第2話  つながりの始まり



朝の通勤電車の中で、美咲は目を閉じていた。もう慣れてきた、他者の感情が流れ込んでくる感覚。田中の呼吸の重さ。優子の朝の不安。それらは、まるで自分の一部のようになっていた。


システム開発部のフロアに到着すると、机の上には休職中に積み重なった仕事の山が待っていた。プロジェクトの締切は延期されたものの、それは単なる猶予に過ぎない。


「お帰りなさい、青山さん」

池田が笑顔で声をかけてきた。

「体調は大丈夫ですか?」


「ええ、だいぶ...」


言葉の途中で、激しい痛みが走った。今朝の回診。田中の抗がん剤治療が、また新しい段階に入る。その知らせを受けた時の重い空気が、病室に満ちていた。


「青山さん?」


「ごめん、ちょっとトイレ」


個室に駆け込み、美咲は深いため息をついた。スマートフォンには、昨夜作成した表が開かれている。


『田中昭男(75)

- 抗がん剤治療:月・水・金

- 面会可能時間:14時-19時

- 薬の副作用:吐き気、倦怠感』


『山下優子(13)

- 下校時間:16時頃

- 病院訪問:ほぼ毎日

- いじめの形態:無視、持ち物隠し、SNSでの誹謗中傷』


手帳のような記録をつけ始めて一週間。他人の感情を感じ取れるのなら、少しでも役立てたい。そう思って始めたことだった。


「あ...」


突然、優子の不安が強まった。教室。今日は国語のテスト。答案用紙の上で、インクが滲む。机の横を誰かが通り過ぎる度に、体が強張る。消された黒板の跡には、かすかに『死ね』の文字が残っている。


美咲は咄嗟にスマートフォンを取り出した。メッセージアプリで優子との新しいチャットを開く。三日前、病院で交換したLINEだ。


『大丈夫?』


返信を待つ間も、教室の緊張が伝わってくる。誰かが後ろから優子の椅子を蹴った。それを見て笑う声。教師は気づいていない。あるいは、気づかないふりをしている。


『わたし、もう...』


途中で途切れるメッセージ。その時、田中の感情も重なってきた。病室のベッドで、新聞を読むふりをしながら、彼もまた優子の状況を感じ取っていた。


「青山さん、企画会議が」

上司の声に、美咲は慌てて席に戻った。


午後三時。会議室の窓から見える空が、妙に青かった。プロジェクトの進捗報告をしながら、美咲の意識は絶えず分散していた。田中の抗がん剤の副作用。優子の教室での孤立。自分の中で交錯する他者の痛み。


