3. 海とボランティア

 光陰矢の如しとはよく言ったもので、気づけば夏休みも終わりが近づいていた。……夏休み?


「火花君、夏休みも終わりですね。宿題は済ませましたか?」

「……いや、俺、夏休みなんてありました?」


 週五日、学校へ通う日々。真夏でも変わらず登校させられるせいで暑さ耐性がついてしまった。まあ暑いものは暑いが。


「火花先輩は、えと、お休みなかったんですか?」

「どうだろ。毎日カボス部来てたせいで夏休みっぽさなかったんだよな」


 正面に座る後輩、陽ノ崎小冬。週に三日程度のペースで来ていた熱心なカボス部員だ。言うまでもないが俺は五日。斜め前でニコニコしている紫衣さんも五日。揃って熱心過ぎるおかしな部員である。


「ふふっ、火花君は私に会いたくて会いたくて仕方なかったんですね。まったく寂しがりで甘えたな生徒さんです」

「ええっ!? そ、そうだったんです、か?」

「いやちげえけど。気づいたら来てた。……これはこれで変だな。紫衣さん、なんで俺カボス部来てるんですか?」


 別に強制じゃないんだから休んでもいいような気がしてきた。でも休む気にはなれなかったんだよ。変な話だ。


「それはですね。火花君はカボス部に来るのが当たり前・・・・だからです」

「?――……あぁ、そうだった。当たり前だった、か」

「はいっ」

「そう、だな。陽ノ崎。当たり前だった。義務? みたいなもんだ。部活動なんだし、そういうもの・・・・・・だろ?」

「……そう、ですね。はい……」


 紫衣さんと陽ノ崎が何かアイコンタクトしていた。いつも通りの紫衣さんに比べ、陽ノ崎は少し沈んだ顔だ。


「どうした、甘いものでも食いたいか?」

「え、えっと……」

「うふふ、それは火花君ですよね?」

「そりゃそうですよ。俺はいつでも食べたい」

「……えへへ。先輩、子供みたいです」


 控えめに笑う後輩と、ころころ表情を変える美人と、ついでに仏頂面ばかりの俺と。夏休み中は本当に中身のない話ばかりをしていた。紫衣さんと二人の時はもっとくだらない、記憶にすら残らない会話ばかりなので陽ノ崎がいる時はまだマシだ。


 結局まともなボランティア依頼は夏休み最初の一度切り。

 歌のプレゼントは完成し、無事渡せたという報告だけ受けた。次の依頼はあるのかとたまに聞くが、いつも「もうしばらく待ってくださいね」と濁されていた。


「――ところで火花君、小冬ちゃん。今日はカボス部に二度目のボランティア依頼が舞い込みました」

「急っすね」

「今度は、その、どんなご依頼なのでしょうか……?」


 ふふんとドヤ顔の紫衣さんが詳しく説明してくれる。


「今回はお掃除です! 以上!!」


 詳しく、はなかった。一言だった。陽ノ崎と視線を交わし、どちらが質問するか決める。「先輩、どうぞ」「いや陽ノ崎でいいぞ」「ここは年の功で……」「……了解」と、渋い顔で頷く。


「紫衣さん」

「はい。ふふ、火花君が楽しみにしていたボランティアですよ? 嬉しいですか?」

「別に楽しみにはしてねえんですけど。それより掃除ってのは、なんだ。ごみ拾いとかそういうのですか?」

「そうですね。そういうのです」

「ボランティアっぽいな。……いつですか?」

「今日です」

「ん?」

「え?」

「今日ですよ?」

「「……」」


 再度、陽ノ崎と二人見合う。

 俺は目を落とした。陽ノ崎は苦笑した。紫衣さんはニッコリした。そういうことらしい。ボランティア、二回目始まりである。



 ――約一時間後。



 電車に揺られて一時間か二時間か。カボス部一同は八月の猛暑にぶう垂れながらボランティア場所までやってきた。一番文句を言っていたのは紫衣さんだ。一番元気良く楽しみにしていたのも紫衣さんである。

