『感情量子』 つながれない世界でつながった私たち
ソコニ
第1話 プロローグ
画面に浮かぶエラーログの赤い文字が、青山美咲の目の奥で踊っていた。デスクに積み上げられた空の缶コーヒーが五本。締切まであと三日。システムの最終テストで見つかった不具合の修正は、まだ道半ばだった。
「青山さん、今日も残業?」
「ええ、もう少し」
声をかけてきた後輩の池田に、美咲は振り向きもせずに答えた。モニターに映る自分の疲れた顔が、ブルーライトに青ざめて見える。二十八歳。システムエンジニアとして四年目。待ったなしのプロジェクトに追われる日々は、もう慣れているはずだった。
その時だった。
突然の痛みが左胸を刺した。息が詰まるような激しい痛みに、美咲は思わず身を縮める。だが、それは自分の痛みではないことに、すぐに気がついた。
どこか遠く、白い部屋。点滴の滴る音。消毒液の匂い。見知らぬ老人が、誰もいない病室のベッドで、夜明けを待っている──。
「え?」
美咲は慌てて周囲を見回した。オフィスはいつもと変わらない。空調の音と、キーボードを叩く音だけが響いている。だが、確かにそこにいる。知らない誰かの感情が、波のように押し寄せてくる。孤独と諦め。痛みと、かすかな希望。
やがてそれは引いていった。幻覚だったのかもしれない。徹夜続きの疲れか。美咲はコーヒーに手を伸ばしたが、その指は小刻みに震えていた。
画面のエラーログは、まだ消えていない。締切は待ってはくれない。美咲は深いため息をつき、キーボードに手を戻した。
だが、その日を境に、彼女の世界は確実に歪み始めていた──。
翌朝。会社のエレベーターの中で、それは再び始まった。
今度は波のような痛みではなく、じわじわとした鈍痛。そして、息苦しさ。見知らぬ誰かの体の感覚が、まるで自分の一部であるかのように流れ込んでくる。白い病室。窓から差し込む朝日。点滴の透明な管。ベッドに横たわる痩せた手。
「田中さん、朝の検温です」
看護師らしき声が聞こえる。美咲は思わずエレベーターの壁に寄りかかった。自分の耳で聞いた声なのか、それとも誰か──田中という名の患者の耳を通して聞こえた声なのか、区別がつかない。
「7階」
エレベーターの到着を告げる音で、感覚は途切れた。同僚たちが次々と降りていく中、美咲はしばらくその場に立ち尽くしていた。まだ体の中に残る、見知らぬ誰かの感覚。確かにそこにいる、他人の存在。
「私、どうかしてるのかな」
自分に言い聞かせるように呟いて、美咲は自席に向かった。パソコンの電源を入れ、昨夜まで取り組んでいたコードを開く。普段通りの作業に没頭すれば、この奇妙な体験も忘れられるはずだった。
しかし、正午過ぎ。今度は激しい不安に襲われた。教室。ざわめく声。背中に突き刺さる視線。机の上に散らばった消しゴムのかす。誰かが投げた消しゴムの破片だ。
「山下、答え合わせやるから」
黒板の前の教師の声。山下──。知らない名前なのに、その呼びかけに体が反応する。喉が締め付けられるような感覚。立ち上がることへの恐怖。クラスメイトの視線を感じる度に、心臓が早鐘を打つ。
「青山さん、ランチに行きません?」
池田の声に、美咲は現実に引き戻された。モニターには、さっきまで書いていたはずのコードが、意味をなさない文字列として並んでいる。キーボードを打つ手が、いつの間にか止まっていた。
「ごめん。今日は午後から休むわ」
背筋を伸ばし、美咲は席を立った。これは、もう無視できない。
人事部に提出した診断書には「自律神経失調症の疑い」と書かれていた。医師は不眠と過労を指摘し、数日の休養を勧めた。だが、美咲は知っている。これは疲れなどではない。
帰りの電車の中で、再び田中の感覚が襲ってきた。今度は痛みよりも、懐かしさが強かった。誰かの古いアルバム。母親らしき女性の笑顔。運動会で走る子供の後ろ姿。そして、深い後悔。
