1.希望と絶望の大樹

第1話

雲ひとつない晴れ渡った空に、日が昇る。

 初夏とはいってもまだ多少冷える明け方に、朝陽の暖かさが身に沁みた。

 足元は見渡す限りの水平線。

 そこには今まさに彩り始めた大空が映り込み、天地もないような幻想的な光景が広がっていた。


 生き物の気配は全くない。

 鳥も魚も他のものも、ここに来てから何ひとつ見たことはなかった。


 ちゃぷん、ちゃぷん、と微かな水音を響かせながら、ゆっくりと砂地を歩く。

 水位はくるぶし辺りまでしかないけれど、緊張も相まって足取りは重かった。


 ちらりと隣に視線をやれば、すぐに気づいて淡い微笑みが返ってくる。

 それはまるで、 大丈夫だよと言っているような表情で、その薄緑色の瞳と少し見つめあっただけで恐怖が和らいだ。


 繋いだ手を、ぎゅっと握り直す。

 たったそれだけで嬉しそうに頬を染める姿が、とても綺麗だ。

 緩く波打つ長い髪が、陽の光を受けてきらきらと輝いていた。

 風などふいていないのに揺れる、その麦藁色が愛しくて。その場で立ち止まるとたまらず抱き締めた。


「······」


 頭ひとつ分小さい身体をすっぽりと包み込む。すかさず伸ばされた細い腕が背中に回った。

 お互いをしっかりと抱き締めて存在を確かめるのは、もう癖のようなものだった。


 本当は、ずっとこうしていたい。

 でも、それは叶わないから。


 ゆっくりと身体を離す。離れた体温がもう恋しくて、僅かに空いた距離が寂しい。

 まだ繋いだままの手だけが、絶えず温もりを与えてくれていた。


 うまくできたか解らないけど、微笑みかけてみた。

 柔かな笑みが返されれば、なけなしの気力が回復したようだ。


「······行こう」

「うん」


 ちゃぷん。

 また水音を響かせながら、再び歩き出した。






**********






「あった······」


「これが」

「うん」


 目の前にそびえ立つ、大きな大きな木。最早、木と呼ぶことさえ憚られる程の大樹が鎮座している。

 それはたった一本であるにもかかわらず、まるで森のように見えた。

 鮮やかな青空と、どこまでも澄んだ水面。天高く伸びた枝葉には、生命力溢れる緑が繁っている。


 しかしその下。根元には暗い影が落ちていた。

 何十人で手を繋げば囲えるのかもわからない程太い幹は、よく見ればうねった枝が幾重にも重なり縺れ合ったようになっている。

 それらの細い枝が寄せ集まって、一本の木となっていた。


 その木までは、まだ距離があった。

 それでも、あまりにも大きなその姿には怖いくらいの存在感があって。自然と身体が強ばった。

 近づくにつれ、枝葉の影が濃くなっていく。

 風もなく、葉も水面もひたすらに静かだったけれど、今にも動き出しそうな気がした。


 ぶるりと身体が震える。

 無意識に足を止めてしまうと、あいている方の手で自分の身体を抱いた。


「アンヘル?」


 心配そうに名前を呼ばれて、ゆっくりと顔を向ける。

 金糸で刺繍の施されたシンプルな白いマントが、影の中でひときわ眩しかった。


「······うん」


 大丈夫。

 僕は、やれる。


 彼女の、繋いでいない方の手が、そっと伸びてきた。

 指先で頬に触れてくる、柔らかい手のひら。

 温かくて、優しくて、どこまでも愛しいその温もりに。凍えかけていた心が解けた。


 ああ。

 彼女は、僕の光だ。


「行こう」


 大丈夫。

 もう一度そう自分に言い聞かせて、彼女の手に自分の手を重ねて頷く。


 そして、揃いの刺繍の施された紫紺のマントを翻して、再び歩を進めた。






**********






 遂に辺りは、黄昏時に近いほど暗くなった。

 分厚い枝と葉に頭上を覆われて、もう空は見えない。遠い木陰の奥に僅かに光が見えるだけだ。


 そこまで来れば、もう幹がよく見えていた。

 影の暗さも相まって、それは黒く見える。動きを止めて獲物を待つ蛇のようでもあった。

 突然此処に連れてこられてこれを見たら、きっと一本の木であるとは思いもよらないだろう。それくらいにそれは、異様だった。


 絡み合う幹のうねりの、その中に。所々古ぼけた布地があった。

 そして、その布地の中には、──白骨があった。


「······っ」


 暗さに馴れてくれば、それは自然と目に入る。

 初めは一体、二体と数えられたが、いつしか気がつけば数えきれない程の遺骨を見つけていた。


「······ねえ、アンヘル」

「······ん」


「この方たちが、天使?」

「······」


 そんなの僕だって知らない。

 でもきっと、そうなんだろう。


 だって此処は、そういう場所なのだから。


「シエラ」

「はい」


 僕はかすれた声しか出なかったけど、シエラはしっかりとした声で返事をした。


「······」


 言いたいことがあった。伝えなければいけないことが。

 でも、それ以上言葉がでなかった。


 これが最後なのに。

 もう、おしまいなのに。


「シエラ」

「······うん」


 名前を呼ぶことしかできない。

 それでもシエラは急かすでもなく、困るでも、もちろん怒るでもなく、ただ淡く、穏やかに微笑んで頷いてくれた。


 ──ああ。

 その笑顔が好きなんだ。

 春の日差しにあたったように、心が温もりで満たされる。

 新緑の瞳に目が眩んだ。


 大丈夫だ。

 何度目かわからない自己暗示を掛ける。

 シエラの生きる世界を、僕が守るって決めたんだ。


 だから。


「行くね」

「······」


 意を決して口にした。


 ずっとここまで繋いで来た手を離す。

 指は、呆気なく解けた。


 僕はシエラに向き直って、精一杯の笑顔を浮かべる。

最後だから、笑顔で。

 いつもシエラが向けてくれるような、愛しさを込めて。頑張って微笑むんだ。


 そう、思ったのに。

 やっぱりというか、案の定というか、出来なかった。


「······うっ」


 勝手に嗚咽が溢れだす。

 情けないやら、恥ずかしいやら、寂しいやら、悔しいやら。いろんな感情がごちゃ混ぜになって、涙と一緒に零れ落ちた。


 僕はばしゃっと水を跳ねさせて、膝をついた。

 シエラも目の前で同じように膝をつくと、僕の頭を包み込むように抱き締めてくれた。

 抱き返したかったけれど、それは死に物狂いで我慢した。

 きっと、すがってしまうから。手放せなくなってしまうから。


 だから、涙が渇れるまでみっともなく声を上げて泣いた。






**********





 いつしか涙は止まっていて、少しだけ気持ちも落ち着いた。


「ありがとう」


 きっとひどい顔だけど、今度は自然に笑えたはずだ。

 そっと身体を離して、立ち上がる。ブーツに入り込んだ水が不快でないのが不思議だな、と。どうでもいいことを思って、少しだけ本気で笑えた。


 もう、嘆かない。


「シエラ」


 愛してる。って、言いたかった。

 でも。


「幸せに」


 その言葉に全てを込めた。


 近くの、骸のあまりない当たりを見極めて木に近づく。

 少しだけ幹がねじれて腰掛けられそうな所に浅く座った。

 シエラは真正面に立って、ただ僕を見つめていた。


 さあ、始めよう。


 自分の内の魔力を練って、魔法を使う。

 身体中をめぐる血液の流れを加速させるような感覚は、あまり好きではない。

 それでも僕がやらなければ、この世界は滅んでしまうから。

 無心を心掛けながら、魔法を発動させた。


 これで世界は生き長らえる。

 シエラも暮らしてゆける。

 そこに自分は、いなくても。


 恐怖と悲哀の片隅で、微かな喜びを噛み締めた。

 それだけが唯一の救いであり希望だと信じて、僕は魔法を完成させ、目を閉じた。


 瞬間。


 突然唇に感じた柔らかな感触と温もりに、閉じかけていた目を開いた。


 そこにあったのは、揺れる麦藁色の柔かな長い髪。伏せられた目蓋が微かに震えているのがわかった。

 でも何が起きているのか咄嗟に理解できなかった。


 ただ甘い、甘い吐息が交わる。


「······えっ」


 思わず漏れ出た声はどこまでも間抜けな音で、自分の耳に返る。

 それも仕方ないはずだ。

 だって、最後の別れを覚悟した瞬間に、最愛の人と口づけを交わすなんて。冷静でいられる筈がなかった。


 ──この時混乱したことを、僕はずっと後悔する事になる。

 シエラが魔法を使った事に、気づきもしなかったから。


 不意に急激な眠気が襲ってきた。

 強制的に目蓋が落ちて、意識も沈んでいく。僕はなんとか腕を伸ばして、同じように力なく崩れ落ちるシエラを抱き留める。


 それから一瞬の内に、僕は深い眠りについていた。






**********






 眠りに落ちたのも一瞬なら、覚醒するのも唐突だった。不意に感覚が冴え、僕は目を開けた。


 身体は特に何ともなさそうだ。

 だるさや痛みもないし、腰から下は水に浸かってしまったけれど、抱き締められた身体は温かい。


 僕は自分に回された腕が目に入って、──固まった。

 ずるりと自分の肩からその腕が落ちる。ぱしゃんと水に落ちたのは、見慣れた腕。

 そこまで筋肉はついていないけれど、それなりに逞しくしっかりとしている、男の腕。

 その元を辿れば紫紺のマントが。更に視線を上げていけば、灰銀の髪。

 今は閉じられている瞳の色は、見なくても金色だとわかった。


「えっ、僕の、身体······」


 思わず呟いて、更に戦慄した。


 ゆっくりと視線を自分の身体へ向ける。

 今、目の前で眠っているのは、紛れもなく僕の身体だった。じゃあ、この身体は。今、自分が発した高い澄んだ声は──。


 恐る恐る確認すれば、身に付けている白いマントがまず見えた。そして、視界の端にはいつも目で追っていた麦藁色の髪。

 持ち上げてみた手のひらは、細くて白くて小さかった。


 ドクン。

 心臓が不快に鳴る。


「シ、シエラ?」


 何がどうなってる?

 訳がわからない。


 とりあえず目の前の僕の身体に白魚のような手を伸ばし、肩を揺すってみた。

 しかし、深い眠りに落ちた様子で目覚める気配は全くない。


「どうして、僕がシエラの身体に······」


 答えはどこからも返ってはこない。

 呟きは静寂にとけた。


 さっき、僕は魔法を使った。それは確かに発動して、僕は此処で眠りにつく筈だった。

 それがどういう訳か、眠りについたのは僕の身体だけ。僕の意識はこうして目覚めたままだった。

 ──シエラの身体で。


「······シエラ?」


 僕は意味もなく辺りを見回した。


 シエラは、魔法の発動を確認する役目を担っていた。僕の眠りを見届けて、一人で帰る。その手筈だった。

 そのシエラが、いない。


「シエラ?」


 身体は、ここにある。これは確かにシエラで、いつも見てきた彼女に間違いない。

 でもシエラの中身は、この身体にいない。

 それは──。


 さあっ、と。血の気が引いた。


「まさか······」


 力なく座り込んだまま眠る本当の自分の身体へと視線を向けた。

 正しく魔法を使って、深い深い眠りについている寝顔。それがどこか、穏やかに見えた。


「······シエラ!」


 膝をついて両肩を激しく揺する。しかし反応は全くない。


「魂魔法を、使ったのか······!?」


 それはシエラの持つ、特殊魔法。


「シエラ!ダメだ!」


 まずい。これはダメだ。

 絶対にダメだ。


「シエラ!戻るんだ!早く、起きて!」


 ぶんぶん揺さぶってもぴくりともしない。思いきって頬を叩いてみても、やはり意味はなかった。


「シエラ!シエラ!」


 急がないと。早く、早く。


「起きて!シエラ!早くしないと、」


 パキ。

 微かな音に凍りついた。


「······まずい!」


 この音が何かはすぐにわかった。

 もう時間がない。


「シエラ!起きるんだよ!早く戻らないと、君が······!」


 パキ、パキ。

 遠く、枝の先の方から少しずつ音が近づいてくる。


「それは僕の役目だろ!戻って!早く!」


 パキ、パキ、パキパキ。

 音はどんどん大きさを増して、耳に届いていた。


「どうしたら、どうしたら戻る······?」


 さっき魔法を使った時に、僕は何か間違えたのか?いや、ちゃんと発動した。現に身体は眠っているし、大樹も反応してる。

 じゃあ、やっぱり──。


 パキパキパキパキ。

 視界の隅で、金色の光が閃いた。


「······っ!もうそこまできてる!シエラ!!」



 何かある筈だ。こうなってしまった原因が。遣り方が。

 僕は必死に考えた。


 あの時。眠りにつく直前。何があった?

 シエラは何をした?


 ──そうだ。


「シエラ!」


 僕は乱暴に唇を重ねる。

 こんな時なのに変に緊張して、ドキドキするのが不謹慎極まりないけど、これしか思い付かなかった。


 あの時起きた予定外の行動は、これだけだった。だから多分、これで間違っていない筈。


 そう思ったのに。


「な、なんでだよ······」


 何も変化はなかった。


 パキパキパキパキパキパキパキパキ。

 もう目の前まで煌めきが差し迫っていた。


「シエラ!シエラ!」


 パキパキパキパキパキパキパキパキ。


「なんで、換わったりなんか······」




 パキン。




 最後にひときわ大きな音を立てて、大樹は琥珀へと姿を変えていた。

 僕はもう、言葉もでない。


 日の光を受けて、金色に輝く大樹。

 そしてその根元で同じように琥珀に包まれた、自分の身体。

 まるで至高の芸術作品の様な、神秘的で幻想的な光景。


 立ち尽くす僕の前には、あまりにも美しく、残酷な宝石があった。

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