 天気は快晴、夏真っ盛り。強く吹いた風に運ばれる磯の香り。潮風。そして視界を埋める大海原。


「海か」

「海です、ね」

「海です! ほら二人とも、もっとテンションを上げてください!」

「う、海だぁぁー……」

「……」

「ひ、火花先輩も何か言ってくださいっ」

「悪いな。俺はクールに生きているんだ」

「うふふ、自称クールを気取っているだけの普通の子ですよ、火花君は」

「ひでえ言い様だぜ……」


 紫衣さんの台詞がグサグサ刺さる。後輩が恨めしげな目で見てくるので、しょうがなく「海だーーーー!!!」と叫んでおいた。言っている間に二人は先に行ってしまった。


「お、置いてくなよ!!」


 なんだかすごく情けないような気もしたが、努めて無視して二人を追う。


「今日の依頼は海沿いの掃除です。海水浴場にはなっていませんが、砂浜は一般開放されているのでそれなりに人が来るそうです。いわゆるデートスポットというやつですね」

「へえ。人が多けりゃマナーの悪い奴もいるってことですね」

「はい」

「それで私たちに、その、お掃除の依頼が来たんですね」

「はい。期限の指定はありませんが、ちょうど夏も終わりが近いですから。グッドタイミングです」

「夏が終われば海沿いを歩く人は減るか……」

「えと、ごみがなくなるのは嬉しいですけど……少し、寂しい、です」

「そうですね……」


 感傷的な女性陣に比べ、俺は特に何も思っていなかった。どうせ来年には夏が来るんだし、寂しくも何もない。そもそも暑いのは嫌いだ。そんな意見は口にしない。俺は空気が読める男なのである。


 紫衣さんたちが気を取り直したところで依頼人の下へ向かう。砂浜を歩いて数分。小さな屋台のような建物で人が立っていた。


「こんにちは。弐織におりさん」

「あら、こんにちは」


 影に居たのは麦わら帽子の上品な女性だった。

 紫衣さんから紹介されたので挨拶をする。俺と陽ノ崎を見て「夏休み中にありがとうねー!」と朗らかに礼を告げた。気の良さそうな女性だ。


 ごみ袋やトングは女性が用意してくれていたようで、水分補給用の水と塩や飴、さらには日避けの帽子まで貸してくれると言う。ボランティアで日射病・熱中症になっては堪らないので、喜んで借り受ける。


 俺はツバ広の布帽子。陽ノ崎は麦わら帽子だ。


「ど、どうでしょうか?……に、似合います、か?」

「おう。似合ってるぞ。可愛い可愛い」

「っっ! え、えへへっ」


 上目遣いで尋ねてきたので素直に褒めた。黒い髪によく似合っていた。帽子を下げて顔を隠す姿は小動物っぽくて、つい頬が緩んでしまう。


「火花君火花君」

「はいはい」

「どうです? 私も似合っていますか?」


 振り返り、薄灰色のツバ広帽子を被っている美人を見つける。落ち着いた大人っぽい帽子だが、何故かサングラスまで掛けていた。

 サングラスと眉の隙間から上目遣いで尋ねてくる。


「なんでサングラス?」

「ふふー、似合います?」

「……似合っては、いますよ」


 正直、目が見えないと表情がわかりにくくなってちょっと困る。


「もう、煮え切らない返事ですね。好みでいいですから、どうです? サングラス」

「……俺は、いつもの紫衣さんの方がいいと思います。陽ノ崎はどうだ?」

「わ、私ですか? えと、私も、はい。紫衣さんはその……め、目がとっても綺麗、ですからっ」


 俺が恥ずかしくて後輩へパスしたのに、その後輩はド直球な褒め言葉を投げていた。紫衣さんは大喜びだ。「うふふふ、小冬ちゃんは可愛い良い子ですね! 火花君も彼女を見習うんですよ?」とキャッキャしていた。