「あの病院、確か...」
スマートフォンで検索すると、感覚の中に現れた風景と同じような建物が見つかった。市立総合病院。自宅からそれほど遠くない。美咲は降りる駅を一つ先に変更した。
病院の自動ドアをくぐった瞬間、体が反応した。ここだ。七階。確かな手応えがあった。エレベーターに乗り込もうとしたその時、
「お姉さん、具合悪いの?」
振り返ると、制服姿の中学生が立っていた。見覚えのない顔。だが、その声を聞いた途端、さっきまでの教室の光景が蘇った。山下。彼女もまた、ここにいる理由があるのか。
しかし、少女は美咲の存在に気づいていないようだった。携帯を見ながら、誰かを待っているような素振りで立ち尽くしている。その姿に近づこうとした時、
「面会時間は終了しています」
事務的な声に、美咲は我に返った。窓の外は、もう夕暮れ。今日はここまでにしておこう。だが、これで確信が持てた。幻覚などではない。この病院に、確かな手がかりがある。そして、あの少女も──。
二日後、美咲は再び病院を訪れていた。今度は面会時間に合わせて。
「七階、循環器内科」
エレベーターのボタンを押す指が、わずかに震えている。昨夜も、田中の痛みで何度か目が覚めた。抗がん剤の副作用だろうか。吐き気と脱力感。そして、誰にも見せない涙。
七階の廊下に出ると、また例の感覚が強まった。心臓の位置が、まるで共鳴するように響く。ナースステーションの前を通り過ぎ、その感覚に従って歩いていく。そして、個室の前で立ち止まった。
「701号室、田中昭男様」
名札を見た瞬間、体の中で何かが確かめるように震えた。ノックをしようとした手が止まる。この行動は正しいのだろうか。見知らぬ老人の病室を訪ねる二十八歳のOL。どう説明すれば──。
「どうぞ」
考え込んでいる間に、中から声がした。深いため息をついて、美咲はドアを開けた。
「こんにちは」
白いベッドの上で、痩せた老人が本を読んでいた。田中昭男、75歳。まるで古くからの知人のように、その情報が美咲の中にあった。視線が合う。
「ああ、あなたですか」
意外な言葉に、美咲は息を呑んだ。
「私のことが、分かりますか?」
「ええ、なんとなく。この二、三日、誰かの存在を感じていました。若い女性で、コンピューターの仕事をしている。そして──」
言葉が途切れる。激しい咳に襲われ、田中は体を丸めた。その痛みは、美咲の体にも響いた。思わず駆け寄る。
「大丈夫ですか?水を──」
「ありがとう。でも、これには慣れています」
咳が収まると、田中はベッドの上で姿勢を正した。
「座りませんか。お互い、話すことがありそうですね」
差し出された椅子に腰掛けながら、美咲は言葉を探した。どこから話せばいいのか。非現実的すぎる状況に、まだ戸惑いが残っている。
「私も最初は、痛みの幻覚かと思いました」
田中が先に口を開いた。「でも、あなたの仕事の様子や、締め切りへのプレッシャーまで感じ取れた。そして、もう一人...」
「もう一人?」美咲の背筋が伸びる。「中学生の女の子のことですか?」
「ええ。彼女の不安も、時々感じます。教室での出来事も」
窓の外を見つめる田中の目が、深い思いを湛えていた。
「実は、私は元教師でした。中学校で数学を教えていて、退職してから五年になります。あの子の感情を感じた時、懐かしさと同時に...心配になりました」
その時、廊下から話し声が聞こえた。
「お父さん、また後で来るね」
下校時間だろうか。制服姿の山下優子が、向かいの部屋から出てきた。美咲と田中は、思わず顔を見合わせた。
「あの子のお父さんは、私の同室だった方です」田中の声が低くなる。「先週、亡くなられた」
その言葉に、美咲は胸が締め付けられる感覚を覚えた。それは自分の感情なのか、優子のものなのか、もはや区別がつかない。
「でも、あの子は毎日来ています。父親の空いたベッドの横に座って、宿題をしたり、スマートフォンを見たり...」