「この案件の担当、青山さんでいいですか?」


「え?あ、はい」

何の案件か、よく聞いていなかった。会議終了後、資料を確認しなければ。


スマートフォンが震える。優子からのメッセージだ。


『今日、学校に行きたくない。でも、病院には行く。田中先生の具合が悪そう』


美咲は時計を見た。あと二時間。仕事を切り上げて病院に向かえば、二人に会える。だが、新しい案件の資料作成もある。


「田中さん、また痛みが」

看護師の声が聞こえてくる。点滴の量を調整する音。


そして、教室。

「山下さん、保健室行く?顔色悪いわよ」

担任の心配そうな声。


美咲は立ち上がった。

「部長、すみません。急用が」


これは、もう仕事だけでは済まない現実だった。


市立総合病院の七階に着いたとき、すでに日は傾きかけていた。エレベーターを降りると、すぐに田中の痛みを感じ取る。今日は特に強い。


「あ、青山さん」


ナースステーションの前で、優子と出会った。制服姿の彼女は、いつもより小さく縮こまっているように見えた。声を出さなくても分かる。今日、教室で何があったのか。


「先生の具合が」

優子の声が震える。

「わたしのせいみたいで...」


「違うわ」

美咲は即座に否定した。

「あなたは、何も悪くない」


701号室のドアをノックする。返事はなかったが、二人で静かに中に入る。


田中は窓の外を見つめていた。点滴の針が刺さった腕が、わずかに震えている。夕暮れの光が、痩せた横顔を優しく照らしていた。


「お二人とも、来てくれましたか」

振り向いた田中の表情には、かすかな笑みが浮かんでいた。

「今日は、少し話があるんです」


美咲と優子は、いつもの位置に座る。この一週間で、すでに自然な距離感が生まれていた。


「優子さん」

田中の声が、元教師の威厳を帯びる。

「今日、教室であったことは、私にも分かります」


優子の肩が震えた。美咲は思わず手を伸ばしかける。


「でも、あなたは逃げなかった。保健室にも行かず、最後まで授業を受けた。その強さを、私は感じていました」


「でも...」

優子の声が途切れる。

「もう、耐えられない。お父さんがいないこと。クラスのみんなが避けること。先生も気づいてくれないこと。全部、全部...」


その時、田中が激しく咳き込んだ。痛みの波が三人に広がる。だが、それは違う種類の痛みだった。


「耐える必要はありません」

田中は、咳の合間に言った。

「私たちは、もう一人じゃない」


その言葉が、病室に静かな確かさを広げる。


「実は」

美咲は、かばんから一枚の紙を取り出した。

「担任の柏木先生に、面談を申し込もうと思います」


優子の体が強張るのを感じる。


「私は、システムエンジニアとして、情報の扱い方を知っています」

美咲は慎重に言葉を選んだ。

「SNSでの誹謗中傷も、証拠として残せます。それに...」


言葉が詰まる。懐かしい記憶が、急に鮮やかによみがえった。十五年前の教室。自分が加害者として関わったいじめの記憶。そして、何も言えなかった担任教師の表情。


「青山さん?」

田中の声が、記憶の淵から美咲を引き戻す。


「私には、伝えなければいけない経験があります。だから」


「でも」

優子が小さな声で遮った。

「先生に言っても、何も変わらない。むしろ、もっと...」


「変わりますよ」

田中が、静かな確信を持って言った。

「今度は違う。なぜなら」


突然の痛みに、田中の言葉が途切れる。が、言葉を継がなくても、三人には分かっていた。彼らには、誰も持ちえない「つながり」がある。


「あのね」

優子が、久しぶりに少し明るい声を出した。

「実は、明日の国語の授業で、グループ発表があるの」


美咲と田中は、優子の中に芽生えた小さな希望を感じ取っていた。


「テーマは『大切な人への手紙』。わたし、お父さんのことを」

優子の瞳が、わずかに潤んでいた。


「素晴らしいテーマですね」

田中の声が、かつての教師としての温かみを帯びる。

「私からも、アドバイスを」


その時、廊下から急ぎ足の音が聞こえた。


「田中さん、検査の時間です」

看護師の声に、三人の会話は中断する。


「また明日」

美咲は立ち上がりながら言った。

「優子の発表、私たちにも感じられるはずだから」


帰り際、病室のドアに夕陽が長い影を落としていた。そこには、まるで三人の影が重なって見えた。


翌日。美咲はオフィスのデスクに向かいながら、優子の緊張を感じ取っていた。朝のホームルーム。机に「うざい」と書かれた付箋。それでも、優子は原稿用紙を大切そうに抱えている。


