中編

 大通りから差し込む灯でかろうじてわかったのは、その人がグレーのパーカーを着ていることだけ。

 勝ち目はないことがわかると、男は反撃者の手を振り払って逃げて行った。助けてもらえたんだとわかるのに、十秒ぐらい時間がかかった。その間にパーカーの人はあたしに何か言うわけでもなく、男が逃げて行った方に向かって大股で歩いていく。

「――待って」

 一度も振り返りはしなかった。あたしの「ありがとう」の叫びは届いていたのかわからないが、ぱさりと何かを落としていくのが見え、拾ってみたら黒いレザー製の左手用の手袋だった。返事とかじゃないと思う。


「手袋するときってどんなとき?」

 あたしに背を向けて店の商品棚を整理していたトワが振り返る。すごく間の抜けた顔だった。

「真冬の寒いときじゃないの?」

「ごめん、聞き方間違えた。それ以外で」

「うーん……そうだな。あ、あれは? 手荒れてるときとかハンドクリーム塗って綿手袋つけて寝たりするよ。……あとは、博物館の学芸員さんとか警察の人がつけてない? ところで、なんでこういうこと聞くわけ? 禄でもないこと考えてない? 手袋はめて、指紋を残さないように盗みとかさ」

「あたしがそういうことすると本気で思ってんの?」

 トワは「冗談だって~」とケラケラと笑った。

「ごめんごめん。でもそういうことも可能だよね、手袋って」

「怪しいことできるって?」

「そうそう。――何て言えばいいのかな、自分を隠せる、的な」

「自分を隠せる」。上手い表現かもしれない。あの手袋の持ち主は隠したいことがあったんだろうか?

 今朝は出勤用のバッグに、一度洗濯したあの手袋を入れた。昨夜あんなことがあったばかりだから、夜の大通りに行くつもりはない。でもこれから、どこかであのときの彼(多分、彼)に返すときが来るんじゃないかと思っている。どこかなんて知らないけど。

 ちょうどそこで終業の時間になった。店奥に戻ってタイムカードを切るなり、カバンの中の携帯が鳴る。

「誰から?」

「そういうのじゃないから」

 素早く制服を着替え終わったトワが携帯を覗き込もうとするので、避ける。異性からのメッセージだと思われてるのは明らかだ。

 案の定、発信元は母親からで、しかも電話だった。この頃はメールがほとんどなのに。

「もしもし」

『あ、マドカ? 今大丈夫?』

「大丈夫だけど」

 電話の向こうの母の声のトーンは、いつもより高かった。緊張で上擦ってるとき特有の声。

『今日、家帰って来られない?』

「え、今から?」

 母は昔から時々、無茶なことを言う。

『そう、今から。ダメ、かしら』

 明日も仕事だし無理だよ、と返そうとしたとき、鼻をすするような音が聞こえてきた。

「どうしたの、泣いてる?」

『お父さんがね、倒れたの』


 実家へ向かう公共のバスに飛び込んで、母の指定した実家最寄りの総合病院まで何とかたどり着いた。

「ありがとね、無理言ったのに」

 受付があるエントランスで母が出迎えてくれた。会ったのは一年ぶりだけど、一気に身体が細くなっている気がした。

「お父さん、今いるの?」

「うん。処置してもらったから呼吸も安定して、今は寝てる」

 母に連れられて、入院患者向けの病棟がある四階へ。

「夕方かな、CS放送で映画見てたかと思ったら急にぜえぜえ始めてね。慌てて救急車呼んだの」

 うちの苗字が入口横についた病室前の廊下、ぽつぽつと父が倒れたときの様子を話す母の身体は弱っているように見えた。

 ベッドが四つある相部屋の病室。部屋の奥の窓際のベッドで父は静かに寝ていた。口元に酸素注入器をつけて。起こして何か話をするのも良くない気がして、何も言わずすぐに病室を出た。

「病名とかはわかってるの?」

 廊下のソファにぽつんと座った母が力なく頷く。

「肺がんだって」

 がん。正常な細胞に突然変異が起こることでできる、病の塊。健康な身体ならがん細胞ができた時点で体内が排除してしまうそうだけど、その機能が働かなければ増え続けて体内を蝕んでいく。