「いじめの標的にされているんです」
美咲は思わず口にしていた。「教室で感じました。消しゴムを投げられたり、机に落書きされたり。でも誰にも...」
「言えない」
田中が言葉を継いだ。「そう、言えないんです。父親には心配をかけたくなかったのでしょう。そして今は...」
病室に重い沈黙が落ちる。三人の感情が、まるで揺れる波のように響き合っていた。
「私にも、似たような経験があります」
美咲は自分でも驚くような声で話し始めた。「中学生の時、クラスメイトをいじめる側にいました」
田中の眼差しが変わる。だが、非難の色はない。
「何もできなかった。ただ、流されていただけ。でも、その子の気持ちが分かっていたはず。分かっていたのに」
言葉を継ごうとした時、廊下から物音が聞こえた。優子が戻ってきたのだろう。向かいの空き部屋に入っていく足音。そして、込み上げる悲しみの波が、三人の間に広がる。
「あの子は、ここが安全な場所なんです」
田中が静かに言った。「教室では見せない素顔を、ここで見せている。亡くなった父との思い出が、まだこの病室に残っているから」
美咲は立ち上がった。
「行ってきます」
「どこへ?」
「向かいの部屋です。私たち三人は、きっと理由があってつながれた。だから...」
その時、激しい痛みが田中を襲った。美咲も思わずたじろぐ。だが、田中は痛みの中で小さく頷いた。
「そうですね。私たちにしか、できないことがあるのかもしれません」
美咲は深く息を吸い、病室を出た。廊下に響く足音が、いつもより確かに聞こえた。
これは、もう一人ではない。
702号室のドアは、わずかに開いていた。美咲はそっと中を覗き込んだ。窓際に置かれた空のベッド。その横の椅子に、制服姿の少女が一人で座っている。
「あの」
声をかけた瞬間、優子の体が強張るのを感じた。見知らぬ大人への警戒。その感覚は、美咲の体の中でも共鳴した。
「お父さんの...知り合い?」
優子の声が、かすかに震えている。
「いいえ」
美咲は正直に答えた。嘘はつけない。この不思議なつながりの中では、それが一番自然だった。
「隣の田中さんに会いに来たの。でも...あなたの気持ちが分かるの」
優子の目が大きく見開かれた。
「私も感じてる」
少女の声が、少し強くなった。
「夜、仕事のことで悩んでる人の気持ち。それに、病室で本を読んでる先生の...痛み」
突然、廊下から物音が聞こえ、二人は反射的に振り向いた。誰もいない。だが、その時、美咲は確かに感じ取っていた。田中の安堵の感情を。
「優子さん」
美咲は椅子の横にしゃがみ込んで、少女の目の高さに合わせた。
「私たち、なんでこうなったのかは分からない。でも、こうしてつながっている以上、一緒に考えていけたらと思うの」
「でも...」
優子の中で、何かが崩れそうになる。
「私、もう誰も信じられないと思ってた。学校でも、もう...」
その時だった。田中の病室から、咳き込む音が聞こえた。三人の感情が、まるで糸が絡まるように交差する。
「行ってみない?」
美咲は立ち上がり、優子に手を差し伸べた。
「田中先生のところに。きっと、私たちにしかできないことがあるはずだから」
優子は一瞬躊躇ったが、ゆっくりと頷いた。
夕暮れの病室で、三人の物語は動き始めていた。まだ誰も、この不思議な絆が彼らの人生をどう変えていくのか知らない。
だが、それは確かに、希望の形をしていた。
次の更新予定
『感情量子』 つながれない世界でつながった私たち ソコニ @mi33x
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。『感情量子』 つながれない世界でつながった私たちの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます