さらば、『日常』
はるより
本文
もう随分と秋めいた風が吹く、十月中旬の夕暮れ時だった。
何処からともなく、金木犀の甘い香りが運ばれてきている。
毘薙㐂はボトル入りの醤油と白い紙袋の入ったエコバッグを下げて、歩き慣れた家路に着いていた。
ガサガサと音を立てるナイロン製のバッグは妙に手の平に馴染んでいる。
毘薙㐂はその体質上、食事を摂る必要がない。
だから料理などする必要もないし、嗜好品程度に物を食べたいなら、コンビニで入手できる出来合いのもので十分だ。
それなのになぜこんな物を買っているかというと、ある日唐突に現れた同居人に頼まれたからである。
いや、現れた……というのは正しくないのかもしれない。
彼女はどうやらずっと毘薙㐂と共に暮らしていたらしく、毘薙㐂はその彼女に関する記憶のみを丸ごと失っているという状態なのだそうだ。
そんな事があるか?と初めは懐疑的だった。
しかし思い起こせば思い起こすほど、自分以外の誰かが共に居たと言われた方が納得のいく違和感に気付いてしまうのだ。
アパートの階段を登りながら、毘薙㐂は先日から考えていた事を思い起こす。
毘薙㐂は片付けが苦手だ。
腐る物が放置されていたり、床が全く見えないというほど散らかってさえいなければ良いと思っているタイプだったが、記憶の中にある部屋はいつも綺麗に整頓されていたし、掃除も行き届いていた。
絶対に自分では選ばないであろう家財がそこかしこにある。
毘薙㐂は道具に関して、実用性は重視するが可愛らしさだとかおしゃれさ、などのデザインに関しては無頓着な自覚がある。
にも関わらず、食器や日用品にやたらとファンシーなものが含まれていたり、色合いに統一性があったり…毘薙㐂以外の誰かが意図的に選んで揃えたとしか思えない。
そして、極め付けにはこれだ。
「ただいま」
ずっと一人で暮らしてきたのなら、言う必要のない言葉だ。
にも関わらず、自宅の扉を開けると共にするりと口から出てくる。
「お帰りなさい!」
ひょこ、とリビングに繋がる扉から顔を見せた彼女は、喜七という名前らしい。
彼女こそが、件の同居人である。
喜七は笑顔で廊下に出てくると、靴を脱ごうとしていた毘薙㐂から手慣れた様子でエコバッグを受け取った。
「ありがとうございます。お醤油切れちゃってたの、すっかり忘れてて」
「別に……このくらい、大した事じゃない」
申し訳なさそうにする喜七から視線を外して、毘薙㐂は玄関から部屋の中へと上がった。
「お夕飯、あと三十分くらいで出来ますから。それまでゆっくりしていてくださいね」
そう言って喜七は、ぱたぱたとキッチンの方に戻っていった。
毘薙㐂は洗面台で手を洗ってから、リビングに入ってソファに腰掛ける。
すぐそばのダイニングキッチンでは喜七が鼻歌を歌いながら夕飯の準備を進めていた。
お玉と菜箸を手に、鍋の中で味噌を溶かす彼女の背中をぼうっと見つめる。
どうやら、戸籍上で喜七とは夫婦関係となっているらしい。
だが当の毘薙㐂には、全く心当たりがない。
毘薙㐂には自分が女を娶っているという事実があまりにも衝撃的であり、現状が美人局か悪質な結婚詐欺につけ込まれている真っ最中だと言われた方が納得できるような有様だった。
そもそも毘薙㐂は他者との交流がそれほど好きではない。
人間社会で生きるにあたって、事務的な当たり障りのない会話や、悪目立ちのしない程度のコミュニケーションスキルは持っているが……可能なら、一から十まで一人で済ませたい性分である。
そんな自分が誰かを側に置こうなどと考えるだろうか、と不思議に思う。
それに仮に彼女の言っていることが全て事実だというのならば、一体どんな経緯で結婚にまで至ったのか。
例え誰かに言い寄られたとしても、毘薙㐂自身にその気がなければ煩わしく感じるだけだろう。
という事は、毘薙㐂自身が彼女に惚れ込んだというのか?どんなところに?