 今の父の身体ではがんに勝てなかった。それが何を意味するのかわかって、目頭から涙が零れた。

「しょうがないのかもしれないね、若い頃から何十年も好きなだけ吸ってたし。昔の映画で感化されたかなんかだろうけど、かっこつけちゃって」

 母が、伸ばした人差し指と中指を口元で前後させてみせる。

「全然かっこよくなかったのにさ」

 母の寂しい笑い声が、天井に虚しく反響する。

「手だてはないの?」

「がんのステージとしてはまだ低いみたいだからちゃんと治療すれば一年、二年は生きられるって。……ああ、あとね。新しい肺を移植するっていう手もあるって」

「ドナーをもらうってこと?」

「それもあるみたいだけど、人工肺っていうの? お父さんの健康な細胞から肺を作って移植することもできるみたいだよ」

「人工多能性幹細胞で作るやつ?」

「うん、多分それ。自分の細胞で作るから拒絶反応とか、リスクもあんまりないって。あんた、よく知ってるねえ」

「受けるの、それ?」

 母は何も言わず肩をすくめた。

「一応、今度聞いてみるわ。あの人、価値観古いから『俺はそんなもの絶対に受けねえ』って言うと思うけど」

 父がそう言いそうなことは難なく想像できた。「煙草は身体に悪いもの」として、映画やドラマで規制が入るのが当たり前になった現代でも、頑固に吸い続けて来たんだから。


「あんた、今日これからどうするの?」

 病院を出ると、母が真っ先に聞く。

「まだバスはあるけど、疲れたから泊まる」

「わかった。悪かったね、本当無理言って」

 家までの道を二人、とぼとぼと歩く。

 角を曲がったところで、あたしの足が止まった。

「どうかした?」

「……ここ、まだあるんだ」

 あたしがトカゲと雑草で遊んだ白い廃墟は、今でも朽ちることなく立っていた。十年以上前はあんなに怖かったのに、今となってはもうそんな感情は沸かない。むしろ、懐かしさの方が勝る。大人になるってこういうことなのかな?

「ずっとあるよ。あんた、よく遊んでたよね。住んでる人もちゃんといたのに」

「え、そうなの?」

「やだ、あんた知らなかったの」と、母親が呆れたようにため息をつく。

「時々、白衣の人が出入りしたの何度か見てるわよ。一回だけ顔もちらりと見てるんだから。……有名なあの人、名前何だっけ。この間国葬になった人」

「まさかメグル博士?」

「その人!」

 ありえない。世界的な著名人がこんな寂れた土地にどうして?

「あの人確か、右頬に大きいほくろあったでしょ? ちょうど同じ位置に大きいほくろある男の人が建物に入っていったの。まさかと思ったけど『どなたですか?』とか聞く暇もなかったし」

