ネバーエンディング・ジェネティック
暇崎ルア
前編
今から十年以上も前になるだろうか。世間のことを何一つ知らない、純粋無垢な子供だったとき。
学校を終えたあたしは、家に帰るとすぐランドセルを放って遊びに出かけた。別に遊び友達がいなかったわけじゃない。でもその頃のあたしは、真っ白い壁をした一軒の廃墟での一人遊びが好きだった。大人たちは「危険だから近寄らない方が良い」と言っていたけど、あたしはそんなことも気にせずこっそり遊んでいた。噂なんかどうでもよくなるぐらい、面白いものをそこで見つけられたからだ。
例えば、白い壁を伝うヤモリ。学校のグラウンドでも、おばあちゃんとおじいちゃんの家でも見つけたことはなかったけど、そこでは本物の生きたヤモリを捕まえることができた。
ヤモリっていうのは不思議な生き物だ。しっぽを切ってしまっても、時間が経てば切り口から新しいしっぽが生えてくる。敵に捕まったらしっぽを切り落として逃げ出すような賢い生き物でもある。それを利用して何回ヤモリを弄んで、しっぽを切らせたかわからない。大人になった今では、よくそんな残酷なことができたものだと思うけど、子供ってそういうものだ。
その日もいつも通り、白い廃墟で遊んでいた。廃墟内の敷地の土には、タンポポとかハルジオンとか春の雑草が生えていて、食べられはしない雑草のサラダを作っていた。
遊んでいたのは、廃墟の入口前だった。いつも誰も出てこなかったから、中のことなんて気にしたことがなかったけど、その日だけ中から誰かの気配を感じた。ドアの透明なガラスから目を凝らしたら、あたしと同じ背丈ぐらいの誰かがいるのが見えた。
金色の大きい引手がついたドアは、子供でも力をぐっと込めれば開いた。
エントランスに入って右の柱、黒髪の男の子がいた。日焼けをしていない真っ白な顔のその子は、柱の陰に半身を隠すような恰好で、入ってきたあたしのことを驚いた顔で見ていた。
「ここで何してるの」
どちらかというと人見知りはしない性質だったから、平気で話しかけた。近所には同年代の子供がいなかったこともあって、その少年に興味を持ったんだと思う。
及び腰になっていたその子は口元をぱくぱくさせただけで、何も答えなかった。
「一緒に遊ばない?」
やっぱり反応はなく、こっちを見ているだけ。
こっちばかり話しかけているのが馬鹿みたいに思えてきて、あたしはいらいらしていた。遊びたくないなら遊びたくないという意思を、ジェスチャーでも伝えてくれればいいのに。
「なんか、言ってよ!」
あたしはずかずかと近づいていって、青いチュニックに包まれた少年の右腕を掴んで引っ張った。そんなに強く引っ張ったつもりはなかったのに、引っ張られた少年はふらふらとよろけた。
そのときに、柱に隠されていたもう片方の腕が露わになった。
チュニックから露出した左手。右手は真っ白だったのに、反対の手は人間の肌とは思えないような、灰色に近い黒い色をしていた。
この子はあたしとは違う。どこをどう通ったかもわからないけど、気がついたら家の玄関ポーチでかがんで息を切らしていた。
それ以来、その廃墟では遊ぶことはおろか、近づくことすらなくなった。それから長い時が過ぎて大人になった。
それなりの厳しさは伴うけれど、大人になったら自由が与えられる。不可解で嫌な記憶がある故郷を離れて一人で暮らすこともできる。
実家がある郊外を離れ、都心の美容系専門学校を出たあたしは、そのまま新卒でコスメ店を経営する会社に入った。
「ごめ~ん、待った?」
「大丈夫。あたしが早かっただけ」
約束したレストランに、同僚兼友人であるトワは時間通りに来た。休日でもばっちりメイクを決めていて、コスメ会社の社員の鑑だ。
「今日さ、人多くない? 大通りとか人詰めかけすぎて通りづらかったわ」
テーブルに着くなりすぐ、オーダー用タブレットでイタリアンサラダを注文したトワは、喪服を着た人々が路上を埋め尽くしている窓の向こうの風景を不思議そうに見る。
「ニュース見てないの? メグル博士の国葬、今日だよ」