毘薙㐂は改めて喜七のことを考える。
気立てが良い上に器量も良い。
料理が上手い。
大変な働き者だ。
……家内として迎える相手としては、結構な理想形なのでは?
というより、毘薙㐂自身が人の身であった頃に思い描いていた『理想の妻』と言っても過言ではない。
それならそれでますます、何故そんな女と都合よく結ばれる事が出来たのかが分からない。
まさか、余りの妻欲しさに神力か魔術を使って錬成でもしたのだろうか。
毘薙㐂はそんな荒唐無稽なことを考えながら、ジトッとした目で自分自身の手を見つめる。
「あれ?なんだろ……」
そうこうしている時に、喜七の声が聞こえた。
目を向けると、どうやらエコバッグの中から醤油を手に取った喜七がもう一つ入っていた紙袋を見つけたようだった。
毘薙㐂は二、三秒考えたのちに、すっかりと忘れていたその紙袋の存在を思い出す。
「ああ、それか。スーパーに併設されてるパン屋があるだろう。焼き立てだって言って持ってきて……興味があったから、二人分買ってきた」
「そうだったんですね。何が入ってるかな〜」
嬉しそうに袋の中を覗き込む喜七。
そして動きをぴたりと止める。
「これ……」
一瞬、喜七の大きな瞳が揺れたのを毘薙㐂ははっきりと見た。
何か悪い事をしてしまったのかと思い、彼女に声をかけようとする。
しかしそれよりもほんの一瞬早く、喜七は笑顔に戻って袋の口を閉じた。
「お夕飯のあと、デザートに頂きましょうか!コーヒーと一緒に。」
「お、おう……」
彼女の反応は少し気がかりだったが、どうやら気落ちしたり怒ったりした様子は見られない。
少しほっとしながら、毘薙㐂はテレビのスイッチを入れる。
ニュース番組で、天気予報をやっているようだ。秋雨前線が日本列島全体に大きく掛かっている。しばらくは雨続きになりそうだ。
そこでふと、思った。
九月はいつの間に過ぎたんだろうかと。
*****
夕飯は、いつもながら素晴らしいものだった。
食卓に並べられた和食中心の料理は、恐ろしくなる程に毘薙㐂の口に合うものばかりなのだ。
……もしも記憶喪失の話が本当であれば、今の毘薙㐂は彼女の知る夫とは別人と言って差し支えないだろう。
毘薙㐂は何度も「そんな相手に尽くす義理はないだろうから、手間をかけてまで二人分用意しなくてもいい」と伝えようと考えた。
しかしテーブルを挟んで微笑みながら自身の方を見つめる喜七を前にすると、どうしてもそんな事を言うのは憚られてしまう。
デザートに食べたフレンチトーストはそこそこの味だった。
トレイに乗せて店員が運んできた時に反射的に購入してしまったのだが……毘薙㐂には少し甘過ぎたので、砂糖を入れていないコーヒーで流し込むようにして完食した。
対して喜七は嬉しそうにしていたので、買った甲斐はあった、という事にしておく。
そうして食事を終えた毘薙㐂はここ数日の日課通り、作業部屋へと篭っていた。
自分の記憶が当てにならないという状況は、予想以上にストレスを感じるものだった。
自分が当然だと思っていた事が端から否定されていくのだから、仕方のない事なのだろうが。
ただひたすらに、色とりどりの紐を交差させ、組み紐を編んで行く。
数百年の間に何度も繰り返した行いは、今が自分の中にある日常と地続きである事を認識させてくれた。
それを二、三時間も続けると、気づけば時刻は深夜零時を回っていた。
背伸びし、体を伸ばす。
今日はこんなところにしておこうかと思い、毘薙㐂は机の上に広げた道具を片付け始めた。
「ん…?」
その途中でふと、目に入った袖机の一番下の引き出し。
なぜか、鍵穴が養生テープで塞がれている。
「なんだこれ…」
勿論、毘薙㐂にはこんな事をした記憶はない。
執拗に重ねられたテープを剥がし、引き出しを開けてみようとする。