 何はともあれ装備は整い、ボランティアの開始だ。


 海沿いを歩き、ごみを拾う。

 強烈な日差しを潮風が緩和してくれているように思える。寄せては返す波が穏やかな日常の音を届けてくれる。


 夏の終わりの、青春の一ページ。――なんて、様にならなくて苦笑してしまう。俺のようなはみ出し者には縁遠いものだ。


「えと、ペットボトル、多いですね」

「だな。波に乗って流れ着いたのもあるんだろう。メッセージボトルなんかあるかもな」

「うふふ、火花君は詩人ですね。私がメッセージボトルなら置いてあげますよ?」

「……参考までに、どこに?」

「火花君の机の上に」

「……オーケーやめてくれ」

「じゃ、じゃあえっと、私はお二人のところに珍しい飲み物を置きますっ」

「ふふ、楽しみにしておきますね」

「中に手紙沈めたりしなくていいからな」

「え、えへへ。そんなことしませんよ?」


 和やかにごみ拾いは続く。じわじわと体力を奪う日差しは帽子を被っていても防ぎきれず、潮風を浴びた肌はべたべたと服を張り付けてくる。


「暑い」

「暑いですね」

「暑い、です」


 三者三様、否、揃って同じ言葉を吐く。


「紫衣さん、これどこまでの範囲が俺たちの担当なんですか」

「どこまででしょうね」

「えと、さっきの弐織さんからは何もお話なかったん、ですか?」

「ありませんでしたねー。海岸と言えばこの辺り一帯でしょう? たぶん!」

「「……」」


 振り向き、ニッコリと笑う紫衣さんに俺たちは顔を見合わせた。

 苦笑する陽ノ崎に、俺は深く頷く。


「さらば!」

「逃がしません!」

「な、なにぃ!?」


 ザッ! と砂を蹴って逃げ出そうとしたのも束の間、走り出す前に俺は捕獲された。たまに思うが、紫衣さんは先読みが過ぎる。俺のこと理解しすぎじゃないか?


