死んでいただろう。
その実感が後から押し寄せてきて身を掻き抱く。
「なんなんですの、あれは……」
吸血鬼を吸血する吸血鬼という舌を噛みそうな存在がいるだなんて、聞いたことがない。
自分を吸血鬼にした親――生んだ親ではなく吸血鬼にした存在のこと――から根城から人を寄せ付けなくする人払いの術であったり、吸血鬼としてのイロハは学んだが、その中に彼女の存在はない。なかったはず。
正直、面倒くさい話は聞き飛ばしていたので、音夢としても聞き飛ばした中にあったのならば知らないのも道理である。
あんなのに目をつけられてしまった以上。、もうここにはいられない。
幸いにも音夢の異能は転移だ。異能によってマーキングを付けた場所、対象へ自分またはマーキングしている別の何かを自由に転移させることができる。
阿蘇以外にも熊本県内にいくつかのマーキングをしている拠点がある。県境に近い場所に転移してから県外へ逃走する。
「良し、行くわ――っな!?」
そう転移しかけたところで、圧倒的な圧力に地面へと押し付けられる。
「良い所だね。趣味が良いんだ」
「あ、あな、た――」
月下に佇むセラフィーナの姿を見ただけで、音夢は腰が砕けそうになる。
目を視てはいけないと慌てて顔をそむけたが、背けた先に美しい赤ワインのような瞳がじっと音夢を見つめていた。
まずいと思ったが、魅了はされなかった。
「え?」
「魅了なんてしないよ、お嬢ちゃん」
「なん、で……?」
「わかってるでしょう? 逃げたっていいよ、逃げられるのならね」
何を言っているのだろう、この女は。音夢の脳裏にハテナマークがいくつも浮かぶ。
魅了されないのであれば、逃げるに決まっている。いくら噛まれてマーキングがあると言っても転移を使えば逃げ切れないわけがない。
そう逃げてしまえばいいのに――。
「えっ……」
身体は逃げ出してくれない。逃げなければならないと頭ではわかっているというのに音夢の身体はむしろセラフィーナに近づいていく。
音夢の身体はゆっくりとセラフィーナの前に跪いて首筋を差し出してしまう。
「な、なに……?」
「キミの身体はよくわかってるみたいじゃないか。ボクに吸われて気持ちよかったんでしょ?」
「あっ……」
耳元に吐息を吐きかけられながら囁かれただけでがくんと膝が折れた。
「さて、それじゃあ残りも全部吸ってあげようか」
「ぁ、ぁぁ……」
再びその首筋へと牙を突き立てようとした時だ。
「おやおや」
声が響いた。
草木すら揺らさないような声だというのに、ねっとり耳にへばりつくかのようにはっきりとセラフィーナの耳に届いた。
反射的に身体を跳ね上げて声を探す。
「ここだよ、ボクの可愛い
「っっ!」
背後。しかし振り返った瞬間には、またその存在は背後にいて音夢が腕の中から消えている。
そこにいたのは顔のないと思えるくらいに顔に特徴のない陽炎のような男だった。
能面のようとすら思えるほどに均一で均整がとれていて全てにおいて嘘くさく薄い。
「血盟の末端とはいえ一員であったベネディクト・カーマインが死んだというから、見に来てみれば、まさかボクの可愛い仔猫がいるとは。ああ、そうかベネディクト・カーマインを殺したのはオマエか」
「誰かな」
「おやおや、忘れてしまったのかい可愛い仔猫。ボクだよ」
月明かりが彼の姿を照らし出すが、紳士然とした姿をした何かとしか思えない。男の形をしたものとしか認識できない。
数百年前の記憶の奥底にある言葉によって、一つの候補が浮かび上がる。
「まさか、エーヴェルトお兄様……?」
記憶の奥底にあるエーヴェルト・クーラリース・テッサリアの姿とは似ても似つかないが、繋がった血が彼こそセラフィーナの本物の兄であるエーヴェルトであることを示している。
セラフィーナのことを可愛い仔猫と呼ぶのは、家族の中では彼だけだ。そして、そんな彼を吸い殺したのはセラフィーナ自身だ。
苦々しい過去を思い出してセラフィーナは唇を噛む。
そんな彼女の様子を見ているのか、見ていないのか。彼は気にせず微笑み続ける。
「そうだよ。酷いじゃないか、可愛い仔猫。ボクのことを忘れてしまったのかい?」
「ありえない。ボクが吸い殺したはずなのに!」
「きちんと死んでいるか確認しておくべきだったね。おかげで色々と失いはしたがこうして元気に生きているよ」
「……今、何をしているのですか、エーヴェルトお兄様」
「忙しくしているよ。新たな血盟に入ってね。この姿は盟主のおかげさ」
「……そう。生きてて良かった。それじゃあその子、返してくれないかな。ボクの食事なんだ」
「いけないな、可愛い仔猫。この子は、ボクの
「んん……お父様……?」
音夢は今、傍にいる相手が誰だか気が付いたようだった。
「なるほど。その子を吸血鬼にしたのはお兄様だったんだ。お父様とか呼ばせてるとか気持ち悪いよ」
「仕方ないじゃないか。キミが家族を全て吸いつくしてしまったのだからね。新しい家族は必要だろう?」
「…………ふん。そんなことは良いんだ。お兄様が生きていたことも今はどうでもいい。今重要なのは、まさかボクから獲物を持ち逃げするわけないよね、お兄様」
「ああ、もちろん……持ち逃げさせてもらうよ。このままオマエに殺させれては可哀想だし、父親というものは娘を助けるものだろう?」
「反吐が出る言い分をどうも。妹の食事を横取りするのは可哀想じゃないって?」
「そうだよ。だってその方が、キミは悔しがってくれるじゃないか。ボクはそうやって顔を歪めるキミを見たいんだよ。それじゃあね、可愛い仔猫」
「ふざけるな!」
氷を放つが霞のように二人の姿は掻き消える。
「それは、ボクの獲物なんだよ!!!!!」
セラフィーナの怒声と悔しがる顔を嘲笑うエーヴェルトの薄ら笑いが響いた。
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