ガチャ、と小さく音はするが鍵が掛かっているようで、開けることができない。
そして、その中に何が収められているのかも思い出せない。
「……」
これも、 失われた記憶の一貫なのだろうか。毘薙㐂は、自分が鍵を隠しそうな場所を考える。
これだけ厳重に鍵穴を塞いでいるところを見ると、絶対に自分以外の誰にも開けさせたくなかったのだろう。
そんな大切な鍵の隠し場所とは、どんな所なのだろうか。
「……高いところではないはずだ」
独りごちておいて、勝手にコンプレックスに苛まれる。ある意味、候補は絞られるため助かるのだが……何となく敗北感が付き纏った。
重いため息をつきながら、別の候補を考えた。
たとえ強盗や、何も知らない人間が入ってきても絶対に見つけられないであろう場所。
作業部屋の中を探して回る。
ふと部屋の一角……毘薙㐂の趣味で集めたものの寄せ集めになっている箇所を見た。
その中に望遠鏡が収納されたバッグがある。
この望遠鏡に関しては、なんとなく記憶にある。ある日、どうしても天体観測がしたくなって、購入したのだ。
レンタカーを借りて、このアパートから少し離れた所にある山に向かって……草原に腰を下ろし、美しい星空を見上げた。
7月4日の誕生日星。
オミクロン1・カニス マーイョリス
星言葉は『ロマンへのあくなき追求』。
レンズ越しに見たその輝きを、今でも覚えている。
なんとなく懐かしくなって、バッグから望遠鏡を取り出した。
そして窓から空を見えるように設置すると、接眼レンズに目を当ててみる。
そこで、何も見えないことに気がついた。
というか……対物レンズ側が何かで塞がれている?さっき付属の保護カバーは外したはずなのに。
不思議に思い、毘薙㐂は対物レンズをくるくると回して外した。
すると望遠鏡の内側に隠されるように、布の巾着が貼り付けられているのが見えた。
使用されているのは、袖机の鍵穴を塞いでいたのと同じ養生テープである。
「これか。」
毘薙㐂は巾着を慎重に取り外すと、中を開けた。中には布の塊のようなものと、やはり小さな鍵が入っている。
どちらも取り出し、鍵は机の上に置いた。
布の塊を手に取る。こちらはなんだろうか。
毘薙㐂は恐る恐る重ねられた布を広げた。
すると、中に入っていたのは砕けた指輪だった。
大分年代物のようで、金属自体が脆くなっていたのであろうと察せられる。
ふとそこで毘薙㐂は、喜七が左手薬指に古ぼけたデザインの指輪を嵌めていたことを思い出した。きっとこれは、あれと揃いのものだったのだろう。
彼女と結婚していると言われた割に、毘薙㐂自身は結婚指輪をしていないのだなとは思ったのだが……どうやら壊れてしまっていたらしい。
「……」
きっと、この指輪の持ち主は伴侶と共に様々な思い出を重ねてきたのだろう。
……だが、毘薙㐂の中にはその一切が残されていない。
少し複雑な気分になりながら、指輪の残骸を元のように布で包み直し、巾着に戻した。
さて、こちらが本命だ。
机の上に置いていた鍵を手に取り、引き出しの鍵穴に差し込む。
ガチャン、と金属質な音を立てて鍵は開いた。
引き出しを引っ張ると、中にはぎっしりとノートが詰め込まれていた。
現代に多く使われているキャンパスノートから、茶色く変色した和綴のものまで何十、いや、百を超えているかもしれない。
とにかく大量のノートが収納されているのだ。
そして毘薙㐂は、このノートの存在を全く覚えていない。
それが意味するのはこれらが全て、『喜七に関する物』である、という事なのだろう。
毘薙㐂は、何だか少し恐ろしい気持ちになりながらもそのうちの一冊を手に取って開いてみる。
『1998/3/24 曇り
今日も私の妻が最高に可愛い。』
ばん、と両手でノートを閉じて指で眉間を押さえた。
何だこれ、日記?