「ふふーん、カウンセラーですから!」

「読心までしないでください」

「うふふ、火花君がわかりやすいだけですよ」

「……わかりましたから、離してください。逃げませんから」

「そうですか? はいっ」


 ぎゅっと抱きつくようにしていた体が離れていく。

 熱と温もりと、色々異性のあれやこれやが薄れてほっとする。


 頬を扇ぐ。ひどい暑さだ。


「あの、火花先輩」

「あぁ、おう、なんだ」

「あれ、漂流物? でしょうか?」

「アレ……?」


 陽ノ崎が指差した場所には人が倒れていた。


「漂流物ってか人じゃねえか!」


 おそるおそる近づいていく。遠くからではわからなかったが、人型なだけで人間ではなかった。何せその人型は素肌が金属質で、全身海藻に覆われていたのだから。


「ふむ、旧型アンドロイドのようですね」

「アンドロイドか……」

「海に落としたか廃棄されたかして、ちょうどここに漂着したようです。部室に持ち帰りましょう」

「え"」

「そ、それはその、だ、大丈夫、ですか?」

「はい。廃棄するにしてもちゃんと登録が必要ですし、これもボランティアの一環です。一度弐織さんのところへ戻りましょう」


 サクサク話を進める紫衣さんは、じっと俺を見つめてきた。察したのか、陽ノ崎も見つめてくる。


「……了解、俺が持てばいいんすね」

「うふふ、さすが私の生徒です。後でたくさん撫でてあげますからね!」

「じゃ、じゃあ私も……な、なでなでしますから」

「そ……そういうのは、いいんで」


 子供扱いから逃れ、意外に軽いメタリックな人型を背負う。

 ふと、後輩と先生の二人に撫でられ続ける光景を想像してしまった。我ながら酷い絵面で苦笑いが出る。さっきよりも、さらに暑さが増した気がした。





 海岸掃除ごみ拾いは恙なく終了した。

 途中休憩を幾度も挟み、水や食料を充分に補給し、さらには冷却スプレーやシートまで使わせてもらった。準備万端な依頼人に感謝である。


 アンドロイドに関しては学校まで車で送ってくれるそうで(ついでに俺たちも)、重いモノを運ぶしんどさは消えた。


 時刻は夕方。そろそろ日も傾き始めた頃。十八時。


「ふっふっふ、労働の後のお遊びは楽しいですね!」

「は、はいっ!」


 美女美少女が水遊び。他の人は見られず、波打ち際より遥か彼方に水平線が続く。輝く水面が目に眩しい。

 二人はそれぞれスカートを折り膝下を露出させている。陽ノ崎はともかく、紫衣さんはロングスカート以外の姿を見るのが初めてで新鮮だ。


「火花君も海に入りましょう! 沖合まで!」

「いや無理っす」

「えと、浅瀬なら楽しいですよ?」

「そうだな。そこまでなら俺も行くよ」

「うふふ、びしょ濡れの覚悟が必要ですねっ」


 俺は制服のズボンを捲っているだけなので、スカートよりは濡れやすい。ふくらはぎが限界点だ。


 水の掛け合い、なんてことはない。お互い上着はそのままで濡れて困るのは自分たちだ。ちゃぷちゃぷと足踏みし、手で掬ってみて、写真を撮って、少し歩いてみて。

 三人で些細な水遊びを楽しむ。心から楽しんで笑えるわけではないが……。


「――まあ」


 こんな時間も、悪くない。


「ふふっ、火花君、ご機嫌ですね?」

「そりゃ、ね。ご機嫌にもなりますよ。紫衣さんは?」


 自分の口元を触り、口角が上がっているのをそのままにする。紫衣さんは返事をせず手のひらに海水を溜め、俺を見てニッコリ笑った。


「えーいっ!」

「うぉお!!?」

「ふふ、あははっ、火花君っ、びしょびしょですね!」

「え、えへへ。先輩、びしょびしょですっ」


 俺のカウンセラーは髪を揺らしてころころ笑い、後輩も口元に手を当てくすくす笑っている。


「……こんにゃろぉー!!!」

「きゃあっ!!」

「ぴゃぅっ!!」


 手の届く距離に居た二人の腕を掴み、ばしゃりと海へ引き落とした。可愛い悲鳴を上げ、尻餅をつくカボス部一同。

 揃ってびしょ濡れだ。


「くく、ははは!」

「うふ、あははっ!」

「ふふ、えへへ」


 結局全員水濡れになったのがおかしくて、皆で笑ってしまう。

 水に濡れて困るとはなんだったのか。一度濡れてしまったら遊びも全力で、水の掛け合いはなかなかに楽しかった。基本二対一で俺が不利だったのは言うまでもない。


 海遊びを終え、夕日きらめく太陽を臨みながら俺たちは帰り支度を始めた。


「その、結構なごみがありましたね」

「だな」

「ですね。やはりプラスチック製品が多かったです。ごみの処理も大変ですよ」


 陽ノ崎が携帯の写真を眺めて言う。

 既にごみそのものはこの場にない。アンドロイドと合わせ、弐織さんが車で先に運んでくれた。そうしないと俺たちは乗れなかったからだ。車が戻ってくるまで今しばらくの待ち時間である。


「……二人とも、弐織さんが言ってたこと覚えてます?」

「? どのことでしょうか?」

「えと……ごみのお話ですか?」

「いや。……どうしてこの海岸を綺麗にしておきたいか、って話です」


 休憩中、なんとなく弐織さんに聞いてみた。何故ボランティアを募集してまで海岸を綺麗にするのか、と。

 海岸自体は半年に一度定期清掃されているらしいので、わざわざ個人が行動する必要はないのに……。


 弐織さんは微笑んで「この海岸はね。私が大切な人と二人で最後に歩いた場所なのよ。だから綺麗なままにしておきたいの。思い出の中だけじゃなくて、せっかくなら現実でも綺麗なままでね」と言った。