そうだっけ? とトワが首をひねる。自分が興味ある情報しか仕入れない、テンプレートな現代人だ。
「そもそもメグル博士って何した人だっけ? 中学の理科の授業で聞いたことはあるけど」
「遺伝子編集技術の研究者だよ」
あたしも学術的なことには全く詳しくないけれど、メグル博士は日本人だったら名前ぐらいは聞いたことがあるであろう人だと思う。
「人工多能性幹細胞」という細胞が発見されたのは、あたしたちが生まれる何十年も前。人間の血液から採取できるというこの細胞は、様々な細胞になることができるので、病気の治療に使用できる最先端医療技術として注目された。開発当初の十年でも、がんや白血病などの治療に使われていたという。
この万能細胞を、原因不明とされたパーキンソン病などの難病にも使用できるようにしたのがメグル博士だ。彼の研究の功績は大きく、世界的にも栄誉ある賞を受賞した博士は「現代日本が産んだ生命科学の一人者」として世界にその名を知らせた。
その博士も一か月ほど前に老衰でこの世を去った。大きいほくろのついた頬でにっかり笑う生前の写真と共に博士の死は瞬く間に全世界へ広まり、国内外で大勢が死を惜しんだ。その結果、都内で国葬を今日行うことが決まったのだ。
昼の十二時から始まった葬儀はすっかり日が暮れたこの時間でも続いていて、このレストランから見える路上でも、博士の死を悼む人が絶えることはない。
全世界から集まったんだろう。道端の参列者には、多種多様な顔ぶれが見受けられる。
「なるほどね。それじゃ、少しは不謹慎な人もいるわけだわ」
路上には悲しみに暮れる参列者がほとんどの中、「命の冒涜者よ、さらば!」などと心無いプラカードを持ってる人もいたという。
「まったく、命を冒涜してるのはどっちだか」
トワがむっとしたように吐き捨てる。メグル博士の研究が難病に苦しむ人々にとっての救いとなっているけれど、「細胞という生命の源を改造するマッドサイエンティスト」として敵視する勢力が少なからずいるのも事実だ。中には「他の生物の細胞を人間の細胞につなげる禁断の実験を秘密裏に行っている」とか「自分の息子を実験道具として、怪しい手術を行った」とか陰謀論めいたものもあるらしい。どうせ著名人にはつきものの「有名税」で、嘘だろうけど。
「しょうがないよ。物事にはあらゆる側面があるってことでしょ」
「これ以上にない真理だね」
トワは大きく頷いて、オリーブオイルドレッシングがたっぷりかかったトマトを口に放り込んだ。
トワとのディナーは思いのほか楽しくて、気がつけば夜の八時を回っていた。
「じゃあね、また明日頑張ろ!」
軽い挨拶とともに、トワはあたしとは真逆の帰路を帰って行く。
レストランから自宅までは歩いて十五分。さすがに博士の国葬も終わり、通りにならぶ店もほとんど今日の営業を終えているので、辺りは静かだ。
最後に飲んだロゼワインのせいで気分も軽く高揚していたし、足元なんか千鳥足だった。だから、背後からの気配にも気づけなかったんだろう。
自宅のアパート前の横断歩道までさしかかったとき、後ろから誰かの大きい手が両腕を掴んだ。振り向いたら、あたしより頭一つ分大きい男と目が合う。
黒いキャップを被った不審者は何も言わず、強い力であたしの身体を路地に引っ張っていく。
「やめてよっ」
持っていたハンドバッグで相手の腕を何度もたたいたけど効くはずもなく、暗い路地の地面の上に押し倒される。ブラウスの一番上のボタンにも手がかけられた。最悪だ。「夜道には気を付ける」ことが、この社会で生きていくことの鉄則の一つなのに。
全て諦めて目を閉じたとき、ぐええっと自分じゃないうめき声が聞こえた。ガシーン! と金属製品に重い物が強く叩きつけられるような音も。
目を開けるとあたしを襲ってきた不審者が、背の高い人物に金属製のドアに叩きつけられているところだった。
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