恐る恐るさっきのページを開き、それから何枚かめくって見る。
薄目で見た中でも、『可愛い』『愛してる』『好きだ』『毎日結婚したい』だの、口の中が砂糖でジャリジャリとしそうな言葉が乱舞しているのが分かった。
莫大な数のノートの中身は全てこの調子で全部書かれているのだろうか。
だとしたら、とんだ色ボケ日誌じゃないか。
毘薙㐂はこのまま何も見なかったことにして引き出しを封印してやろうかとも思ったが……自分の中から消えた誰かへの興味が勝り、再度ノートを開く。
予想通り、ノートには日々の記録が書き付けられていたが……連ねられているのはどれもこれも、喜七のことばかりであった。
喜七の料理が格別に美味しかったこと。
お気に入りのワンピースを着た喜七が可愛かったこと。
喜七と手を繋ぐのが好きだが、夏場はたまに嫌がられてしまって悲しいこと。
喜七と服の共有をしてみたら、意外と骨格に差があるのか印象が全然変わって驚いたこと。
喜七の使っているシャンプーが変わったらしいこと。(書き手は前の物の香りの方が好みだったらしい)
喜七のむくれたときの頰が可愛いこと。
だけど結局、笑った顔が一番好きなこと。
喜七、喜七、喜七、喜七……。
「……本当にこいつ、喜七のことしか書いてないな」
半ば呆れたような、ここまで興味が一点に集中していると逆に感心するような。
しかし、日記に記されている内容はどれもこれも愛情に満ち溢れた物だった。
時々、彼らの身に何か大変な事が起きている様も読み取れたが……書かれている物の大半が日常の風景だ。
ぺらぺらと紙を捲る音が、静かな部屋の中に響く。
ふと、とある日の記述に目を止めた。
『2024/3/2 晴れ
今日は喜七と天体観測をしに行った。』
これは、先ほど触れていた天体望遠鏡を使用した日ことだ。毘薙㐂も、日付まではっきりと記憶している。
たしかこの日にしたのは、誕生日星が実際に見えるのは対応する誕生日の4ヶ月前だから、という理由だったはずだ。
やたらと楽しかった記憶はあるのだが……毘薙㐂自身は一人で星を見に行ったところで、そうはしゃげる性格でもない、とも思う。
「あの時も、本当はお前が隣にいたのか?喜七。」
続きに目を落とした。
『2024/3/2 晴れ
今日は喜七と天体観測をしに行った。
山で見た星空は白浄で見ていたものに比べると、少しだけ白んでいたようにも思える。
恐らく、山と言っても少し行けば大きめの街があるからだろう。白浄にいた頃にもう少し堪能しておけば良かった。今となっては遅いが。
喜七は二人で山の見回りをした日のことを初デートだと考えていたようだ。
そんな風に記憶されるなら、こう、もう少しロマンチックな事をしてやれば良かったとも思うが……当時は土地神としての務めを正しく教えなければと、私自身も緊張していたから、難しい話だったかもしれない。
でもデートだと言われたら、繰り返したあの日々の務めも少し良いものに思えて来るから不思議だ。
星を見ながら、喜七と色々な事を語り合った。
私と共に村を出て良かったと言ってくれた。
毘薙㐂が幸せなら、自分も幸せだとも。
正直、私は喜七のことを幸せにしてやれている自信がなかった。
出来るだけ苦労のないように、日々笑わせられるようにと努めているつもり、ではあるが。
実際はどうなのか目に見えるものでもないし。
それでも本人の口から幸せだ、と言ってもらえると救われるし、誇らしい。
それから、喜七と改めて式を挙げる約束もした。
結婚したと言っても、住み慣れた家の中で、二人で婚姻の儀を執り行ったというだけだ。
やはり、愛する人の晴れ姿を見たいというのは自然な考えだと思う。
花姫としての衣装もよく似合っていたが、喜七には絶対に白無垢が似合う。絶対に着て欲しい。絶対に。
正直な事を言うと、他者への配慮のない人間に囲まれて働くのは面倒だし疲れるが、喜七の事を思えば大した苦でもない。
秘密裏に貯めていた資金も、少しずつ目標額に近付いている。予定通りに行けば、今年の年末までには何とかなりそうだ。』
この日の記述は、ここまでのようだった。
下には翌日の日付と共に、また何でもない日常の話が続いている。
「婚姻の儀?あいつに、血と神名を与えたのか」
考えてみれば、当然のことかもしれない。
あの古ぼけた指輪が毘薙㐂と喜七を繋ぐ結婚指輪だったとして、喜七まだ二十歳にもなっていないように見えるうら若い女性だ。
彼女が人を辞めて毘薙㐂と同じ存在になっていた場合なら、歳をとっていない事にも説明がつく。
毘薙㐂は思い立って、ノートの中でも特に古く朽ちかけている冊子を手に取った。
そして破かないように気を付けながらゆっくりと頁を捲る。
そして見つけた。これだ。
日付は、今から六十数年前の一月一日。
間違いなく毘薙㐂自身の筆跡で書かれている。
『最愛のひとと結ばれることになった』
ただ一言だけ。震える文字だった。
毘薙㐂は訳もなく、涙が出そうになって慌てて冊子を閉じる。
自分の思い出す事の出来るこの六十年間の記憶は、いったい何なのだろうと思った。
計算してみると、山を出てからは三十数年。
ほとんどが曖昧だ。人間に混じって仕事をし、給金をもらいながら日々を送っていたことと、細々と色々趣味に手を出してみていたことは思い出せる。
しかしその程度だ。
土地神としての務めを放棄した身に、大きな楽しみもなく生きるのには長すぎる年月に思えた。
本当に何もないのなら、きっと毘薙㐂はさっさと自身の存在を終わらせる事を選んだだろう。
……空虚だ。
空虚な自分に対して、日記の中の『毘薙㐂』は一日一日の幸せを噛み締めて生きていた。
その対比があまりにも苦しくて、堪えたはずの涙がぼろりと落ちる。
自分がやけに感傷的になっているのが不気味で、毘薙㐂は手に持っていた冊子を半ば押し込むように引き出しに戻した。
今日はもう寝ることにしよう。
そう思って、部屋の隅に畳んで置いてあった布団を敷く。
「……あ」
枕からカバーが外されていることに気づいた。
そういえば、喜七が洗濯すると言っていた気がする。
替えのものは、寝室に置かれているラックに収納されているはずだ。
寝室。
もう遅い時間だから、とっくに喜七は寝ついているだろう。
この心情のまま、彼女のそばに行くのは何となく躊躇われる。
しかし裸のままの枕を使用するのは嫌だし、枕なしで眠るのはそれはそれできつい。
少しの間悩んだ後、諦めて寝室に取りに行くことにした。
恐る恐る、寝室の扉を開ける。
中は常夜灯で薄ぼんやりと照らし出されていた。思った通り、喜七は布団の中で寝息を立てている。
というか、このセミダブルサイズのベッド。
一人で使うには広々として良さそうだが、一つしかない事を考えると、当然のように二人で眠っていたのだろう。
今の毘薙㐂には信じられない心地であった。
金銭的にそこまで困窮してたわけではないのだし、せめてダブルサイズにすればいいのに。狭苦しくなかったのだろうか。
それとも、まさか、毘薙㐂が助平心を働かせて敢えてそうしたのか?
思い付いた事にゾッとする。毘薙㐂はさっさとカバーを持って戻ろうと、ラックを漁った。
「……毘薙㐂様?」
目的のものを手にして部屋から出て行こうとした時、ベッドの方からぼんやりとした声が聞こえた。
まずい、起こしたか。
別に犯罪を犯したわけでもないのに、毘薙㐂はぎくり、と動きを止めて硬直する。
「夢……こわいゆめを、みたんです。毘薙㐂様が……喜七のことを忘れてしまって……」
少しずつ、彼女の声は涙に曇っていった。
小さく嗚咽する音も聞こえる。
「はじめましてって……少ししたら、思い出してくれるかもって、思ったけど……ずっと、知らないひと、みたいで……」
「……。」
残念ながら、彼女の言う『こわいゆめ』こそが現実だ。
未だに毘薙㐂は喜七の事を思い出せてはいない。
……違う。
思い出せるものなら思い出したいのだ。
本当に日記に書かれていたような、暖かい日々が毘薙㐂の元にあったと言うのならば、その中で生きていたいとすら思うのだ。
けれど、違う。思い出せないのではない。
今の毘薙㐂の中に、きっとそんな記憶は存在してない。
頭の底に埋もれてしまっているのではなく……それ自体がないのだから、取り出せるはずがない。
その理由すらも分からない。
状況を知る度に、絶対にそこにあるはずと確信できる物がどうしても見つからない。