 大事な場所、思い出の場所。弐織さんにとってこの海岸は、とても大切な場所のようだった。


「その、思い出の場所、でしたね」

「大事な人との思い出を汚したくないと、そう話されていましたね。覚えていますよ。何か気がかりでも?」

「気がかりというか……」


 言葉にするのは難しい。

 海に目をやり、遠い果てに浮かぶ橙色を見つめる。


 別離。お別れ。前回のボランティアも似たような話だった。以前との違いは、別れる前か後かくらいだ。どちらにしたって"お別れ"自体は訪れる。それがどうにも……。


「……」


 沈みゆく日のように、俺の心も沈んでいく。


「火花君」

「なんすか?」

「いつの日か、別れは訪れるものです」

「っ」


 横を見て、俺と同じように夕日を眺めている美女を見つける。綺麗な横顔だった。


「どうしたって、別れは来るものなんです」

「それは」

「それが永遠か、一時かはわかりません。でも、人は成長するに連れたくさんの別れを経験するものです」

「……はい」


 言い聞かせる口調ではなかった。ただ事実を並べるような淡々とした、けれど優しい声音をしていた。


「小冬ちゃんもです。二人とも小学校中学校と卒業し、今は高校生ですね?」

「は、はい」

「ああ」

「これから高校を卒業し、大学か就職か。その後は転職に引っ越し、親戚家族との死別だってあるでしょう」

「「……はい」」


 紫衣さんは後ろにいた陽ノ崎の手を取り、俺の隣に並ばせた。眩しいようで儚げな夕日を、海の上の夕焼け空を三人で見つめる。


「数え切れない別れを経験し、子供は大人になります。寂しくて悲しくて、辛いことばかりかもしれません。お別れなんてそもそも寂しいものですからね」

「で、しょうね」

「は、い」


 俺だって小中学校を卒業してきた。祖父の葬式に出たこともある。歳を取るに連れ、多くの別れが訪れるとはわかっている。……わかってはいるのだ。


「でも」


 紫衣さんは俺たちを見る。大人の先生は、子供の生徒二人を見て破顔した。


「その分、たくさんの出会いもあります。友達、恋人、仲間、家族。これからの人生、過ごす時間の分だけ、別れ以上の出会いが二人を待っているんです」

「今友達いねえ俺にできるとは思わ」

「そこ! 余計なことはお口チャックです!」

「……あい」

「ふふ、よろしい」


 ピッと鼻先に指を突き付けられ黙らされた。隣からくすくすと笑い声が聞こえてくる。


「火花君が夕日に黄昏れて寂しくなって甘えん坊になる気持ちもわかります」

「なんっ!?!?」

「ふふ、先輩っ、えへへ」


 急激に顔が熱くなった。紫衣さんはすごい笑顔だった。やっぱこの人、読心術の使い手だ。いや別に甘えん坊にはなってねえけど……!


「別れを想って物寂しくなるのも仕方ないことです。けど、火花君は大事なことを忘れていますよ?」

「……はぁ。大事なことって、なんすか」

「それはですねー」


 紫衣さんは一歩踏み込み、俺たちをぎゅっと抱き寄せた。


「はいっ、お姉さんからのハグです!」

「っ」

「わ、わっ」

「うふふー、そのまま聞いてくださいね?」


 抗議の声を出そうにも、温もりに包まれて何も言えなかった。

 思春期の煩悩はあれど……それ以上に俺は思ったのだ。こうやって誰かに抱きしめられるのはいつ振りなのだろう、と。


「私たちは"今"を生きているんです。火花君は私という素晴らしいカウンセラーに出会い、小冬ちゃんという可愛い後輩にも出会いました」

「……おぅ」

「小冬ちゃんは、私という綺麗可愛いお姉さんと知り合い、火花君というダメダメな先輩とも知り合えましたね?」

「ふ、ふぁい」

「二人とも、素敵な出会いをしているじゃないですか。お別れの前に、この出会いを喜ばないでどうするんですか?」


 スッと、言葉が胸に降りてくる。

 紫衣さんの言うことにも一理あった。別れはある。あぁ確かに訪れる悲しいものだ。でも出会いだってあった。こんな俺でさえ、紫衣さんと出会い、陽ノ崎と出会えた。別れを想像し感傷に浸ってしまうくらいには良い出会いがあったのだ。


「未来を見る前に、火花君と小冬ちゃんは"今"を見るべきなんです」


 今を、か。


「二人はまだまだ若いんですから、若者らしく全力で今を楽しみましょう?」


 離れ、体温がなくなることに一抹の寂しさを覚える。微かに首を振り感情を散らす。

 陽ノ崎と目を合わせ頷く。


「了解。紫衣さん、気を遣わせたかもしれません。すいません」

「ふふ、構いませんよ。私は先生ですから」

「えと、ありがとうございます、紫衣さん。私、忘れませんから。ちゃんと今を楽しみますっ」

「ええ。そうしてください。未来に悩むのは老人になってからでも遅くありません」

「いやそれは遅いだろ。進路とか仕事とか」

「はいお口チャックでーす!」

「むご……」

「ふふ、えへへ。先輩、ふふ、真面目過ぎですよ?」

「小冬ちゃんの言う通りです。火花君は無駄なところで無駄に真面目なんですから。無駄に」


 無駄無駄言い過ぎだろ、という言葉は出なかった。紫衣さんの手に俺の唇は塞がれていたのだ。

 抗議の目を向けていると、美人が悪戯に笑う。


「うふふ、もう、エッチな生徒さんですねぇ。私の手のひらとキッスだなんて、なんてこと考えているんですか、もうっ!」

「!!?」

「せ、先輩っ!?」

「むごーーー!!」


 やんやんと首を振る紫衣さんは万力のような握力で口を塞いでくる。全然除けられない。風評被害がひどいぜ。この人、一切俺の心読めてなかった。なんだよ手のひらキッスって。ふざけんな……くそぉ、ちょっと意識しちまったじゃねえか!!


 一切動かせない手とキャッキャと女子トークに励む二人から意識を逸らし、俺は夕焼け空と夕焼け海に黄昏れる。先ほどの寂しさは立ち消え、代わりにたっぷりの諦めと何とも言えない温かな気持ちが胸に満ちていた。


 でも。


「……」


 やっぱり俺は、大切な誰かとの別離なんて経験したくないなと思った。



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