「追いかけて、一緒に写真撮ってもらえばよかったわね」と、無茶を口走ってうなだれる母。

「夢じゃないの。ニュースで見た博士の顔が記憶に残っていて、それが出てきたんだよ」

 夢って現実と間違えるほどリアルなときもあるし。

「違うわ、あれは絶対に現実だった」

 断固として言い切られる。

「博士がこんなところに来て何するっていうの」

「知らないわよ、博士じゃないんだし」

 オチのない話を続けているうちに、家についた。

 夕食に出された一年ぶりに食べる母の手料理は変わらず、おいしかった。

「このタイ、おいしいね」

 本日の主菜、コクのある味噌だれがたっぷりかかったタイの煮つけは肉厚で食べ応えがあった。

「それね、自然界では生まれないマダイなんですって。パックのラベルに書いてあったわ」

「遺伝子組み換えの結果か」

 標準より肉が多くついた突然変異の種同士を掛け合わせて、より肉厚なタイを作ることも可能らしい。

「安全なのか不安なんだけど、値引きには勝てなくて」

 母の言葉には罪悪感がこもっていた。「遺伝子組み換え食品を口にした結果、人体に予想外の影響があるのではないか」と、気にする人も多い。

「今更だなー。そんなこと言ったら何も食べられないよ」

 遺伝子組み換えによる食品の改良なんて、何十年も前から当たり前に行われてきていることなんだから。

「でも、他の生き物の細胞を切ってつなげるわけでしょ。何だか怖いじゃない」

「そんなこと言ったら、お父さんが受けるかもしれない移植だって……」

 他の生き物の細胞を切ってつなげる。

 やろうと思えば人間でも可能だろう。倫理的には認められていないだけで。

「移植だって何?」

 怪訝な顔で見つめられたけど「なんでもない」と返して食事を続けた。


 家族が寝静まった時間に一人家を抜け出して、秘密の冒険に出る。子供の頃に児童書で何度も読んだあこがれのシチュエーションを大人になってできる日が来るとは思わなかった。

「おやすみ」と共に母が寝室に引っ込んでから二時間後、こっそり家を抜け出した。治安はそこそこいい地元だから、深夜歩いても大丈夫という根拠のない確信を抱いて。

 そこは街灯のぽつぽつと灯った明るい夜の中でも、異様な存在感を放っていた。外壁を覆った白いペンキは、いつでも十分目立つのだ。

 午前零時半ば、携帯とか合鍵やらをベルトポーチにつっこんだあたしは白い廃墟の前に立っていた。

 怖くなかったといえば嘘になる。でも、今行かなければもう二度と足を踏み入れられないような気がして。

 大きい引き手のついたドアは、油がちゃんと差してあるのか、音もなくすっと開いた。ライト機能をオンにした携帯を頼りに中へ入る。

 エントランスから向かって右。あの日、黒い左手の少年がいた柱に光を向けるが誰もいない。

 柱の向こうの突き当たりの部屋のドアに鍵はかかっていなかった。音を立てないようにそっと開ける。

 あたし以外誰もいない部屋には、事務机と椅子が一式、何かの薬品の容器が載った棚。小学生の頃、「子供だけで立ち入らないように」と先生と一緒に入った理科準備室を思い出す。「危険なものがあるから危ない」と何度も聞いたあの部屋。

 机の上に何かが置いてあるのが見えた。必要もないだろうけど、辺りに誰かいないか確認してから携帯の光を向ける。

 紙が挟まったクリップボードだったけど、問題は紙の中身だ。病院を受診するときに書かされるようなカルテには、上部に氏名を書く欄があって、フリガナ欄に「メグル タマキ」とあった。

 メグル。いやいや、全く同じ苗字の別人だ。そうに違いない。名前から下の欄にもつらつらと何か書かれていたけど、それ以上読む気はしなかった。見てはいけないものを見た気がして、足早に部屋を出た。

 エントランスに戻る。途端、上からガサガサと大きめの音がした。音の方を見れば、二階へと続く階段がある。どうしよう、上に誰かいる。

 昇り階段脇に目を凝らすと、何かが光っていた。一瞬、何かの目かと思ったけど、月明りだった。部屋のドアが開いていて、中の窓から漏れ出しているだけ。

 パニックになっていたあたしは、すかさず駆け込んでしまった。

 さっきの部屋より広い室内は、ベッドがぽつんと置かれた中心を大きな棚たちがぐるりと囲んでいる。棚に何があるかは天井付近の窓から差し込んでくる明かりで見えたけど、すぐに後悔する。

「何これ……」

 部屋右手、中央の棚には薬品漬けなのか、透明な液体の中に何かが浮いている瓶が並んでいる。近づいてよく見たうちの一つはヤモリだったけど、その隣は人の手だった。

 嫌な想像のせいで眩暈がして、うずくまる。ここは本当に、メグル博士が怪しい実験を行う場だった?

 立ち上がろうと安易に棚に手をついたのが間違いだった。棚最上部の天板が崩れ、置かれていたものたちが滑り落ちてくる。光で反射したそれは、空のガラス容器。

 左肩を強い力で引っ張られた直後、衝撃を受けたガラスたちが高音を響かせて次々と割れる。後ろの救出者の胸の中に倒れ込んでから、左肩から熱い手が離れた。

「――やっぱり、ここにいたんだ」

 誰なのかは何となくわかっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る