……それなのに何故か、彼女の流す涙に、身が引き裂かれそうになる。
やめてくれ、何なんだ、一体。
心の中で悪態をつきながら、ベッドの脇に歩み寄る。
毘薙㐂の姿を見て、ゆめとうつつの狭間にいる喜七が、小さく安堵の息を吐いたのが分かった。
床に膝をつくと薄明かりの中、喜七の顔がよく見えた。
薄く開かれた彼女の目尻から透明な雫がまた溢れて、シーツに染み込んてゆく。
うっすらと覗く瞳を見つめながら、改めて彼女のことを考える。
毘薙㐂自身にとっては、変わらぬ日常に突然闖入者が飛び込んできた、というような感覚だった。
けれど彼女にとっては、いつも身近にあった大きな愛が突然に消え失せて、その器だけが残っているという状況なのだ。
戸惑い、悲しいはずだ。
なのにここ数日を毘薙㐂と共に過ごしていた彼女は、悲しい顔ひとつ見せる事がなかった。
退院したその日、毘薙㐂は我が物顔で自宅内を歩き回る喜七の事が気に入らず、邪険な物言いをしたこともある。
それでも彼女はけろっとしていたから、案外喜七にとっての毘薙㐂は大した存在ではなかったのだと思っていた。
でもきっとそうじゃない。
彼女は記憶を失った毘薙㐂をこれ以上不安にさせないよう、気丈に振る舞っていたのだろう。
それにようやく気づいて、毘薙㐂はとんでもない罪悪感に苛まれる。
「ひなきさま……」
微かな声で、喜七が毘薙㐂の名前を呼ぶ。
弱々しい声だ。
まるで、親に捨てられた子が置いていかないで、と縋るような。
毘薙㐂は小さくため息をついた。
手を伸ばし、少し躊躇ってから……ぎこちなく、その柔らかい髪を撫でる。
「『……私はここにいるよ、喜七。だから、安心して眠りなさい』」
先ほど読んだ、大量の日記の中の毘薙㐂。
その中の像を必死でつなぎ合わせて、彼が口にしそうな言葉を紡いだ。
彼女を忘れた毘薙㐂なりの、精一杯の真心を込めて。
喜七はふにゃり、と幼児のような笑みを浮かべて、また穏やかな寝息を立て始める。
これで良かったのだろうか、という葛藤が無いわけでは無い。
しかし毘薙㐂は、夢の中でくらいは喜七が報われたっていいのではないかと思った。
今度こそ音を立てないように、慎重に寝室から出る。
そして作業部屋に戻り、枕にカバーを取り付けて眠ろうとした。しかし、眠れるはずもない。そもそも体質的には、毎日眠る必要もないのだが。
だけど、今から何か作業をする気にもなれないので無理やり目を閉じたままでいる。
瞼の裏に、先ほどの喜七の笑みが浮かんだ。
言葉ひとつで悲しみを消し去ってやれるほどに、喜七は毘薙㐂のことを信頼していたのだ。
きっとそれは、一日や二日で培われたものではない。長い時間をかけて少しずつ、彼女の中で育っていった信頼のはずだ。
「……なのに馬鹿か、毘薙㐂。お前はどうして一人で消えてしまったんだ。」
あまりにも残酷な『彼』の振る舞いに、毘薙㐂は腹を立てた。
それがかつての自分の行いだということが、より一層不快だった。
布団から身を起こして、蛍光灯を付け直す。
そして、また袖机の引き出しを開けた。
毘薙㐂の知らない
正直に言うと、何もかも知らないふりをして目を逸らしていたかった。
記憶が無くたって死ぬわけでは無いし、自身にとっての日常を続けられるのであれば、別にそれで良いと思っていた。
……けれど、だめだ。
誰かを深く深く溺れさせておきながら勝手に居なくなるなんて、余りにも身勝手すぎる。
別に今の毘薙㐂自身が喜七に償いたいと思ったわけではない。その罪は自分のものではないのだから。
ただただ、腹が立つのだ。自分がずっと欲しかったものを、何もかも得ておきながら消えた毘薙㐂の事が、許せなかった。
引き出しの中から、ひたすらに重いノート群を抱え出し、床の上に詰む。
そして一番古びた冊子を手に取り、意を決して一ページ目から読み始めた。
『この頃、社に遊びにやって来る、物好きな姉妹が居る。
結川のところの娘だ。名は、百華と一千花というらしい。』
それが、長く長く綴られた日記の始まりであった。
さらば、『日常』 はるより @haruyori
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