第17話 人格の融合
遠くで、誰かの鼓動が聞こえる。
壁一枚隔てて、喜んでいる誰かの声が聴こえる。
これは……胎児の記憶だ。なぜかそう理解できた。
自分ではない、シァナイア・アンバースの生きた軌跡。記憶の奔流があっという間に押し寄せてきて、洋子の脳裏を満たしていく。
見知らぬ他人の感覚を無理やり覚えさされるのは、とことん苦痛を伴う作業だった。
いや、作業なのか、これ?
走馬灯のようにシャナイアのすべてが理解できた。
彼女の信念。
楽しかった記憶。女神と過ごしながら、任務に就いた日々。
シャナイアは孤児で、幼少児の記憶はほとんどない。
胎児の頃のものが、一番古く、印象に残った。
神殿に入り、寂しがり屋の女神様の相手を押し付けられ、特別な力と、特別な地位と、特別な友人を携えて、特別な任務をこなす。
特権を手にしたものは特別な責任を負わなくてはならない。
暗部と呼ばれる神殿の闇の一端を、シャナイアは背負って生きてきた。
暗殺とかスパイとか体を使って男たちから情報を得る、とかではなく。
過去に起きた魔法が関わる犯罪、事故、その他の関連する未解決の事象を、シャナイアはさっき洋子が授けられた聖槌と、とあるスキルを使うことで解決してきたのだ。
一般に、神殿の管理者たちの間で、凍結事象(コールドケース)と呼ばれるものが、それだった。
他人の記憶を受け入れることは、こういうことなんだと、普段使っている五感などより、もっと感覚的で直感的な技術を養わないと、シァナイア・アンバースの生きてきた人生から、新しい何かを学ぶのは、なかなかに難しいんじゃないかな。
洋子は瞼の裏をまるで気泡のように、透明な泡に包まれたシャナイアの記憶が過ぎ去っていくのを見て、そう思った。
ここは異世界だから、よくある他人のスキルとか経験値とか能力とか、記憶とかを奪い取って自分のものに転用可能な技術も進化しているのかもしれない。
それがもし、これだとしたら。
この異世界は、地球世界よりも、第六感のはるかに進んだ精神文化の成熟した、文化圏と言えるだろう。
シャナイアの個人を形成していた基本的情報が自分の中にインストールされて行き、後はもう忘れるだけになってしまった。
追い出そうとしても、それはできなくなった。
上書きをすることでしか、忘れることのできないもの。
故人の遺した貴重な経験の数々は、そういうものに変化して、洋子の頭の中で、彼女の人格や記憶と混じり合い、融合して、いきなり……消えた。
「おおっ!」
ぶわっ、と現実に引き戻される。
肉体から切り離されていた感覚が、あっという間に、元のあるべき姿へと戻ったからだ。
ジェットコースターで走っていたら、数倍の速度で逆走を開始して、スタート地点に戻ってしまってたように。
この感覚を味わうのは何度目か。
日本から異世界に。異世界から日本に。シオンライナの部屋で泣いた時もそうだし、今だってそう。
人生において普通ならそうそう得ることもない貴重な経験も、こんな短期間で何度も体験したら、それは日常に変化する。
はっ、と意識が鮮明になった。
うつらうつら居眠りをしていたら、叩き起こされてはっ、となる感覚に似ている。
洋子は真紅の瞳を瞬かせて、きょろきょろとあたりを見回した。
「どうした?」
「なんだかぼーっとしていましたよ」
黒狼とくノ一が心配そうに顔を覗きこんでくる。
なんでもない。手を振って、女神の方を睨んだ。
「これが一番手っ取り早いってことはわかりました」
「言葉にしなくても伝わるって素晴らしいだろ?」
「でもものすごく頭が痛いんですけど! 本物のハンマーで殴られたみたい」
「聖なるハンマーなら、そこにあるぞ」
回復魔法でもかけてやれ。女神ラフィネはまるで興味なさげに、シオンライナに命じていた。
くノ一聖女は、例によって例のごとく、炊飯の術で「聖食」を作り出す。
今度はほかほか、出来立てを味わうことができた。
「ふたつじゃ足りない」
「じゃあもっと出しましょう」
「食いしん坊だなぁ……。私も欲しい」
シオンライナガほいほいと量産する。
黒狼と洋子はそれを手づかみで、腹いっぱいになるまで、たらふく詰め込んだ。
「ごちそうさまでした」
「あー美味しかった」
「……女神の前で、ランチを広げるとはいい度胸だなお前ら」
ラフェネが苦笑しながら、指を鳴らす。
洋子はその独特の乾いた音に、つい心が弾んだ。
それは多分、彼女と人格を融合したシャナイガが、好きだった音だからだ。
女神と友人の時間が始まる時、この音が合図だったのだろう。
「女神様、ありがとうございます」
「お茶とは気が利きますねーさすが、女神様」
「おまえらもうちょっと神を敬え!」
呆れたような叱責が飛ぶ。
この独特の距離感は、異世界でしか味わえない。
日本いたのではまず知らなかった感覚だ。
面白い。
この世界で新たな人生を送るとしたら、それもまた楽しいのかも?
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