「青山さん、この仕様書」

上司の声が聞こえる。

「ちょっと確認したい部分が」


「申し訳ありません」

美咲は咄嗟に立ち上がった。

「少し体調が...トイレに」


個室に駆け込む。今、優子は教室の後ろで順番を待っている。田中も病室で新聞から目が離せない。三人の鼓動が、不思議なシンクロを刻んでいた。


「次は、山下さん」

教師の声が聞こえる。


クラスメイトたちの視線が、冷ややかに優子を捉える。だが、今回は違う。彼女は一人じゃない。


「私の、大切な人への手紙」

優子の声が、かすかに震えながらも教室に響く。

「お父さんへ」


ざわめきが走る。先月まで、病室で点滴を受けていた父親のことを、誰も知らない。


「お父さんが最後に私に言ってくれた言葉は」

優子の声が少しずつ強さを増していく。

「『優子には、きっと分かってくれる人が現れる』でした」


美咲は、トイレの個室で目を閉じた。田中は、病室のベッドで静かに頷いている。


「今、私は一人じゃないことを知っています。離れていても、私の気持ちが誰かに届いている。そして、誰かの気持ちが私に届いている」


教室が静まり返る。いつもの冷ややかさとは違う、何か別の空気が広がっていた。


「だから、お父さん。心配しないでください。私は──」


その時、予想外の出来事が起きた。後ろの席の女子が、小さく咳払いをした。そして、優子の言葉を遮るように、


「私も」

かすれた声が聞こえた。

「私も、あの時、何か言えばよかった」


その声は、クラスの空気を一変させた。それまで固く閉ざされていた教室の空気が、少しずつ溶けていくのを、優子は感じていた。


美咲は個室で息を呑む。これは、十五年前の自分が見た光景と重なっていた。誰かが最初の一歩を踏み出すこと。その勇気が、凍りついた空気を溶かしていく瞬間。


病室で、田中が目を閉じている。かつて教壇に立っていた時、似たような場面を何度も目にしてきた。子供たちの心が、突然の風のように動き出す瞬間を。


「山下さん」

担任の柏木先生が、少し声を震わせながら言った。

「続けてください」


優子は原稿用紙を見つめたまま、小さく頷いた。

「お父さん。私は、もう」


その時、激しい痛みが走った。田中だ。美咲は慌ててスマートフォンを取り出す。病室からのメッセージ。


『緊急検査。でも、大丈夫。優子さんの声が、確かに聞こえています』


教室では、優子の言葉が続いていた。

「もう、逃げません。だって、お父さんは最後まで逃げなかった。痛みと闘い続けた。その娘の私が」


後ろの席からすすり泣く声が聞こえる。それは先ほどの女子だけではなかった。


「山下のお父さん、がんだったの?」

「知らなかった...」

「私たち、ひどいことを」


ささやき声が教室に広がる。そして、それは次第に、心の中の声になっていった。美咲にも、優子にも、そして病室の田中にも届く声。


申し訳なさ。

後悔。

そして、小さな希望。


「はい、ありがとう」

柏木先生が、優子の発表を締めくくった。その声には、どこか晴れやかなものが混ざっていた。


その時、廊下を走る足音が聞こえた。ナースステーションの騒めきが、三人の感覚に流れ込んでくる。


「青山さん、大丈夫ですか?」

トイレの外から、同僚の声。

「顔色が悪いって、部長が」


「はい、あの...」

美咲は慌てて個室を出た。頬が湿っているのに気づく。優子の発表の感動か、田中の痛みか。もう、自分の感情と他者の感情の境界が曖昧になっていた。


「早退させていただきます」


オフィスに戻り、PCをシャットダウンする間も、病室の様子が断続的に流れ込んでくる。心電図の音。医師たちの声。点滴を替える音。


そして、教室。

放課後の掃除の時間。普段は一人で黙々と掃いていた優子の周りに、今日は別の空気が流れていた。


「山下、これ一緒にやろう」

「お父さんのこと、もっと早く言ってくれればよかったのに」

「ねぇ、病院って、まだ行ってるの?」


優子の心の中で、困惑と希望が混ざり合う。突然の親切に戸惑いながらも、温かさが胸に広がっていく。


美咲は階段を駆け下りながら、スマートフォンを確認する。

メッセージ。

『青山さんへ。田中先生の容態が急変して...』


病院に着いた時には、夕暮れが迫っていた。エレベーターを待つ間も、七階の様子が手に取るように分かる。


「血圧が下がっています」

「酸素濃度を上げて」

「ご家族には連絡を」


エレベーターのドアが開く前に、優子の存在も感じ取れた。彼女も、今、病院に向かっている。


「田中さん」


701号室に入ると、いつもと違う重さが空気を満たしていた。ベッドの上の田中は、酸素マスクを付けて横たわっていた。だが、その意識は清明だった。


「お二人とも、来てくれましたね」

かすれた声が聞こえる。

「優子さんの発表、素晴らしかった」


「先生...」

美咲が声を震わせる。


「大丈夫です」

田中の目が、穏やかな光を湛えていた。

「こんな時だからこそ、伝えておきたいことが」


その時、ドアが開いた。優子が駆け込んでくる。制服姿のまま、息を切らしている。


「先生!」


「ゆっくりでいいんです」

田中の声には、かつての教師としての優しさが満ちていた。

「お二人に、話しておかなければならないことがあります」


酸素マスクの下で、田中の唇が動く。

「実は、私にも似たような経験が」


医療機器の規則正しい音が、病室に響く。


「三十年前。当時の教え子と...不思議なつながりを持ちました。彼女は、いじめに遭っていた。でも、教師の私には、その苦しみが分からなかった」


田中の言葉に、美咲と優子が息を呑む。


「ある日突然、彼女の感情が分かるようになった。なぜか、私にだけ。でも、その時の私には、その意味を理解する勇気がなかった」


心電図の音が、一瞬乱れる。


「結果として、彼女を守れなかった。転校という形で、逃げることを選ばせてしまった。それが、私の人生最大の...」


「先生」

美咲が遮った。

「今は、お話しにならなくても」


「いいえ」

田中の目に、強い意志が宿る。

「だから、お二人との出会いは、私にとって贖罪のようなものだったのかもしれません。今度は、きちんと向き合えると」


優子が、そっと田中の手を握った。温かい。生きている。


「でも、これは贖罪なんかじゃない」

田中が続ける。

「これは、きっと...希望なんです」


その瞬間、三人の感覚の中に、何か大きなものが流れ込んできた。まるで、時空を超えた感情の渦のような──。


それは、誰も経験したことのない感覚だった。三人の意識が、まるで一つに溶け合うように交わる。病室の風景が歪み、過去と現在が重なり合う。


三十年前の教室。

泣きじゃくる少女の姿。

若かった田中の後悔。


十五年前の廊下。

いじめに加担した美咲の記憶。

言えなかった「ごめんなさい」。


そして今。

優子の教室。

変わり始めた空気。


「これは...」

美咲が声を震わせる。


「私たちだけじゃない」

優子が小さくつぶやく。

「他にも、きっと」


心電図の音が、急に強くなる。田中の意識が、しっかりとしてきた。


「そうです」

田中の声が、以前の力強さを取り戻していく。

「私たちは、選ばれたんです。この体験を、次へつなげるために」


窓の外で、夕陽が燃えるように輝いていた。その光の中に、まるで未来が見えるかのように。


「先生」

優子が立ち上がる。

「明日、柏木先生に話します。全部」


「私も行きます」

美咲も頷く。

「今度は、逃げない」


田中は静かに目を閉じた。だが、それは諦めの閉眼ではない。まるで、新しい何かが始まることを確信するかのような安らかさだった。


その時、廊下から新しい足音が聞こえてきた。

三人の意識が、同時にその方向を向く。


そこには、思いもよらない人物の姿が──。


***


数日後、美咲のパソコンには一通のメールが届いていた。

差出人:柏木教諭

件名:『面談のお願い』







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